毎回「出張費」が支給された
前述の通り、当時の日航は最新鋭のダグラスDC―8を導入したとはいえ、すべての旅客機がジェット機に様変わりしたかと言うとそうではなく、整備の劣る旧式のプロペラ機も併用していた。故障も多かったが、それでも大事故を未然に防いだのは、9年前の「もく星号墜落事故」の教訓もそうだが、真珠湾攻撃からミッドウェー海戦まで戦った藤田怡与蔵や、同じくミッドウェー海戦で米軍機の銃撃を受けながらも墜落を免れたことで知られる迫守治といった、歴戦の海軍軍人の多くが、戦後は日本航空のパイロットとしてコックピットに座っていたことも無関係ではなかっただろう。そんな伝説のキャプテンが操縦する旅客機に、採用半年の新人スチュワーデスが搭乗していたのである。
とはいえ、いくら新人と言っても、報酬だけは破格だった。1961年の大卒の初任給が1万2900円という時代に、日航に就職したばかりの敬子の月給は1万3000円。その上、パーディアム(出張費)が1回の就航につき2000~3000円(現在の価値で約5~6万円)も付いた。現地の安い店に出入りさせないためで、常々「お前たちは日の丸を背負っていることを忘れるな」と上司に厳命されもした。考えてみれば、敗戦から11年しか経っていないのである。
それでも、出張費を使うことは稀だった。
「アメリカに飛ぶ北回りのときなんか、アラスカのアンカレッジ経由で行くんだけど、寒いから、外になんか出たくない。ホテルの中のレストランで簡単にすますでしょう。お金なんか使わないんです。ヨーロッパ航路の南回りは、確かパキスタンのカラチ経由だったかな。暑くて暑くて外に出られたもんじゃない。だから、お金が随分と貯まって仕方なかった」(田中敬子)
敬子の実弟の田中勝一は、姉が海外航路から帰ってくるたびに、高価なお土産を持って帰って来ていたことを記憶している。
「日本では到底買えないような珍しいお菓子とか、服なんかもありましたかね。海外から帰ってくると、時々そういった土産を買って帰って来たのを憶えています。だって、こないだまで予備校に通ってたのが、いきなり高給取りですから、見てるこっちも不思議でしたよ」
さらに、こうも言う。
「昔からスチュワーデスの給料ってかなり良かったんです。でも、忙しくて遊ぶどころじゃなかったと思うんで、ほとんどお金は使ってないんじゃないかな」