佐々木が在籍していた大船渡の監督だった頃とはだいぶ表情が違って見える(筆者撮影)
朗希だけが特別な才能だとは思わない
それでも再び同じような状況に置かれた球児が目の前にいたら、國保氏は迷わず同じ判断を下すと断言する。
「血液検査の結果や骨密度を測った結果からして、高校を卒業する段階では彼の成長は止まっていなかった。成長期に分泌されるような物質が血液の中にありましたから。卒業後のプロ1年目ですら、球速に耐えうる体作りの段階にもほど遠く、身体作りができる状態になるのを待っている状態だった」
佐々木が入団した千葉ロッテも、そうした状態を鑑みてプロ1年目から無理に起用することはなく、実戦登板を急かさなかった。当時の投手コーチで、現監督の吉井理人氏は筑波大学の大学院で学んでいた経験があり、川村卓・筑波大硬式野球部監督と親交があったことも幸いした。川村氏は國保氏の恩師であり、佐々木への指導の相談にも乗ってもらっていた。
「本当に朗希にとって、最適の環境で野球をやらせてもらっているのではないでしょうか」
高校時代の佐々木の変化球はスライダーが主だった。ところが、プロ入り後は主にフォークボールに球種を絞ってスライダーは投じてこなかった。今年3月、侍ジャパンの宮崎合宿の初日に、佐々木はダルビッシュ有(パドレス)と室内練習場でコソ練をしていた。ふたりの会話に聞き耳を立てていると、ダルビッシュは佐々木に握り方やヒジの使い方を解説し、「スライダーは怖がらなくて良い」と声をかけていた。
すると、合宿中のブルペンでは、トラックマンのデータを確認しながら、スライダーを投げていた。それを見守ったダルビッシュは、「数値を見ても、アメリカでいう“スイーパー”と呼ばれるスライダーになっていた。自信を持っていいボールだと思う」と賞賛。教わったことをすぐに体現してみせるのも、佐々木の秀でた才能だと國保氏が解説する。
「高校時代から、見たものを実際に自分の動きで再現する能力、運動共感能力が優れていた。だからこそ、教わったことをすぐに修得できるのかもしれない」
佐々木が高校3年生だった当時、國保氏はまだ32歳だった。佐々木と過ごした2年半の日々は、指導者人生の大きな刺激となったのではないだろうか。
「190センチの身長で、160キロという球を投げる……そして、早熟ではない晩成型の野球選手。そういった意味では珍しいタレントですが、現代では180センチを超えるピッチャーはけっこういますし、うち(盛岡一高)の捕手も身長が高い。朗希だけが特別な才能だとは思わないんです。もちろん、僕の指導者人生に大きな影響は与えたと思いますが、朗希のようになる可能性を持つ高校生はいっぱいいるんです」
そして、こう続けた。
「ただ、朗希はうまく成長した。その成功例なだけだと思います」
2009年春の選抜で準優勝した菊池雄星、2012年に160キロマークした大谷(いずれも花巻東)、そして2019年の佐々木。岩手では約10年の間に、怪物と呼ばれるような球児が3人も生まれ、先人のふたりは世界へ羽ばたいている。
なぜ岩手にかくも連続して怪物が生まれるのか──。
その問いに対し、國保氏は独自の見解を口にした。キーワードは「晩成型」だ。
【後編へ続く】