盛岡第一のユニフォームを着て笑顔の國保氏(筆者撮影)
「出場回避」が正しかったのかは今もわからない
岩手県立盛岡第一高校、筑波大学と野球を続け、短期間とはいえ米国の独立リーグも経験したことのある國保氏は、その後、岩手県で体育教師となり、佐々木が入学した2017年に大船渡高校に赴任した。入学間もない佐々木を見て、大谷やスティーブン・ストラスバーグ(現ナショナルズ)に迫りうる一握りの才能だと確信。この将来性豊かな高校生を「壊してはいけない」との重責を自身に課し、投球間隔や肩肘の疲労に配慮しながら指導した。
ここまでは出会った当初の見立て通りの成長といえるのだろうか。
「野球というスポーツは相手あってのことなので、結果というのは時の運でしょう。ただ、身長が高くて(192センチ)、あれだけ手足の長さがあれば、必然的にリリースポイントが打者に近くなって、打者に与える時間は短くなる。すると、結果は出やすいのかなと思う」
いつも通り、淡々と飾り気のない言葉で教え子の成長を表現した。WBCで世界に与えた衝撃も、今季開幕からの20イニング連続無失点の記録も、健康でありさえすれば驚くほどのパフォーマンスではない──國保氏の言葉は、そんな風にも聞こえた。
令和の怪物と國保氏といえば、思い出されるのはやはり4年前のあの日の決断だ。
2019年の夏、大船渡高校を率いていた國保氏は岩手大会決勝のマウンドにエースの佐々木をマウンドに送らなかった。そして、野手としても起用せず、打席に立たせることもなかった。理由は「故障から守るため」。前日の準決勝で129球を投げていた佐々木の疲労を考慮し、当日の表情や歩き方を見て出場回避を独断で決めたのだ。その結果、チームは花巻東に大敗した。
試合後、大船渡高校にとって35年ぶりの甲子園切符を目前にしながら、エースを投げさせないという采配には賛否両論が渦巻いた。元智弁和歌山監督で、歴代最多勝記録を持つ高嶋仁氏らを筆頭に、「投げさせるべきだった」というような論調が数多く存在した。
「張本(勲)さんにも批判されましたね(笑)」
だが、こうして覚醒を見た今となっては、そうした批判を繰り返した人や筆者のように疑問を投げかけた者も、掌を返すように「英断だった」と口にするだろう。國保氏にもそうした賛辞は届いているはずだ。
「あの試合が終わった瞬間も、1年後も、朗希が完全試合を達成した昨年も、そして今も、あの決断が正しかったのかは僕にはわかりません。それは答えの出ないもの。当時の選手が大学4年生の年齢になり、レギュラーで頑張っているやつもいれば、学生コーチとしてチームを支えている者もいる。朗希より一つ上の代も、一つ下の代も、タレント揃いで、身体能力が高く、野球熱のある子ばかりだった。彼らのためには、(甲子園を目前にしながらエースを投げさせないという)あの判断が果たして良かったのか……」