南京事件も以前に概略は紹介したが、基本的には中国の南北戦争(第二革命軍VS袁世凱軍)の過程で南軍が一時掌握していた南京を北軍が奪回したときに、民間の日本人が北軍の銃撃を受け殺害された事件である。そもそも、漢口事件において北軍兵士が西村少尉等に加えた私刑の例を見てもわかるように、この時代の中国軍とくに袁世凱軍は国際法のルールを守らない無法集団に近いものであった。
中国史を紐解けば、近代以前の中国兵が民衆から蛇蝎のように嫌われていたケースが少なくないことに誰もが気がつく。国家の権威を笠に着て庶民から金品を奪ったり、婦女を凌辱することも珍しくなかった。この南京奪回戦においても勝ち誇った北軍兵士による蛮行は激しかった。この南京事件を報じた一九一三年(大正2)九月五日付の『東京朝日新聞』では、その様子を「虐殺掠奪頻々」という見出しを付けて次のように述べている。
〈南京に進入せる北軍は暴逆無道其極に逹せり 武装無き南軍の新募兵一千の半數は虐殺され叉掠奪隊の爲めに市民の斬殺せらるゝもの少からず貧富の論無く城内民家にして掠奪を免れたるもの一もある無し 掠奪品は城内三千の人力車を徴發し人夫を雇ひて之を曳かせ凱歌を奏して城外の司令部に運搬し門前山を成せり 富者は己に避難せるも中流以下の者は自ら掠奪せられたる上掠奪兵の手先に使はれ竹棒にて運搬せしめられつゝあり〉
日本でも、戦争に勝った兵士が侵入した敵地で略奪行為を繰り返した例はいくつもあった。ただし、それは戦国時代の話である。武田信玄は捕虜として「掠奪」した女性たちをセリにかけて売り飛ばし、軍資金を稼いだ。海音寺潮五郎の『武将列伝』にも紹介されている有名なエピソードだ。信玄だけでは無い。そもそも戦国大名というのはそういうものであった。
ふだん平和に暮らしている百姓たちを、領主の権威で無理やり足軽として徴兵する。逆らうことはできない。そんなことをしたら家族はどんな目に遭わされるかわからないからだ。そして彼らは、戦場でいやいや人殺しをさせられる。当然士気は上がらない。そこで武士たちは、足軽たちに「この城を落としたら後は勝手だぞ」と発破をかける。略奪も強姦もし放題ということだ。これを「乱妨取り」といい、そういう余禄があるから原則的には無給の彼らも一生懸命戦ったのである。
しかし、唯一織田信長だけが商業を盛んにすることによって兵士に給料を払った。だから、初めて上洛した兵士たちに略奪を厳禁することもできた。それゆえ信長は他の大名と違って、天下の人々から信頼を得ることができたのだ。このあたりが大河ドラマを見ていてもわからないところで、武田信玄のような旧大名と織田信長はまったく違うのである。ちなみに、その後も豊臣家の大坂城が落城したときは、信玄のように城内の女を略奪しようとした大名がいた。その有様は『大坂夏の陣図屏風』にも描かれている。
要するに世界の常識では勝者が敗者から略奪するのは当然で、一種の権利のようなものだと考えられていたのだ。しかし、日本でも欧米でもそうした野蛮行為は近世に至るなかで消滅した。しかし、近代に至っても「昔のまま」であったのが中国だ。中国人自身は中華思想によって自分たちの国が道徳的にも最高だと信じていたが、実態はまったく逆であった。とくにこの時代は、清朝が倒れてまだ間も無い時期だ。留学組の上級将校はともかく、下級兵士は「勝ち戦」における略奪があたり前だと思っている。
国際法では「武装無き兵士」は殺さずに捕虜にしなければならないのだが、そんな常識は北軍兵士には無い。だから丸腰の南軍兵士は虐殺され、南京城内の日本人経営の商店もほとんどが略奪の対象となった。そこで略奪から逃れようと逃げ遅れた日本人が日の丸の旗を体に巻いて、日本人であることを示しつつ領事館に逃げ込もうとした。だが、彼らは北軍兵士によって殺害されてしまったのである。
(文中敬称略。以下次号〉
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2023年6月9・16日号