「おとんの側にいたかった」
幸夫さんとの2ショット(石川雄洋提供)
今年は勝負の3年目。宜本やチームメートは今年も石川と共にプレーすることを疑わなかったが、その時は訪れなかった。突然の現役引退。理由は父・幸夫(ゆきお)さんを襲った病魔だった。
幸夫さんは石川にとって自慢の父親だった。社会人野球で投手としてプレーし、東映フライヤーズのプロテストを受けた経験を持つ。石川が小3の時に学童野球チームの清水町少年野球団に入ると、仕事を終えて帰宅後のキャッチボールが日課に。休日は少年団で子供たち相手に打撃投手を務めた。土日で投球数が400球を越える時も。石川は「きれいなフォームの右投手で球が速かった。あまり口数が多くないのですが、穏やかな話し方で気づいたことを丁寧にアドバイスしていました。チームメートはおとんに教えてもらうために、僕の家に集まって素振りやティーバッティングをしていました。怒鳴られたことも、褒められたこともあまり記憶にないんですよね。おとんから『お兄ちゃん(石川)、凄いじゃん』って言われたことはあったけど……。でも常に僕の一番の味方でいてくれた」と振り返る。
石川が横浜高に進学し、DeNA入団後にレギュラーをつかんで活躍した時も温かく見守り続けていた。ファームの横須賀や横浜スタジアムに頻繁に通い、打撃フォームなど気づいたことを手紙で伝えていた。便せん3枚にびっしり書き込まれていたことも。当時のDeNAは低迷期で、スタンドから心無いヤジが飛び交っていた。幸夫さんは息子がヤジの標的になったことに心が痛んだのだろう。「あんなヤジは気にしなくていい。自分のできることをやればいい」と綴られていた時があったという。