そして、その傾向が「完成」したのが一九三二年(昭和7)の犬養首相暗殺事件(五・一五事件)で、これによって日本の政党政治は終止符を打った、というのが近現代史の一つの構造と言えるだろう。

 ちなみに「中国人に対する蔑称」はなんと言うのか、あえて記しておこう。それは「チャンコロ」という。中国語で「中国人」の発音は「チュンクオレン」(カタカナでは正確に表記できない)だが、それから派生した言葉だろう。アメリカ人の日本人に対する蔑称は「ジャップ」だが、これも正式な英語「ジャパニーズ」から派生した言葉である。とにかく「幼い少年」までこういう言葉を口にしていたのは歴史的事実なのだから、歴史家としてはそれをきちんと記録し後世に残さねばならない。

 言うまでも無いことだが、もちろん日常では決して使ってはいけないのは当然だ。だからと言って、記録しないというのは歴史家としてはきわめて怠慢であると私は考える。ちなみに、ロシア人に対する蔑称は「ロスケ」といった。

 この五・一五事件でさらに重要なことは、結局この「助命嘆願」が功を奏して犯人が一人も死刑にならなかったということだ。犬養首相が「話せばわかる」と暴徒を説得しようとしたのに対し、彼らは「問答無用、撃て!」と叫び、二名が拳銃を発射。このうち黒岩勇海軍予備少尉と三上卓海軍中尉が放った弾丸合計二発が首相に命中し、これが致命傷になった。

 いずれこの事件のことは昭和史のなかで詳しく扱うことになると思うが、ここで言っておかねばならないのはこの二人とも軍法会議で死刑を求刑されたにもかかわらず、黒岩が禁固十三年、三上が禁固十五年という、きわめて軽い判決が下されたことである。そればかりでは無い、三上に至っては紀元節などを機に数度の恩赦による減刑を受け、服役わずか四年九か月で出所した。とくに三上が「特別扱い」されたのは、こうした「国家改造」を志したすべての人々の愛唱歌と言っていい『青年日本の歌』の作者(作詞・作曲)でもあったからだろう。この歌は、一般には『昭和維新の歌』として知られている。

「国士」ならどんな蛮行も許される

 この五・一五事件の直後に成立したのは、軍人内閣ではあったが伊藤博文、西園寺公望、山本権兵衛という反侵略路線の流れをくむ齋藤實海軍大将を首班とする内閣であった。しかし、それでも満洲国承認(それは国際連盟脱退を意味する)の流れを食い止めることはできなかった。逆に言えば、齋藤内閣は満洲国承認に踏み切ったという点で「侵略派」に一歩譲ったということでもあるのだが、彼らはそれでも満足せず、すでに述べた帝人事件で齋藤内閣を崩壊させ、さらに四年後の一九三六年(昭和11)に二・二六事件で当時内相を務めていた齋藤を暗殺した。その中心となった陸軍若手将校の愛唱歌が、この『昭和維新の歌』であった。

 結果的に二・二六事件の首謀者たちは軍法会議で死刑になったものの、彼らが決行に踏み切ったのは先行する五・一五事件で首謀者がまったく死刑にならなかった、という「安心感」があったからという見方もある。それを体現していたのが三上卓だ。なにしろ首相を殺しても五年足らずの服役で娑婆に戻ってこられる。「国士」としての誠実さによって行なわれたことなら、どんな蛮行も超法規的に許されるという風潮を五・一五事件は生み出してしまったのである。そして、その端緒はそれよりも十九年前の阿部守太郎暗殺事件と、それを「誘発した」マスコミの報道に端を発すると言っていいだろう。

 先ほど「チャンコロ」という中国人への蔑称をわざわざ記述したのは、この当時いや「戦前」と呼ばれる時代、誰もが知っていた常識だったからである。「その当時はなにが常識であったか」をまず認識し分析するのが歴史研究者の常道のはずだが、日本はこうしたことがなおざりにされている。それは言霊信仰の影響で、「言葉を消せば実体も消える」から「嫌なこと、繰り返したくないことは百科事典にも載せない」などということになる。

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