人が作る“表現”に触れた「初めての経験」
その場でキグレサーカスを紹介される流れとなり、久田さんは息子を連れ、炊事係としてテントに住み込みながら働く生活にたどり着いたのだった。1983年のことである。家族ごと暮らすサーカス芸人も多く、テントには同年代の子どもたちもたくさん住んでいた。稲泉さんは「れんれん」の愛称で呼ばれ、泣き虫ではあったが、皆と同じように大テントの中を駆け回って過ごした。
「それからの1年間というのは、本当に僕の中で大切であり続けています。すごく大きなもの、というか、今思うと、僕の中の核となるものとして残っている。なぜそう思うのかというと、僕自身サーカスが本当に好きで、最初の1か月はショーが始まると毎日欠かさず見ていました。その時の風景を強く覚えているのです。飽きずに何度も何度も見たのは、サーカスのショーという、人が作る“表現”にたっぷり浸かった初めての経験だったからなのだと思います。
また、うちが母子家庭ということもあって、大勢が同じ釜の飯を食う環境も初めてでした。家族ではないのだけれど、いろんな背景を持った人たちが緩やかな関係を築いて、支え合いながらひとつのショーを作っているその雰囲気とか、2か月に1度、大テントを畳んで次の土地に移る“場越し”のときの寂しさとか……。自分の記憶の糸をずるずると辿っていくと、やがてたどり着く。僕にとってのサーカスはそういう場所なのだということが、この本を書いているうちにわかってきた」
『サーカスの子』は稲泉さんが、サーカスにいた頃に出会った人たちを40年ぶりに訪ね、当時の記憶を丁寧に探し歩く物語だ。会う人ごとに「れんれん」「連くん」と当時の愛称で呼んでくれる。同じ釜の飯を食った仲間だからこその距離感だ。そうしたやり取りの積み重ねは、とても私的な作業のように見える。しかし、読者は作者の記憶の向こうに、個人的な思い出以上のものを読み取ることになる。
華やかなステージの裏で繰り広げられる人間模様は決して楽しいことばかりではない。ショーという夢を売りながら、宵越しの金は持たない芸人たち。それでも生活に困ることはなかった。サーカスのテントに暮らしていれば三度の食事は用意されるし、金がなくなれば誰かがどうにかして都合してくれた。
サーカスという組織は、大きな家族のように機能した。ただ、それが永遠に続くわけではなかった。
「ショーをやりながら、全国を移動して行って、その場所ごとで本当に様々な人が通り過ぎていくような場所でもあって、通り過ぎていく人たちが寄り合うように一瞬一瞬、その時々を共に暮らし、支え合ったりしながら、それでも外に出ていく、サーカスは、場所や時代に合わせて形を変える有機体のような存在でもあったようにも思います」
来る者拒まず、去る者追わず。の精神がサーカスにはある。芸人を辞めて“娑婆”に出ていく人も多くいた。しかし、サーカス以外の生活を知らない芸人も少なくない。娑婆での日々に戸惑い、生活を破綻させる例もあったようだ。