1945年4月、沖縄本島へ上陸した米軍に未使用状態で鹵獲(ろかく)された桜花
神立:戦争中は敵国の音楽を大っぴらには聴けなかったんでしょうね。
湯川:思えば私が曲名を訊いたときは母も隣にいましたから、「いまアメリカでヒットしてる曲だよ」なんて言えるわけがない。母は軍人の妻ですし、そんな敵性音楽を聴いていたら憲兵に逮捕された時代です。長兄は、危険を冒してでも聴くほど、アメリカの音楽が好きだったんですね。
神立:そういえば鹿屋基地から出撃した特攻隊パイロットの辞世の句に「ジャズ恋し/早く平和が/くればいい」と詠んだものがあったそうです。
湯川:戦争のせいで無惨に死んでいった若者が大勢いたということですね。
「私は泣きわめく女になります」
神立:お兄様だけでなくお父様もモダンでしたか。
湯川:はい。ばりばりの軍国少年だった次兄以外は、みんなモダンでしたよ(笑)。私が3歳くらいの頃、週末の夜になると応接間の蓄音機に長兄や11歳上の姉が針を落として、両親がダンスを踊っていました。
神立:当時としては、かなり珍しいですね。
湯川:私は父の足の甲に乗って、太ももに抱きつき、サンドウィッチになってダンスしていました。ワルツとかフォックストロットとか。楽しい思い出です。それが私の音楽初体験だったと思います。
神立:ご両親の出身地である米沢は文武両道の風土だそうですね。
湯川:はい。特に父は漢詩が好きで、床の間には自作の詩が貼ってありました。父が息子たちに言っていた「千鈞の弩はけい鼠のために機を発せず」という言葉も強く記憶に残っています。「大きな怒りは弱い者に向けるな」という意味だそうです。
神立:お父様は連合艦隊司令長官だった山本五十六のご親戚だそうですね。
湯川:父のいとこが山本五十六の妻にあたります。海軍大佐だった父は中国の上海や青島で駐在武官を経験した後、軍令部で作戦指揮に携わった。五十六さんとは海軍同士で、直のいとこのような付き合いだったようです。
神立:次兄の湯野川守正さんは南方に出陣する際、戦艦武蔵に山本五十六さんを訪ね、挨拶されたとおっしゃっていました。
湯川:私も五十六さんのお葬式に出ているんです。まだ小さかったから、天皇陛下からの供物の落雁が積まれているのを見て「一つほしいな」と思った記憶が(笑)。甘いものがない時代でした。