何の予兆もなく“その日”がやって来れば、混乱の中で最愛の人の死を受け入れなければならない苦しみと対峙することになる。
「少し華やかな色の服を着たり、今日は鉢植えを変えようなど一日ひとつやることを見つけたりして、日々の生活を楽しんでいます。最近はアフォガードに凝っていて、いろいろな店を食べ歩くのも楽しい。いろんなお店でいただいています」
笑顔でそう話す柏木由紀子(75才)は最近、SNSで披露するファッションが注目され「シニア世代のおしゃれ番長」とも呼ばれている。しかし彼女は38年前、混沌と絶望の渦中にいた。1985年8月12日、乗客乗員520人が死亡し、4人が重症を負った日本航空機墜落事故。夫の坂本九さん(享年43)も二度と帰ることのない乗客のひとりだった。
「あまりにも突然の出来事で、テレビで『坂本九』という名前が連呼されたけれど、私と小学生の2人の娘は聞こえないふりをして家族の中でも話題にしませんでした。パパは海外に長く出かけていて、いつか帰ってくるような感覚で過ごしていたんです」(柏木・以下同)
しかし現実を受け入れざるを得ないときがやって来る。
「私たちはこれからどうなるの? ママが働かないと食べていけないの?」
葬儀が終わってしばらくして、娘たちにこう聞かれたのだ。
「子供がそんなことまで心配しているのかと胸が痛み、わが家を守るため、子供を安心させるために仕事を再開しました。それまで何でも夫に頼りっぱなしだった自分が、“負けていられない。頑張らなくちゃ”と180度変わりました。変わらざるを得なかったというところもあります」
再開して最初の仕事は1986年1月。坂本さんが長く司会を務めた広島のテレビのクイズ番組を引き継ぐ形だった。
「スポンサー会社の専務から『広島は原爆でどん底に落ちてからよみがえった。だからこの地であなたの仕事を始めてほしかった』と声をかけていただいて、それがすごくうれしかった。
当時は全国のかたがたからものすごい量の温かいお手紙をいただき、その中には同じ境遇の人たちからのものもあって毎晩、子供が寝静まってからひとりで読んで泣いていました。新幹線に乗っていると『頑張ってください』と書かれたメモを手渡されたり、町で声をかけられることも多かったです。多くのかたから励ましていただいたことにはいまでも本当に感謝しています」