「目白御殿」の敷地内には、本邸とは別に、事務所棟があったという。
「事務所棟のほうに来客があると、背広姿に下駄を引っ掛けたオヤジが本邸からやってくる。靴下に下駄だから、ちょっと妙な格好なんだけど、庭に敷き詰められた砂利を下駄でじゃりじゃり踏みしめる音が印象的でね。
とくに元日は、議員や支援者の方々が大勢いらっしゃるんですよ。1日で1000人くらいは来客があったんじゃないかな。目白の家中、お客さんで溢れかえっていた感じだね。そうした人たちは大型のバスでやってくることもあったのですが、バスが停められるスペースが敷地内にあるんですよね。それだけ大きなお屋敷でした。
事務所棟には100人くらい収容できるホールのような場所があって、午前中に客を招き入れて、挨拶し、酒を飲む。そして、午後になるとオヤジは本邸に戻って少し休憩する。その後にまたホールに出てきて、来客と酒を飲んで話をする。その話が面白くてね。来た人はみんな喜んでいましたよ。
地元・新潟から越山会(角栄氏の後援会)の方々が団体でバスをチャーターしてオヤジに会いに来たときは、一人ひとりに笑顔で応じて、一緒に写真に収まっていた。そんな姿が走馬灯のように頭の中をぐるぐる巡っています」(朝賀氏)
コンピューター付きブルドーザーと言われ、日本列島を改造しようと奮闘した角栄氏は、晩年車いすの生活になっても、目白御殿で過ごした。
「あの家が燃えてしまったのは、本当に寂しい。戦後の焼け跡の時代があり、その後の日本を作った男の家が焼失した。盛者必衰という言葉もありますが、名実共に昭和の時代が終わったのかもしれない。今はそんな思いがしています」(朝賀氏)
撮影/山本皓一
※週刊ポスト2024年1月26日号