窮屈な日常から抜け出す自由さ

「赤毛連盟事件」の失敗が尾を引き、引きこもるホームズに、彼に憧れを抱いていたアイリーンは推理対決を挑み、それは彼女の元同級生でもあり記録係のメアリと夫ワトソンとの〈夫婦対決〉をも意味した。

 やがてホームズは町を離れ、旧友が当主を務めるマスグレーヴ家の竹林に庵を結ぶが、この洛西の名家こそ、彼がワトソンと出会う前に手がけた未解決事件の現場だった。が、同家の令嬢が12年前に失踪した謎を、ホームズは〈この世界には解こうとしてはならない謎というものがある〉と退け、アイリーンにこう忠言する。〈ふしぎなものをふしぎのままに受け容れてしまう。僕たちにできることはそれだけなのだ〉と。

 また巷で話題の降霊術や〈心霊主義〉の台頭、マスグレーヴ家の先代が頓挫させた〈月ロケット計画〉や、『竹取物語』との符合など、様々な不思議を絡めつつ、物語は思わぬ展開へと進む。

「つまり探偵は本来、自分の外側にある事件を解決するけれど、本書のホームズは自分の内側に謎を抱え、それが解けるのはミステリーよりもファンタジーだと思ったんです。たぶん当時は僕自身がスランプ気味だったのもあって、自分とは何かとか、掘れば掘るほど出てくるんですよ、虚無的なものが。

 でもそこから何とかして凱旋しないと面白いエンタメにはなりませんし、そうした虚無が今も口を開け、日常が壊されたりすることと、『有頂天家族』(2007年)みたいなお祭り状態に向かうことは、我々が生きることの両面だと思う。その両極をいつも意識して書いてはいます」

 不思議なのは著者の手にかかると、その作品世界がどこにあろうと、別にいいような気がしてくること。

「我々の日常は何かにつけ窮屈なものですし、そこから抜け出して、こんな世界もアリなんだとか、こういう人もいていいんだとか、そういう自由さがやっぱり大事だと思うんですよね。

 そして何も説明しなくても、読み終わる頃に、あ、ヴィクトリア朝京都、懐かしいなと思ってもらえたら、その世界はもう存在する。だから絶対説明したらあかんって、思ってました(笑)」

 その自由さはパラレルを優に超え、彼らがどこかに生きていると信じられることが、何とも嬉しく思えてくるのである。

【プロフィール】
森見登美彦(もりみ・とみひこ)/1979年奈良県生まれ。京都大学農学部卒。同大学院農学研究科修士課程修了。2003年、在学中に執筆した『太陽の塔』で第15回日本ファンタジーノベル大賞を受賞しデビュー。2006年『夜は短し歩けよ乙女』で第20回山本周五郎賞、2010年『ペンギン・ハイウェイ』で第31回日本SF大賞、2014年『聖なる怠け者の冒険』で第2回京都本大賞、2017年『夜行』で第7回広島本大賞、2019年『熱帯』で第6回高校生直木賞。映画化、舞台化作品も多数。174cm、62kg、A型。

構成/橋本紀子

※週刊ポスト2024年2月9・16日号

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