1984年ソウル五輪「競泳男子100メートル背泳ぎ」で金メダルを獲得
25mプールでバサロキックを練習
そうして生まれた独自の戦い方が、バサロキックで長い距離を潜行する泳法だった。ソウル五輪の決勝では、水中を潜行する距離を準決勝までの25m(21回キック)から30m(27回キック)に変更する一か八かの大勝負に出た。
「いや、“一か三か”ぐらいの感覚で、自分のなかで勝算はありました」
バサロキックで前半に強い世界記録保持者デビッド・バーコフ(アメリカ)との差を最小限にとどめ、ターン後の50mで逆転、わずか0.13秒差で優勝した。日本水泳界にとっては1972年のミュンヘン五輪以来、16年ぶりの金メダルで、鈴木さんの代名詞となったバサロ泳法もまた一躍、注目を集めた。
「今でこそ、バサロキックは当たり前の技術で、この技術を使えないと世界のトップスイマーにはなれないんですけど、当時の僕は先端をいっていました。もともとバサロキックは、個人メドレーの選手だったジェシー・バサロさん(アメリカ)という方が、バタフライから背泳ぎに変わる時に、2~3回程度やっていたキックなんです。たまたま僕の金メダルで注目を集めただけで、世界的には『バサロキック』とは呼ばれていなかった。だからバサロさんが来日した時に、『お前のおかげで有名になったよ』と言われました(笑)」
当時は練習環境も決して恵まれているとはいえず、順天堂大学には温水プールすらなく、所属するスイミングクラブのプールも25mしかなかった。
「バサロキックを練習するにしても、20m潜って浮き上がったら、もう目の前に壁があるんですよ。つまり、泳ぐところがない(笑)。たとえるならば、いつもフットサルのコートでしか練習していないサッカー選手が、試合の時だけフルコートで戦うようなもの。当時は50mのプールが日本に少なかったんです。各国がナショナルトレーニングセンターで強化を計っている時代に、日本は環境面で大きく遅れていた。現在は日本にも味の素ナショナルトレーニングセンターができて、練習環境は僕らの時代と雲泥の差です」
現役引退後、米国での指導経験などを経て、母校である順天堂大学の水泳部監督に。水連の役職にも就いた。そんな鈴木さんに、突然のオファーが入る。
東京五輪を5年後に控えた2015年、スポーツ庁の初代長官に任命されたのだ。
(後編につづく)
取材・文/柳川悠二
撮影/槇野翔太