「何かおかしい」ことに声を上げることもまた自由
結局、全面削除となり「キリンの『氷結』を売るため」というイメージ戦略としては失敗、いろいろ言われるネット社会だが「集合知」ならぬ「集合智」による声なき声が声を上げて「NO」をつきつけた結果となった。もはや左右の対立でなく「何かおかしい」に団結するネット社会の肯定的な面が現れた好例ではないか。
大手メディアのベテラン記者は「自己責任論はうんざり、という雰囲気がSNSにも広がってきたのでは」としてこう語る。
「誰だって年をとるし、誰だって運に恵まれず生活保護のお世話になることもあるし、誰だって突然病に倒れるかもしれないし、誰だって急に闇バイトに手を染めることになるかも分からない。それを、社会から自分で消えろと言っていいはずがなく、そういう人たちも包含して社会は成り立っていると思います。『いつ自決を迫られる側になるか分からない恐怖』をぼんやり感じ取っている人が増えているのかなと。そこに年齢も学歴も性別も関係無いのだろうなと」
確かに。筆者だって51歳、いわゆる「アルファ世代」(2010年以降生まれを指すとされる)からすれば相当な「ジジイ」である。かつて団塊世代を攻撃してきたのと同様に、順番に「高齢者」として攻撃される側となる。老いに学歴など関係ない、等しく「高齢者」である。
重ねるが発言は個人の自由である。擁護するのも自由だし、いわゆる「界隈」の中で勝手にやる分には構わなかったのだろう。しかしその発言の質、ましてそれを社会全体に「高齢者」という大きな主語で繰り返すとするなら、それこそ自己責任としか言いようがない。そして、そうした「何かおかしい」ことに声を上げることもまた自由だ。こうして社会は前に進む。
それにしてもキリンはなぜ「『氷結』を売りたい」として選んだ3人の中で彼だったのか。リスクは間違いなくあったはずだ。これだけ大掛かりな広告事業でそのリスクをとる必要があったのか、結局のところそこだと思う。広告業界はもちろんメディア全体で、ネットも含めて以前とは良い意味で変わりつつある「声」の質と「価値観の変容」の確かさに耳を傾けなければならない時代にあるということ、キリンや担当代理店だけでなく、昨今のメディアの問題をまたぞろ浮き彫りにしたように思う。
【プロフィール】
日野百草(ひの・ひゃくそう)/日本ペンクラブ会員。出版社勤務を経て、社会問題や社会倫理のルポルタージュを手掛ける。