ちびまる子ちゃんランドには、TARAKOさん直筆の絵馬を見に来るファンやメッセージボードに書き込むファンの姿も多い(C)S.P/N.A
「TARAKOさんのかわいらしいけれど、どこか子供らしくないお声は、まる子ちゃんが時折ボソボソとつぶやく“心の声”にぴったり。あのお声だからこそ、まる子ちゃんの気持ちや行動が“わかる、わかる!”とすんなり心に入ってきた。ちびまる子ちゃんを生み出したさくら先生も、そこに生き生きとしたお声を当てたTARAKOさんも、もうこの世にいらっしゃらないのが本当に悲しいです」
TARAKOさんはさくらさんが亡くなった2018年、「私の人生の半分はまる子」と涙ながらに語ったという。ペン一本でまる子を生み出したさくらさんと、そこに命を吹き込んだTARAKOさん。最期まできらめく才能を磨き続けた瓜二つの“まる子の母”たちの人生を辿っていくと、苦難に対峙してなお伸びやかに生きるためのヒントが見えてきた──。
女性の社会進出が進まぬ時代に“稀有な存在”だった2人
《まる子にはのんべえのお父さん、ちょっと小言の多いお母さん、しっかり者のお姉さんがいて、これもうちの家族とそっくり。まる子とは不思議な縁で繋がっているように感じます》
TARAKOさんがかつて雑誌のインタビューでそう語っていた通り、2人の歩んできた道はよく似ている。TARAKOさんは1960年、さくらさんは1965年と2人はともに1960年代生まれ。TARAKOさんは群馬県育ちで、幼い頃から歌手に憧れ、小学校では合唱団に所属した。
静岡県清水市(現・静岡市清水区)で育ったさくらさんはまる子と同じく、母親に怒られてばかりの、アイドルと漫画が大好きなのんきな女の子だった。
高校卒業後、花嫁修業に励む友人を尻目にTARAKOさんはアニメの声優を志し、上京して専門学校の演技声優科に入学した。同じ頃、漫画家をめざすさくらさんは漫画雑誌『りぼん』への投稿を始め、地元の短大在学中にデビュー。しかし当時は女性の社会進出が進んでいない時代だった。マーケティングライターの牛窪恵さんが語る。
「2人が大人として夢への一歩を踏み出した1980年代は、既婚女性の7割が専業主婦だった時代。“女性は家庭を守るべき”の時代において、2人の存在は希有だったと言えるでしょう」