米国人隊員を「エンジェル」と呼んだ宋美齢
シェンノートは確かに中国のために役立った。着任早々、彼は「中国軍は、優れた戦闘機100機と優れたパイロットがいれば、日本軍の脅威を退けることができる」と、蒋介石に豪語した。
蒋介石主席から親書を手渡されたシェンノートは米国へ帰国すると、ルーズベルト大統領に親書を手渡し、戦闘機100機とパイロット100名、地上要員として200名を募集することを許可された。ただし、日米両国は中立関係にあるため、米軍のパイロットを公に派遣するわけには行かず、身分上、米軍を退役した体裁を取り、義勇軍という格好で中国と雇用契約を結ぶよう命令された。
シェンノートは高給を提示して志願者を募り、最終的にパイロットと地上要員合わせて100人が集まった。だが熟練者は少なく、三分の一は訓練不足のために、シェンノートは休日返上で訓練するはめになった。しかし、彼の訓練はあまりに厳しく、離脱者が続出した。それでも少数の義勇軍兵士が残り、国民政府の飛行部隊の中核になった。
1938年、日本軍はポルトガル領マカオを航空爆撃し、中国沿岸部の港湾を海上封鎖したことから、国民政府の海上補給路が断たれた。残された補給路は、フランス領インドシナ、イギリス領ビルマ、タイを経由する山岳地帯の陸路のみとなり、「援蒋ルート(ビルマ・ロード)」と呼ばれた。その陸路もしばしば日本軍の空爆で寸断されたことから、英米両国から提供された食糧や武器、弾薬などの物資援助は、空路を使って細々と続けられた。
「フライング・タイガース」は、ビルマのラングーンと重慶を結ぶ3200キロの「援蒋ルート」の制空権を死守する使命を与えられた。
シェンノートは、1941年に日本軍航空隊と初めて交戦し、中国からビルマにかけての空中戦で勝利した。だが、すでに太平洋戦争が始まり、米軍が正式に参戦したことから、「義勇軍」は浮いた存在になった。翌1942年7月、米軍は「フライング・タイガース」に対して解散命令を出した。
解散する日、宋美齢は米国人メンバー全員を集めて、彼らを「フライング・タイガー・エンジェル」と呼んで敬い、心から感謝の意を伝えた(林家有、李吉奎著『宋美齢伝』、北京・中華書局、2018年刊より)。