「プティがWTCを渡った時の資金も自前で、違法だから宣伝もできない。それを観たのは仲間と偶然いた通行人と警察官だけで、赤字ならまた大道芸で稼げばいいという彼のおもねらない態度を、ポール・オースターもエッセイ『綱の上で』の中で高く買っている。
中には大怪我の後に戻ってくる綱渡り師もいて、怖くないのかと思いますよね。でもそれは我々の発想であって、幼い頃から日常的に綱の上の感覚を体に取り込んできた彼らには、特別なことではないんだと思う。
私は改めて思いましたよ。人間の秘めた能力って凄いなって。その能力を我々は開発していないだけかもしれず、彼らのその場の空気を読み取る力やバランス感覚を、我々だって実は持っているんじゃないかという気さえするんです」
石井氏は後書きにITやAIに侵略されつつある現代人にとって〈最後の砦が生身の体〉だと書く。〈五感を全開してこそ可能な高所綱渡りは、まさにからだはからだであり、それ以上でもそれ以下でもないことを見せてくれる〉と。
「ここにも〈外に開かれた素の心身の聡明さ〉と書きましたけど、いつもスマホばかり見て体は閉じている人とは違って、高所綱渡り師は概して頭がいいんです。それも学歴云々ではなく、物事に対して率直で無垢に接する〈風通し〉のよさが彼らのポジティブな生き方に繋がっている。悲観的な人は1メートルの高さでも綱渡りはできませんから(笑)」
本書は博識で脱線好きな著者のおかげか、関連書や映画ガイドとしても充実し、あまりの面白さについつい引き込まれる気持ちの良い1冊だ。
【プロフィール】
石井達朗(いしい・たつろう)/舞踊評論家。ハワイ大学講師、ニューヨーク大学研究員、慶應義塾大学教授、愛知県立芸術大学客員教授等を経て、慶大名誉教授。現在も新聞等で舞台評を執筆する他、祭祀や呪術芸能、ジェンダーから見る身体文化など関心領域は幅広く、音楽や映画、メダカの飼育など趣味も多数。著書は他に『アウラを放つ闇』『男装論』『アジア、旅と身体のコスモス』『サーカスを一本指で支えた男』『異装のセクシュアリティ』『身体の臨界点』『ダンスは冒険である』等。
構成/橋本紀子
※週刊ポスト2025年5月30日号