1945年8月19日、ソ連沿海州ジャリコーヴォ村で開かれた「日ソ停戦交渉」の模様(SPUTNIK/時事通信フォト)
80年前の1945年8月19日、ソ連沿海州ジャリコーヴォ村で開かれた「日ソ停戦交渉」の模様を伝える写真。画面左側にソ連軍の司令官たち、右側に日本の関東軍ナンバー2の秦総参謀長と瀬島参謀の姿が確認できる。
2022年2月にロシアによる突然の軍事侵攻で始まったウクライナ戦争は、ようやく今、当事者同士が参加する停戦交渉が進められている。ロシア側の強硬な停戦案が交渉を長引かせているとも報じられているが、今から80年前の1945年8月、日本とソ連の間で行われていた停戦交渉でも、ソ連側は一方的な“勝者”として日本側の前に立ちはだかっていた──。
ノンフィクション・ライターの斎藤充功氏が「日ソ戦争」の舞台裏の交渉過程を解説する。同氏の近刊『消された外交官 宮川舩夫』より抜粋・再構成。
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1945(昭和20)年8月9日午前0時過ぎ──。ソ連軍が満洲への侵攻を開始した。米軍による広島への原爆投下から3日後、長崎への原爆投下当日のことだった。
当時、日本とソ連との間では、互いの領土への不可侵を約する「日ソ中立条約」が結ばれていた。にもかかわらず、ソ連はその取り決めを一方的に破棄し、日本が実質的に支配していた満洲へと攻め込んできたのだった。
それから6日後の8月15日正午、昭和天皇により「終戦の詔勅」が宣せられる。「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び……」ラジオから流れる玉音放送を通じて、多くの国民は、日本が無条件降伏を受け入れ、長きにわたる戦争が終結したことを知らされた。
さらにその4日後の8月19日午後3時半、ソ連・沿海州ジャリコーヴォ村──。
極東最大の港湾都市ウラジオストクから北へ約200キロ、満ソ国境にほど近いハンカ(興凱)湖の南にあるこの僻村で、日ソ停戦交渉──いわゆる「ジャリコーヴォ会談」が開かれた。