「達成できなかったのは実力です」
練習の成果が出て、開幕直後から絶好調だったという。
「ところが、慣れないことをしたので、手首に疲労がたまっていたんでしょうね、6月に尾崎行雄のストレートを打ち返した(レフトオーバーの2塁打の)瞬間に、腱鞘炎になってしまった」
だが、広瀬さんは試合に出場し続けた。スタメンを外れた時は代走で貢献した。
「大阪からガタガタ道を車で通って京都の病院で痛み止めの処置をしてもらいながら、打席に立ちました。マスコミが4割バッターと騒ぐから、無理して試合に出ましたよ。
この年、自己最多の72盗塁もマークしましたが、足で稼いだヒットというのは少なくて、外野まで飛ばすヒットが多かった。正統派でしたよ(笑)。本塁打も12本打っているし、二塁打を35本打っていますが、とにかく得点圏の二塁ベースを目指して走りましたね。先頭打者で打席に立つと、どんなことをしてでも二塁ベースに進み、内野ゴロで三塁、あとはどんなゴロでもホームまで帰る自信はあった」
7月2日(89試合終了時点)、322打数129安打で打率.401と4割をキープしていたが、その後は打率をジリジリ落とした。それでも8月16日(115試合終了時点)に打率.395まで挽回したが、最終的には打率.366で終えた。
「マスコミが騒ぐから4割を意識しましたが、A級10年選手のためにちょっと欲を出した結果です。ただ、今の選手も同じでしょうが、自分の記録よりチームが勝つということが重要だった。特に仲人が鶴岡一人監督だったので、なんとか恩返ししたいとがむしゃらにやりました。4割はわかりませんが、ベストコンデョションならチームに貢献できるプレーはできたと思っている。
よく、故障しなかったら……と言われますが、野球には“たら”はないんです。デッドボールで試合に出られなくなるのも野球だし、ヒットがエラー、逆にエラーがヒットと判断されることもある。そういう意味でも、4割を達成できなかったのは実力です。かなり難しい数字だというのも事実だと思います」
その後もたびたび取材に応じていただき、南海の本拠地だった大阪球場について「外野の芝生の手入れもよくて守りやすかったが、土のグラウンドが少し柔らかかった。ボクは盗塁用に歯の長さ違う2足のスパイクを使い分けていたが、柔らかいために歯の長いスパイクを使わなくてはいけない球場のひとつだった。スタートが切りづらかったね」と盗塁王への裏話を披露してくれたこともあった。
昭和のレジェンドがまたひとり亡くなった。合掌。
◆取材・文/鵜飼克郎(ジャーナリスト)