南海の黄金期を支えた(写真・時事通信フォト)
「南海の核弾頭」と称され、通算盗塁数歴代2位、シーズン盗塁成功率の日本記録を持つ広瀬叔功さんが11月2日、心不全のため死去した。89歳だった。強肩、俊足、強打で南海の黄金期を支え、野村克也さん、杉浦忠さんとともに当時の鶴岡一人監督から「三悪人」と呼ばれたひとりだった。
広瀬さんは鶴岡監督を「親分」と呼び、「記録のためやない、親分のために走る」と忠誠を尽くした鶴岡派の番頭。「三悪人」は鶴岡監督の信頼の証だった。
1961年から5年連続で盗塁王に輝き、通算596盗塁は“世界の福本豊”に次ぐ歴代2位。盗塁成功率は82.9%で、福本氏の78.1%を上回る。
走るイメージが強い広瀬さんだが、通算2157安打を放ち、生涯通算打率は.282。外野守備も門田博光さんが「センターにタイムリーを打っても二塁からホームに突っ込めなかった。浅い外野フライではタッチアップはできなかったし、ほとんどがクロスプレーになった」と証言するほどの走攻守三拍子揃った外野手だった。
1リーグ時代も含め、過去、シーズン通算打率(規定打率到達者)が4割を超えた打者はいない。イチローさえも成しえなかった記録だが、広瀬さんは打率.366を記録した1964年に夏場の89試合(当時はシーズン150試合)まで4割を維持。1989年にクロマティに抜かれるまで日本最長記録だった。
広瀬さんに当時の話を聞いたことがある。広瀬さんは現役引退後、南海の監督に就任。監督退任後は、生まれ故郷の広島県に戻って野球評論家をしていた。面識はなかったが、名球会メンバーということで名球会会長の金田正一さんに紹介してもらい、取材が実現した。
広瀬さんは「カネやんの紹介なら断るわけにはいかんなぁ」と苦笑いしながらも、「なんでも聞いてや」と1964年に挑戦した4割バッターの話を始めた。
「実は、A級10年選手(いまでいうFA権)を取得する年だったこともあり、ボーナスを手にしてやろうと、シーズン前から猛練習をしたんです。ボクは練習をあまりしないこと知られていたが、後にも先にもあれほど練習したことはなかった」
