そして、もう一つ歴史を探求しようとするものが着目しなければならないのは、船を降りるきっかけが、結核への感染だったことだ。この時代、「結核は不治の病」、つまり罹患すれば必ず死ぬという、いまではまったく忘れ去られた常識があった。では、なぜその常識は忘れ去られたのか? アメリカで特効薬ストレプトマイシンが開発されたからだが、なんとその発見は一九四四年(昭和19)のことなのである。
言うまでも無く、日本はアメリカと戦っている最中だった。アメリカの薬など輸入できない。その翌年に日本は降伏し事実上アメリカの占領下に入ったが、それでもストレプトマイシンは高価でもあり当然欧米人優先に供給されたから、日本ではなかなか普及しなかった。つまり、アメリカでは「結核は治療できるし完治する」という常識が生まれたのに、日本ではその常識が定着するのに数年かかった。このタイムラグが問題だ。
たとえば、二〇二三年(令和5)に放映されたNHKの朝の連続テレビ小説『ブギウギ』の主人公・花田鈴子のモデルとなった実在の歌手・笠置シヅ子の夫・吉本穎右(ドラマでは「村山愛助」)は、ドラマで描かれたとおり一九四七年(昭和22)に結核で亡くなった。まだ二十四歳の若さだった。アメリカでストレプトマイシンが発見された三年後である。
当時、日本はアメリカの占領下で日本人と交流のあるアメリカ兵はいくらでもいたから、当然ストレプトマイシンのことは日本人も知っていた。もしあなたがこの時代に生きていたら、なにを考えるだろう? もうおわかりだろう、「あと二年ぐらい頑張れば、ストレプトマイシンが間に合ったのに」である。
笠置シヅ子がそういう言葉を漏らしたかどうか寡聞にして私は知らないが、彼を愛する大勢の人がそう思ったことは間違いあるまい。また、あなたがこの時代に生きていて愛する人が結核になって死を宣告されたら、なにを考えるか? これも書くまでも無いだろう。以下、ストレプトマイシンを当時日本で呼ばれたように「ストマイ」と略すが、「カネはいくらかかってもいいから、ストマイを手に入れたい」ということだ。
そういう日本の風潮に目をつけた中国人の密輸業者が、アメリカ経由で日本に大量のストマイを持ち込もうとして摘発された。密輸船の名から「海烈号事件」という。一九四九年(昭和24)のことで、当局が押収したストマイは死蔵していても仕方が無いので国内で競売にかけられ、結果的に多くの日本人の命を救うことになった。クロネコのトレードマークで有名なヤマト運輸の二代目社長で「宅急便」の生みの親・小倉昌男は、この時期に入手できたストマイのおかげで九死に一生を得たという。
つまり、ストマイが無ければ「クロネコヤマトの宅急便」はこの世に存在しなかったということだ。また、旧日本軍に対する鋭い分析で定評があった評論家・山本七平も「ストマイが間に合ったクチ」で、これは本人が書き残している。