細川ふみえ一覧

【細川ふみえ】に関するニュースを集めたページです。

細川ふみえ デビュー当初の初々しいグラビアがいま甦る
細川ふみえ デビュー当初の初々しいグラビアがいま甦る
 1990年代が生んだナイスバディの代表的な存在が細川ふみえ。「ふーみん」の愛称で親しまれた彼女の初々しいグラビアを、写真集『PASSION FRUIT』(1991年)よりお届けしよう。撮影■山岸伸※週刊ポスト2020年7月10・17日号
2020.07.01 16:00
週刊ポスト
グラビア界の巨頭会談 自分の事務所のタレントを守る覚悟
グラビア界の巨頭会談 自分の事務所のタレントを守る覚悟
 1980年代、2つの芸能事務所による快進撃がはじまった。グラビアでタレントの知名度を上げる手法を確立し、多くのグラビアスターを輩出した芸能事務所・イエローキャブとアーティストハウスピラミッド。そのトップであった野田義治氏(74)と森山幸男氏(69)の2人の“ライバル”が初めてメディアで語り合った。ノンフィクション作家・本橋信宏氏による司会のもと、グラビア全盛期に繰り広げられた熱き戦いが甦る。森山:野田さんもそうだと思うんだけど、タレントってね、グラビアで人気が出る瞬間、「あ、これはいくぞ」って感じになる。「来たぞ」っていう感じはすごく嬉しいし気持ちいい。でもね、売れてからは楽しくないんですよ。野田:そう。本当にまさにその通り。──来たぞ、というのは具体的にどんな時ですか?森山:問い合わせが来たりすると、来たぞという感じになりますね。(テーブルに置かれた週刊ポストのグラビアを指して)たとえばの話ね、この白波瀬海来ってうちの子ね、ヤング誌から今日、問い合わせがあったんですよ。嬉しいじゃないですか。久しぶりだったね。◆「そんなことしたらオレ、腹かっ捌くから」森山:僕は野田さんより5歳若い、今69歳ですけど、マネージメントも自分でやってますから。誰から何と言われようと自分で全部。野田:けっこう力技使ってるからね、この人(笑い)。自分で編集部に電話するんだから。──たしかに森山さんから電話がかかってきたり、この2人に乗り込まれたら(笑い)。野田:いや、乗り込みはしないんだけど、電話がおっかない(笑い)。森山:そんなことないですけどね(笑い)。まあ古いけど、義理人情ってあるからね。自分の所のタレントが困った時ね、大事なのは社長が体張るか張らないかですよ。野田さんが言ってたでしょ。「うちのタレントがそんなことしたらオレ、腹かっ捌くから」って。あれ、強烈だよね。マネージャーの鏡だよ。オレなんてイヤだね、痛いから(笑い)。野田:よく言うわ。必ずやるからねこの人(笑い)。森山:やんない、やんない(笑い)。今はもうちょっとスマートにやらないといけない時代だからね。◆ピラミッドの子をよく触ってた森山:昔言ってたじゃない、うちの子のおっぱい触ったりして「水着は下から入れてもっと上に上げるんだ」とか。この本(本橋氏が上梓した野田氏の評伝『新・巨乳バカ一代』)にも書いてあったよ。野田:オレ、(森山さんに)1回怒られなかったっけ?森山:「いじんないでください」って言った(笑い)。野田:オレはね、ピラミッドの子をよく触ったな。それはね、水着の着け方を教えたの。結局、ほら、オレの水着の選び方っていうのは、小っちゃ目を選ぶんです。胸が大きく見えるから。そうすると女の子が癖で全部こうやって(上に持ち上げるポーズ)水着を上に上げるんですよ。そうしちゃうと大きく見えなくなっちゃう。だから着け方を教えたわけ。森山:でもね、野田さんね、大変僭越ですけど、もう1回昔の野田さんに戻ってほしいのよ。巨乳(を売り出すこと)やったら右に出る人いないんだもん。野田:同じ世界で仕事してきて(森山さんと)ぶつからなかったのは、ものの見事にね、女の子の趣味が違うからなの。だから同じことしてるんだけど、バッティングしないのよ。森山:基本的に巨乳は好きですよ。野田:やっぱり、みんなに言われるのよ。「もう1回胸の大きな子、売り出して」って。森山:そう!! まだ若いんですから。【プロフィール】◆のだ・よしはる/1946年生まれ、広島県出身。サンズエンタテインメント会長。上京後、いくつかの職を経て渡辺プロダクションに入社。いしだあゆみや朝丘雪路、夏木マリらを担当。1980年頃イエローキャブを設立し巨乳ブームを巻き起こした。◆もりやま・ゆきお/1951年生まれ、東京都出身。アーティストハウスピラミッド代表取締役社長。大学卒業後、ゆうせん企画に入社。1987年に独立しアーティストハウスピラミッドを設立。鈴木紗理奈や熊田曜子などグラビアから多くのスターを輩出している。●聞き手/本橋信宏(もとはし・のぶひろ):1956年生まれ。ノンフィクション作家。執筆分野はAV、街歩きなど幅広い。昨年、著書『全裸監督 村西とおる伝』(太田出版)を原作としたドラマ『全裸監督』がネットフリックスにて世界配信され、大きな話題に。野田義治氏が手がけた巨乳ビジネスと芸能界の裏側に迫った新刊『新・巨乳バカ一代』(河出書房新社)が発売中。※週刊ポスト2020年7月3日号
2020.06.26 16:00
週刊ポスト
グラビアスターを多数輩出した2人の社長、初対談で戦略語る
グラビアスターを多数輩出した2人の社長、初対談で戦略語る
 1980年代、2つの芸能事務所による快進撃がはじまった。グラビアでタレントの知名度を上げる手法を確立し、多くのグラビアスターを輩出した芸能事務所・イエローキャブとアーティストハウスピラミッド。そのトップであった野田義治氏(74)と森山幸男氏(69)の2人の“ライバル”が初めてメディアで語り合った。ノンフィクション作家・本橋信宏氏による司会のもと、グラビア全盛期に繰り広げられた熱き戦いが甦る。──雑誌のグラビアに巨乳を溢れさせた最大の功労者として、今回奇跡の初対談になりました。特に森山社長が誌面に登場するのは極めて稀なことです。森山:そうなんだよ。あまりメディアに顔出さないからね。2002年に雑誌のインタビューに一度出ただけだから。野田:対談の話があった時、相手が森山社長ならいいとオレから言ったの。森山:嬉しいね。オレと野田さんの40年近い長い付き合いのなかで、野田さんがイエローキャブから堀江しのぶを出して、かとうれいこ、雛形あきこを出した時に、オレは鈴木紗理奈を出したんだけど、野田さんが誰か売り出した時にオレも常に誰かを出してきたんですよ。ところが、ある時期に野田さんが3人同時に売り出した。それでオレ、電話したことあるんだよね。覚えてないかな?野田:それは覚えてるけど。森山:「オレ、野田さんの背中も見えねえよ……」って。オレは相当がんばんないと野田さんの背中が見える所まで行けねえと思ったんだ。行けねえだろうなとは思ったけど、まあがんばりゃなんとか追いつくもんだね。野田:追いつくよ。うちがかとうれいこ、細川ふみえを出した後、小池栄子・サトエリ(佐藤江梨子)・MEGUMIを売り出した頃ね。──2000年前後ですね。森山:その時です。オレの所にぶつけられるタレントがいなかったんですよ。でも対抗して、直後にうちも熊田(曜子)、夏川(純)って出したの。◆“学園祭の女王”千堂あきほ野田:いやいや。その時はね、森山さん、ほら、コトの始まりは80年代に千堂あきほが“学園祭の女王”って呼ばれてワイワイワイワイやってた頃ですよ。それで僕は“学園祭の女王”って名前で大々的にうちの子を売り出すことができなかったのよ。もう一人、他の事務所から出た杉本彩もそう呼ばれてたし。森山:そうそう、杉本彩が元祖だね。それを真似たんだよ。ほとんどオレ、真似だから。だからオレは野田さんの戦略も真似するしかなかったわけだから。ノウハウもないんだもん。野田:それでいいんだよ。オレは真似されてるっていう気がなくてさ。次に(森山社長は)「どういう手を使ってくるかな」っていうことばかり気になってたから。中條かな子もね。あの子も“学園祭の女王”って呼ばれてた。森山:中條(かな子)はうちの4人目のタレントなんですよ。当たったんだけど、幸せに結婚しちゃった。野田:しょうがないじゃん、幸せなら。それに結婚した相手は、広島東洋カープの元監督(緒方孝市)だからね(笑い)。オレんちの子(元タレントの八幡えつこ)もカープのキャッチャー(石原慶幸)と結婚したから(笑い)。当時の正捕手の女房になったんだから、「いいよ」って言ったの。結婚するならピッチャーはダメ、キャッチャーは頭がよくないとできないからさ(笑い)。森山:中條の時は緒方さんが挨拶に来てくれてね、非常にジェントルマンで頭いいこと言っていたから、「じゃあもうオレの所にいるよりね、結婚したほうが幸せになるから、そうしてください」って言った。結婚式に出席したけど、複雑な気持ちで……でもまあ今、幸せになってるしね。いい子供にも恵まれたしあの時は残念だったけど、今思うと本当によかったなって。──所属タレントが、「結婚します」、と打ち明けた時はどうしますか?森山:僕はもう全然、反対しないですね。野田:オレはね、相手の男を見て、「こいつだったら女房を食わせていけるだろうな」っていう男じゃないと、やっぱりOKできなかったっていうのはあったよね。【プロフィール】◆のだ・よしはる/1946年生まれ、広島県出身。サンズエンタテインメント会長。上京後、いくつかの職を経て渡辺プロダクションに入社。いしだあゆみや朝丘雪路、夏木マリらを担当。1980年頃イエローキャブを設立し巨乳ブームを巻き起こした。◆もりやま・ゆきお/1951年生まれ、東京都出身。アーティストハウスピラミッド代表取締役社長。大学卒業後、ゆうせん企画に入社。1987年に独立しアーティストハウスピラミッドを設立。鈴木紗理奈や熊田曜子などグラビアから多くのスターを輩出している。●聞き手/本橋信宏(もとはし・のぶひろ):1956年生まれ。ノンフィクション作家。執筆分野はAV、街歩きなど幅広い。昨年、著書『全裸監督 村西とおる伝』(太田出版)を原作としたドラマ『全裸監督』がネットフリックスにて世界配信され、大きな話題に。野田義治氏が手がけた巨乳ビジネスと芸能界の裏側に迫った新刊『新・巨乳バカ一代』(河出書房新社)が発売中。※週刊ポスト2020年7月3日号
2020.06.25 16:00
週刊ポスト
藤原紀香ほか、50周年『週刊ポスト』表紙女性 90年代編
藤原紀香ほか、50周年『週刊ポスト』表紙女性 90年代編
『週刊ポスト』がこの8月で創刊50周年を迎える。1969年に創刊された同誌は、その時代に活躍した女優や女性タレントたちを表紙に起用してきた。フジテレビのドラマが高視聴率を獲得していた1990年代前半は、表紙にも中山美穂や有森也実などの“月9女優”が登場。グラビアアイドルという新たなジャンルを確立した、かとうれいこや細川ふみえもレンズに収まった。 1995年、カメラマンが、それまでの秋山庄太郎氏から川島なお美のヘアヌード写真集で55万部を売り上げた渡辺達生氏に交代。1996年から表紙モデルたちは肩やデコルテを見せる衣装を着用し、テレビとは一味違うセクシーな一面を披露した。 1993年3月22日号では現・参議院議員の蓮舫、1995年5月19日号には、昨年9月に引退した、平成の歌姫・安室奈美恵も登場した。 ここでは、1990年代に『週刊ポスト』の表紙を飾った女性たちを紹介しよう。◆藤原紀香(1998年8月21・28日号) 1991年、ミス日本グランプリコンテストでグランプリ受賞。J-PHONE(現ソフトバンクモバイル)のCMをきっかけに、美貌と抜群のスタイルでCM界を席巻。1997年の映画『CAT’S EYE キャッツ・アイ』、1998年のドラマ『ハッピーマニア』などで女優として飛躍。以降、数多くのドラマに主演し、舞台でも活躍する。◆かとうれいこ(1991年5月3日号) 1989年に第16代クラリオンガールに選出され、人気グラビアアイドルに。◆細川ふみえ(1993年7月9日号) 巨乳グラドルの草分け。1993年にはテレビ・ラジオのレギュラーが7本に。◆菅野美穂(1996年6月7日号) 1995年NHK連続テレビ小説『走らんか!』、1996年『イグアナの娘』でブレイク。◆松たか子(1996年7月5日号) 1995年にドラマ『藏』に主演し、1997年の『ラブジェネレーション』で人気沸騰。◆松嶋菜々子(1996年10月18日号) 1996年にNHK連続テレビ小説『ひまわり』で主演。翌年、好感度ナンバーワン女優に。◆広末涼子(1998年11月29日号) 1995年にデビューし、CM業界を席巻。1998年11月に早稲田大学に合格する。文/岡野誠※週刊ポスト2019年8月16・23日号
2019.08.08 07:00
週刊ポスト
細川ふみえ19歳初写真集の思い出「恥ずかしかったのは…」
細川ふみえ19歳初写真集の思い出「恥ずかしかったのは…」
 平成のグラビア史を語る上で、記念碑的作品とされるのが細川ふみえのファースト写真集『PASSION FRUIT』である。今、細川と写真家の山岸伸氏が作品を手に振り返った。山岸:発売が1991年だからほぼ30年前だね。デビューの翌年に写真集を出したってことだね。細川:サイパンで撮影したこのファースト写真集はなんと言っても食中毒になって大変だったという思い出がいちばん最初に出てきますよね。山岸:ふーちゃん(細川)だけじゃなくて、他のスタッフも食中毒になっちゃったのに、なぜか僕だけならなかったのよね。アシスタントはレフ板を持ちながら吐いてた。ふーちゃんはけっこう我慢してたんだけど、当時の担当編集者すら先に帰っちゃったもんね。細川:そうそう「死ぬー」って(笑い)。山岸:2日目だったかな?「こんなところで死にたくない」って言って帰ったんだよね。よく覚えているね。◆布面積は大きいけど……山岸:この頃のふーちゃんはきれいな目をしてるね。すごいね。細川:嬉しいです。この時の私、子供っぽいですよね。ちょっと恥ずかしいです。山岸:まだ10代でしょ、子供だよ。胸は大きいけど。細川:まだ19歳でしたね。水着は平気だったんだけど、黒いスリップの衣装はとても恥ずかしかった。山岸:え、布面積は水着の方が全然少ないじゃん。細川:「下着」だと思ったらなんだか急に恥ずかしくなっちゃって。だからそのシーンはすごく緊張していたんです。山岸:食中毒とスリップの恥ずかしさを一切顔に出さずに撮影したとは、さすがだね(笑い)。写真って「たかが写真、されど写真」なんだよね。今話していただけでもこんなにもいろんな感情やエピソードが詰まっている。それが写真のいいところ。年齢もテンションも関係性もいろいろ含めて、写真ってやっぱりその時の一瞬のものなんだよね。細川:その時にしか持っていなかったものが写っていますよね。当時はやることすべてが新鮮でしたし。◆僕のこと好きなのかな?山岸:たぶん僕の人生で一番多く撮影したのはふーちゃんだと思う。細川:嬉しいです!山岸:たくさん撮っていた割にお互いにクールだったから、一緒にご飯に行ったことは1回くらいしかないよね、多分。細川:お宅にお邪魔したのも1回くらい?山岸:あったね(笑い)。すごく鮮烈に覚えているんだけど、午後11時半頃にピンポンが鳴ったんだよ。ドアの穴覗いたら、ふーちゃんが立っていて、一瞬「え?」って驚いた。社長と喧嘩したのかな? それとも僕のこと好きなのかな? と(笑い)。それでドアを開けたら「ロケに行ってきたので」とお土産をくれて。「家にあがる?」って聞いたけど「いえ、帰ります」と言って帰って行った。あとで「なんであのとき家に入れなかったんだろう」って後悔したよ。家に家族はいたんだけどね(笑い)。細川:仕事でとにかくすごい頻度でお会いしていましたよね。マンションもお向かいの部屋だったし。山岸:そうそう、ほぼ毎日みたいに会ってた。けど、プライベートで会ったことはほとんどなかった。細川:仕事で会いすぎてたから、お互い距離感を保とうとしてたんですよね、きっと。◆ふーちゃん、今度水着でどう?山岸:当時は写真集もすごかったんだけど、それに付随したトレーディングカードやらカレンダーやらのグッズや販促物の撮影も多かった。しかもふーちゃんのはよく売れたからね。売れ行きが安定していて、浮き沈みがない。写真集を出しても絶対に売れると見込めたから、あちこちの出版社が出したんだと思う。細川:自分でも把握しきれないほど仕事をしていましたからね、当時は。山岸:コンビニからエロ本がなくなるらしいし、オリンピックまでにヌードグラビアが大人しくなるだろうから、近い将来また水着のグラビアが流行すると思うんだよ。僕は昭和の時代からグラビアを撮ってきたから、次の時代でもグラビアを撮りたいね。「昭和、平成、新元号の3つの時代をグラビアを撮って締めたい」と人生を意識するようになったんだけど、ふーちゃん、今度水着でどう?(笑い)【PROFILE】●やまぎし・しん/1950年生まれ、千葉県出身。日本写真家協会会員、日本広告写真家協会会員、とかち観光大使。広告、グラビア撮影、DVD制作など、多方面で活躍している。●ほそかわ・ふみえ/1971年生まれ、青森県出身。1990年にデビュー後、深夜番組『ギルガメッシュないと』(テレビ東京系)でブレイク。現在は健康管理指導士の資格等を取得し、社会貢献活動にも取り組んでいる。取材■HEW※週刊ポスト2019年2月15・22日号
2019.02.14 07:00
週刊ポスト
天使のブラに恋するブラ… トリンプ下着25年のトレンド変遷
天使のブラに恋するブラ… トリンプ下着25年のトレンド変遷
 女性下着メーカーとして132年の歴史を持つトリンプ・インターナショナルが、日本で1993年から毎年続ける「トリンプ・イメージガール」。来年の“下着美人”の栄冠に輝いたのは、2015年のミス・ユニバース・ジャパンで3位になった土屋ひかる(27)だ。「私は、勝負下着を信じています。ミス・ユニバース・ジャパンの選考の際も、真っ赤な下着を身に付けていました。下着は表からは見えませんが、自信を与えてくれます」(土屋) 1994年に発売した同社初のパッド付きブラジャー「天使のブラ」は累計売上枚数2000万枚を超え、2000年発売の「恋するブラ」も1000万枚を突破。平成の女性下着文化はトリンプの歩みと重なる。 同社の広報担当・坂田修子氏が語る。「細川ふみえさんやパイレーツの登場など、1990年代は胸の大きさが強く意識されました。『天使のブラ』も1999年には胸の谷間の強調を5段階調整できる機能『前止め谷間カチカチ』など、そのトレンドに乗って進化し続けました。 2000年にナチュラルなふんわり感の『恋するブラ』を発売し、2007年には『魔法でスリムに』というバージョンが大ヒットするなど、近年は体のラインを美しく魅せる機能性が重視されています」 1998年にはサッカーフランスW杯を記念して「Aカップ、Bカップ、ワールドカップ」の世相ブラが評判になった。2008年、「恋するブラ」にトリンプ初の伸縮性パッド「フィールエアーパッド」が登場。2017年には累計売上枚数が「天使のブラ」2000万枚、「恋するブラ」1000万枚を突破した。 平成の世が終わり、次の時代にはどんな下着が登場するのか。女性のみならず期待は高まる──。※週刊ポスト2018年11月16日号
2018.11.10 16:00
週刊ポスト
細川ふみえが選ぶ思い出グラビア「食中毒を乗り越えた1枚」
細川ふみえが選ぶ思い出グラビア「食中毒を乗り越えた1枚」
 1990年代、グラビアアイドルとして雑誌やテレビで活躍した細川ふみえ。数あるグラビアの中でも気に入っている「思い出の1枚」について、彼女が語った。 * * * 実はファースト写真集はロケ地のサイパンに入ってから食中毒で緊急入院してしまい、やっとのことで退院した直後に撮影したものなんです。 夜に撮影クルーみんなで行ったお店で、頼んでいないお料理がテーブルに運ばれてきました。サービスかと喜びましたが、カメラマンの山岸伸さんも含めてそれを食べた全員が食中毒になってしまった。私は特に症状が酷くて、人生初のモルヒネ注射を打ったのをよく覚えています。 そんな苦しみを乗り越えたあとだったので、まさに「生まれ変わったピュアな気持ち」で挑みました(笑い)。特にこの写真は澄んだ瞳をしていると思います。【プロフィール】ほそかわ・ふみえ/1971年、青森県生まれ。1990年にデビュー後、深夜番組『ギルガメッシュないと』(テレビ東京系)でブレイク。現在は健康管理指導士の資格を取得し、高齢者支援でも活躍している。※週刊ポスト2018年9月7日号
2018.08.28 16:00
週刊ポスト
細川ふみえ他、B90超グラドルは“1967年の呪い”晴らしたか
細川ふみえ他、B90超グラドルは“1967年の呪い”晴らしたか
 1967年の呪い──。日本人が“バスト90センチ”を誇れるまでの歴史を語る時、この年の出来事は欠かせない。『巨乳の誕生』(太田出版)の著者である安田理央氏が振り返る。「アメリカのストラスマン博士が『バストサイズと性格および知能の関係』で、『86センチ130、91センチ100、102センチ80』とバストが大きいほど知能指数が下がると発表。日本でも取り上げられ、医師や博士も賛同したことで、この説が一気に広まります。 大橋巨泉が朝丘雪路の胸を『ボイン』と表現したのも同年。また、ファッションモデルのツイッギーが10月に来日し、スレンダーな体型に憧憬を抱く女性が急増し、以降“バスト90センチ”は忌み嫌われるようになります」(以下「」内は安田氏) それ以前、胸の大きさは誇らしいことだった。1950年代後半から1960年代にかけて“グラマー”が流行語となり、1959年にはバスト93センチの児島明子が「ミス・ユニバース」で優勝。渡米前、雑誌の対談で美人の条件の話題になった時に〈ハト胸って最高のものですからね〉と話すなど自らのバストをポジティブに捉えていた。 だが、一度変わった流れは容易には引き戻せない。1970年代、性的な想像を膨らませる大きな胸は、清純さを求められるアイドルたちにとって不必要と考えられた。1972年デビューのアグネス・チャンは男性誌で〈これでも、あたしアーチスト。オッパイやオシリ関係ない。だから全部ノーね〉とスリーサイズの公表を拒絶。1980年にデビューし、温厚で知られる河合奈保子も雑誌で84センチのバストの話になると、〈胸の話はキライッ!!〉とヘソを曲げ、理想を〈80センチくらいですね〉と答えている。「公称サイズはあくまで“見られたい数字”。当時90センチ台のアイドルも存在したかもしれませんが、世の中に受け入れられないと判断したのか、ほとんどが80センチ台を自称しています」 1990年、バスト94センチの細川ふみえがサイズの小さい“眼帯ブラ”と呼ばれるビキニ姿でグラビアに登場。『ザ・ベストテン』など歌番組が相次いで終了した時期とも重なり、女性タレントの新たな売り出し方としてグラビアでの過激な露出が脚光を浴びる。「堀江しのぶや中村京子がブレイクしたように、1980年代にも潜在的な需要はあったが、細川の人気爆発で1990年代に90センチ以上が出現するようになります」 それでも、“ストラスマンの呪縛”は25年経ってもまだ続いていた。細川は1992年に本誌で〈世間の人はいうじゃないですか。胸の大きさと、頭の良さは反比例するって〉と吐露している。「そのイメージを変えたのは、細川や小池栄子、MEGUMIが所属したイエローキャブ軍団です。テレビ番組で頭の回転の良さを見せ、バストと知能指数に相関関係はないと証明した」 2001年にデビューしたバスト103センチを誇る根本はるみは週刊誌で〈芸能界に入って成功する近道は、胸をウリにすることだと思っていたので。「このオッパイしかないだろう!!」って(笑)〉と発言。“胸の大きさは誇れること”という認識がタレント側にも広がり、2000年代には熊田曜子などバスト90センチ超えのグラドルが芸能界を席巻していった。 数十年の時を経て、日本人は“1967年の呪い”からようやく解放されたのである。その呪縛からの解放の一翼を担った、B90超の女神たち4人を紹介しよう。●細川ふみえ(1971~)B94 1990年、ミスマガジンのグランプリ受賞を機にデビュー。初グラビアで、Fカップの乳房がはみ出るほどの極小ビキニを披露し、グラビア界の頂点に立つ。●松田千奈(1977~)B93 15歳で芸能界デビュー。1994年頃からグラビアで大胆なビキニやハイレグを披露して人気が沸騰し、深夜番組やドラマにも出演。その後はモデルとして活躍。●根本はるみ(1980~)B103 2001年にデビュー。巨乳グラドル事務所イエローキャブ初のB100センチ超で人気を呼び、2002~2004年に11冊もの写真集を発表。テレビ、オリジナルビデオなどに活躍の場を広げた。●熊田曜子(1982~)B92 2001年に芸能界入りし、抜群のプロポーションでたちまちトップアイドルに君臨。2017年に35歳で通算36冊目の写真集『The GREATEST!!』を発売。◆取材・文/岡野 誠※週刊ポスト2018年5月25日号
2018.05.20 07:00
週刊ポスト
無名グラドルが年収300万円超も稼いでいるのはなぜ?
無名グラドルが年収300万円超も稼いでいるのはなぜ?
 文字通りグラビアを中心に活躍するのが、グラビアアイドル。ブレイクできるのはほんの一握りなのだが、実は超売れっ子に見えるグラドルたちでも、そこまで稼げていないという事実がある。 1月17日放送に放送された『ナカイの窓』(日本テレビ系)の 「グラビアレジェンドSP」では、かとうれいこや細川ふみえ、インリン・オブ・ジョイトイ、篠崎愛などが、かつての給料を告白した。「給料制でずっと10万円。島田紳助さんたちに話したら、同情して事務所に『上げてやれ』といってくれた」(かとうれいこ)「最初は3万~5万円だった。そこから少しずつ上がっていった」(細川ふみえ)「ワンルームに住んで、コンビニの弁当ばっかり食べてた」(インリン・オブ・ジョイトイ) それぞれ、人気絶頂期ですらこの額だったという。これは一昔前の話だけでは片づけられない。現役グラドルである篠崎愛も「私も5万円でした。八百屋とマックでバイトして」と明かしていた。 とはいえ、昨年10月発売の『FRIDAY』に掲載された、現役グラドル50人のアンケートによると、「年収300万円以下だ」という質問に対して、68%が「NO」と回答。回答した50人のほとんどが、メジャーな雑誌のグラビア経験もない、無名グラドルだった。写真集が売れる篠崎ですら給料5万円だったにもかかわらず、なぜ300万円も稼げる無名の子がいるのか。 週刊誌でグラビア担当経験のある編集者によると、2つの稼ぎ方があるという。そのひとつは、ファンが直接タレントの写真を撮ることができる、撮影会なのだとか。「雑誌や画面を通してではなく、直接話しながら撮影できるのが、醍醐味のイベントです。最近は、老舗出版社が主催するなど、わりとしっかりした撮影イベントもありますが、フリーのグラドルがマンションの一室で……なんていうイベントもごろごろあります。 1回の料金は、タレントを一人で撮影できる場合と、数人で撮影する場合で異なりますが、概ね、1枠が1万~3万円程度。それを1日に数回まわせば、それなりの稼ぎになると思います」 では、もうひとつの稼ぎ方とは何か。「1回一人1万~3万円程度で、一緒にお酒を飲む『ギャラ飲み』です。相手は業界関係者から一般の会社員まで、かなり広範。最近では、多くの人が名前を知っているレベルの子でも意外と来てくれるので、人によっては“安く”感じるでしょうね」 さらに、飲みだけでは終わらない場合も……? 「ぜんぜん有名じゃないグラドルが、都心の一等地に住んでいるパターンがありますが、おそらく自分で家賃を払っているわけではないでしょう。ギャラ飲みがパトロンを見つける場になることもあるようです」 一見華やかに見えるグラドルだが、貧困から抜け出すために、あの手この手の手段を使っている現実が垣間見える。
2018.02.18 16:00
マネーポストWEB
グラドルの歴史 「優香の台頭」が戦国時代突入の狼煙だった
グラドルの歴史 「優香の台頭」が戦国時代突入の狼煙だった
 1970年代の日本の芸能界では、アイドルは清純であり、その胸は小さくなければならなかった。 あのアグネス・チャンが、豊満な胸元を隠そうとさらしを巻いていた逸話は有名だ。そんな時代に、世間を揺るがす1つの“事件”が起きた。1975年、アグネス・ラムの登場である。彼女が爆発的な人気を博し、日本に「グラビアアイドル」が誕生した。 その後、堰を切ったようにグラドルが登場するようになる。グラビア評論家の浜野きよぞう氏が解説する。(以下、「」内の発言は浜野氏)「和製巨乳アイドル第1号は榊原郁恵でした。そして、1990年に第16代クラリオンガールに選ばれた、かとうれいこや細川ふみえを発掘した事務所『イエローキャブ』が鮮烈な巨乳路線ブームを巻き起こしたのです」 同事務所所属の雛形あきこはその“象徴”だった。「グラビアデビュー当時、雛形はまだ高校2年生。それまでの巨乳のイメージとは一線を画す初々しさと、相反するセクシーな前屈姿勢『雛ポーズ』が世間に衝撃を与えた。グラビアの『基本ポーズ』が生まれました」 しかし、数年経つと世間は巨乳に慣れてしまう。グラドル界は多様化が進み、それぞれの雰囲気やキャラクターに注目が集まるようになった。「1994年に缶コーヒーのCMで“癒し系”と呼ばれた飯島直子に倣うように、ホリプロ初のグラドル・優香が元祖癒し系グラドルとして絶大な人気を誇りました。そして井川遥や乙葉などの“グラドルっぽくない”女性が後に続きました」 その変化を決定づけたのが、常識を覆す「巨乳ではない」グラドルの登場だった。「可愛い系の先駈けで、キャラクターも異質だった小倉優子、横浜国立大学の現役女子大生だった眞鍋かをりの登場でグラビア界は群雄割拠の時代に入った。2000年以降は、様々な個性を売り出すグラドルの時代になった」 そして近年になって、新潮流が起きている。「モデル兼グラドルの “モグラ”の登場や、元局アナの脊山麻理子らのグラビア挑戦です。性的関心の対象とも見られがちだったグラビアが、『女性の憧れ』に変化してきたのです」※週刊ポスト2018年2月16・23日号
2018.02.07 07:00
週刊ポスト
野田義治氏 AKB全盛時代にアイドルプロデュース辞めた理由
野田義治氏 AKB全盛時代にアイドルプロデュース辞めた理由
 細川ふみえ、山田まりや、MEGUMIなど、いわゆる“グラドル”を次々と世に送り出し、ビジネスとして育て上げたのが、元イエローキャブ社長で、現・サンズエンタテインメントプロデューサーの野田義治氏だ。自身が手掛けた女性について、野田氏が振り返る。 * * * クラリオンガールの選考会で初めて堀江しのぶの写真を見た時、胸の大きさに驚きはしましたが利用しようという気はまったくありませんでした。当時の風潮として「胸の大きな子は頭が悪い」という偏見が幅を利かせていたし、そんな女の子たちは胸の膨らみを隠したいからどうしても体を丸めて歩いてしまう。姿勢が悪いため、見た目が冴えなかったのです。しかも、誰も水着で撮られたいなどと思っていません。 それでもしのぶの水着を撮りたいと思ったのは、文字通り「はち切れんばかり」の魅力を直感したからです。で、どうすれば撮影できるか考えました。子供の頃の写真を見せてもらったら当然のことながら海水浴で水着を着ていたので、「浜辺で水着姿を撮っても不自然ではないよね」、と説得しました。最終的にはハワイで撮りましたが、もちろんスタッフ全員、海パンです(笑い)。 ほどなくして雑誌のグラビアで水着アイドルがたびたび特集されるようになりましたが、しょせんキワモノ扱い。出版社に売り込んでも、「こんなやり方じゃタレントが潰れるぞ」と。実際、名が売れた後の「次の一手」はヌード、というのが既定路線でした。でも、私は脱がすつもりはなかった。そんな思いが通じたのか、しのぶは『ザ・テレビ演芸』(テレビ朝日系)で横山やすしさんのアシスタントに抜擢され、大きく成長しました。 白夜書房の雑誌『写真時代ジュニア』で知って、「この子はイケる」と直感したかとうれいこも忘れることができません。当時彼女は別の事務所の預かりという形でしたが、ツテを辿って会うことになり、私が引き取ることになった。 歌手を目指していましたが、「顔と名前を覚えてもらうための手段に」と説得して、水着で売り出すことになり、その後「アデランス」のCMを5年間務めるなどブレイクしていったのです。 私が女の子たちに繰り返し話したのは、新聞や本を読んで知識を身につけなさいということ。バラエティ番組などに出れば、芸人の下ネタに対応しなければなりません。知識があれば機転も利くし、振られた下ネタもうまく返せる。 実際、細川ふみえや山田まりや、MEGUMIなどは、バラエティで安易に下ネタや〝彼氏ネタ〟を言わずうまく立ち回ったので、勘のいい子だという評価をもらって活動の場が広がっていったのです。そして、気がつけば1990年代後半くらいから「胸の大きな子=バカ」という偏見がなくなっていました。 そんな私もここ10年ほど新しい女の子をプロデュースしていません。ひとつには、AKB48に代表される大人数のアイドルが水着でグラビアを飾るようになり、タレント個人が集団に埋没して個性を失ったというグラビア界の状況があります。 しかも、豊胸技術の進歩によって、素人目には手術したのかどうかわからなくなりました。巷に巨乳の女の子が増え、巨乳であることの珍しさや偏見がなくなった。積極的に水着になりたがる子が増えるなど、グラビアを取り巻く状況が一変したということです。撮影■山岸伸 取材・文■岡野誠※週刊ポスト2018年1月26日号
2018.01.19 16:00
週刊ポスト
グラビアの定番「手ブラ」 その単語が生まれた年は?
グラビアの定番「手ブラ」 その単語が生まれた年は?
 手のひらで乳房を隠す「手ブラ」。今ではグラビアでは定番のポーズだが、かつてはその意味合いは異なっていた。 1977年、19歳の夏目雅子が乳房を両手で隠すカネボウ「Oh!!クッキーフェイス」のポスターが大反響を呼ぶ。小麦色の肌で海岸を走り、健康的なイメージを醸し出すことに成功した。表現のいち手法として広く用いられるようになった手ブラだが、当時、まだ“手ブラ”という言葉は生まれていない。当時はこうした写真表現において手ブラに言及するのはある種のタブーだった。「胸を隠しているかどうかにフォーカスする言い回しは、ややもすれば下衆に聞こえる。あくまで綺麗に撮れているかという芸術性が重要だった」(社会学者の太田省一氏) その流れを変えたのが松坂慶子だった。1979年、シャワーシーンが話題になった映画『配達されない三通の手紙』のパンフレットでは一糸纏わぬ姿で、バストを手で覆っている。「手ブラが綺麗さだけではなく、エロさをも前面に押し出す表現となるきっかけを作った。もともと彼女は、お色気路線の大映映画出身のため、抵抗が少なかったのかもしれません」(太田氏)『GORO』や『写楽』などグラビアを売りにする雑誌が増えていったこともあり、1980年代になると、由美かおるや范文雀、大信田礼子、高樹澪などの女優も胸を手で隠すことを取り入れている。1980年代に既に定番化していたものの、手ブラという言葉自体はまだ生まれていなかった。 また、平成に入った1989年には武田久美子の貝殻ビキニが話題になった。撮影者の渡辺達生氏は、手で胸を隠すことに見飽きて、試行錯誤の結果として貝殻を使ったと後述している。 1990年代に、かとうれいこや細川ふみえ、C.C.ガールズ、ギリギリガールズなどのグラビアアイドルが多数出現。ようやく写真週刊誌に1997年頃から『手ブラ』という見出しが登場する。「1980年代までアイドルは歌がメインで水着グラビアはスタンダードなものでした。1990年代、グラビアアイドルがジャンルとして確立され、アイドルでありながら水着以上ヌード未満の過激さを端的に示した言葉が『手ブラ』だったのです」(太田氏)取材・文■岡野誠※週刊ポスト2017年11月24日号
2017.11.15 16:00
週刊ポスト
『ギルガメッシュないと』 出演者が語る飯島愛の思い出
『ギルガメッシュないと』 出演者が語る飯島愛の思い出
 インターネットの隆盛により、今や誰でも気軽にアダルト画像が見られるようになったが、かつて「エロの最前線」はテレビだった。深夜からは『11PM』『トゥナイト』など、伝説的な番組が生まれたが、1990年代に入るとテレビが“一人一台”の時代になったことで、エロ番組はさらにヒートアップしていく。 なかでも“危うさ”で話題を呼んだのが、『11PM』の枠を引き継いだ『EXテレビ』(日テレ系、1990~1994年)だ。「低俗の限界」というコーナーでは、司会の上岡龍太郎と島田紳助が頭で全裸女性の股間を隠してトーク。2人が少しでも頭を動かせば“放送事故”。スタッフも視聴者もドキドキハラハラさせた。 中山秀征が司会を務めたバラエティ番組『殿様のフェロモン』(フジテレビ系、1993~1994年)は、回を重ねるごとに企画がエロ方向へとシフト。「性感! ハケ水車が回っているのは誰だ? クイズ」、通称「ハケ水車」という名企画を生み出した。ハイレグ水着姿の女性3人が、股間を覆う箱にまたがる。そのうち1人が、ハケのついた水車で股間を刺激されていて、それが誰かを解答者が当てるクイズである。「水着美女たちの喘ぎ声がすごくて、思わずテレビのボリュームを下げたほど。あれほどバカバカしいエロ企画は他になかった」(40代男性) 岩本恭生と当時人気絶頂のフーミンこと細川ふみえを司会に据えた情報番組『ギルガメッシュないと』(テレビ東京系、1991~1998年)は、多くのAV女優を起用し、彼女たちのテレビ進出の礎を築いた。 出演者の一人だった飯島愛はCMに入る直前、振り向きざまにスカートをめくりTバックのお尻を露出するポーズでブレイクし、その後、司会に抜擢された。同番組で共演し、飯島と親交が深かったAV女優の新堂有望が当時の思い出を語る。「番組内で私が杏里の『キャッツ・アイ』を歌いながら脱いでいたのを見た愛ちゃんが、周りのスタッフに『こんなところでポロリさせないでさ。新堂は歌が歌いたいんだから、CD出させてあげてよ』と掛け合ってくれたんです。愛ちゃんの気遣いが嬉しくて、その後も気合を入れて脱ぎました(笑い)。 コーナーで印象深いのは『オイルレスリング』ですね。全身油まみれの水着姿になって女の子同士で組み合うんですが、ちょっとでも手を抜くとプロデューサーから“本気でやれ!”って怒られる。だから私は、相手のアソコを触ってひるませたり、ブラを狙ってポロリさせたりしてました」 グラビアアイドルだった水谷ケイも、同番組でのブレイクがきっかけで、Vシネマ『お天気お姉さん』の主演に抜擢された。現在も女優活動を続けている。初代の司会を務めた細川やさとう珠緒ら、グラビアアイドルたちも水着になって奮闘した。細川は、司会を飯島に譲った後も「水着女優歌手すもう大会」などの企画に出演した。「巨乳揃いの出演者のなかでも、フーミンの大きさは“別格”でした。忘れられないのは、すもう大会の決勝戦。惜しくも負けてしまいましたが、相手の水着を掴んでハイレグをヒップに食い込ませるなど大健闘を見せていました」(40代男性)※週刊ポスト2017年10月27日号
2017.10.22 16:00
週刊ポスト
芸能人水泳大会 ポロリ要員登場でアイドル出演拒否の事態も
芸能人水泳大会 ポロリ要員登場でアイドル出演拒否の事態も
 1970年から放送されていた、人気の芸能人が多数出演する「水泳大会」は朝9時からスタートするため、タレントは前日に会場入り。大磯ロングビーチに隣接するプリンスホテルを貸し切り、スタッフを含む総勢300人以上を集めて前夜祭も行なわれた。 フォーリーブス時代は選手として参加し、1980年代は司会を務めた、おりも政夫が振り返る。「フジテレビはタレントを盛り上げるのが上手かった。本番が15時頃に終わると、夕方から隣接しているゴルフ場でラウンドしました。前後にイベントを用意してくれたので、大会が毎回楽しみでしたね」(おりも) 水泳大会は新人の登竜門でもあった。水着の似合うタレントをカメラマンが選ぶ「ミスフォトジェニック」に早見優が選ばれた年にNHK紅白歌合戦に初出場するなど、番組で活躍したアイドルは大成するというジンクスも生まれた。その裏で、少しでも目立とうと頑張るため、予期せぬハプニングも起きていたと、おりもが明かす。「僕はナレーションもしていたので、編集前のVTRも見ていました。放送ではカットしていたけど、飛び込んだ時に水着がズレてしまった子もいましたね」 1980年代中盤になると、意図的に胸を露出する“ポロリ要員”が登場。お色気路線に走ったことで、徐々にアイドルが出演を拒否し、各局が水泳大会から撤退する中、フジテレビは方向転換を図る。1987年夏に『女だらけの水泳大会』と名称を変え、男性視聴者にターゲットを絞ったのだ。『アイドル進化論』の著者である社会学者の大田省一氏が話す。「1980年代後半から1990年代前半に“アイドル冬の時代”が訪れた一方で、芸能界では森口博子などのバラエティアイドル、かとうれいこなどのグラビアアイドルが登場しました。アイドルが歌手だけでなく、お笑いやセクシー系に拡がっていった時代の流れに、水泳大会も歩調を合わせていったのでしょう」『女だらけ』では、出場者が300人以上になる年もあった。「あまりに多いし、水中に入ると誰が誰だかわからなくなることもありましたね。競泳で西田ひかると石田ひかりの対決を実況した時、混乱して“どっちが西田だ!”と叫んでしまったこともあったな」(おりも) 1990年代に入ると、細川ふみえと飯島直子が「水上飛び込みブランコ」で名勝負を演じたり、井上晴美が25メートル自由形でぶっちぎりの優勝を果たすなど、グラドルが番組を席巻。1998年を最後に定期的な放送は終了したが、今も復活を望む声は絶えない。「あれだけのスターが一堂に会して、水着で競う番組なんて二度とできないでしょうね。まさに伝説の番組ですよ」(おりも)●おりも・まさお/1953年7月4生まれ。東京都出身。8月16日まで大阪・新歌舞伎座で上演中の舞台『コロッケ特別公演』に出演中。※週刊ポスト2017年8月18・25日号
2017.08.14 11:00
週刊ポスト
野田義治氏が述懐 細川ふみえの独特の母性
野田義治氏が述懐 細川ふみえの独特の母性
 元イエローキャブ社長として芸能界に革命を起こした野田義治氏(現・サンズエンタテインメント・プロデューサー)。堀江しのぶ亡き後のイエローキャブを支えた“長女”がかとうれいこなら、“次女”は細川ふみえだ。「細川はどちらかというとロリ顔だけど、独特の母性が醸し出されているなと思いました。胸のボリュームもしっかりあったけど、今まで会ったことがない雰囲気が印象的でした」(野田氏) 1990年の夏、19歳でミスマガジンのグランプリに選ばれた細川はイエローキャブに所属が決まった。1992年にCDデビューを果たし、翌年には建設省(現国土交通省)の治水推進ポスターのモデルに抜擢された。しかし、水遊びでスカートが濡れた細川の写真に一部の都議らがクレームをつけ、回収騒動に。それがかえって話題を呼び、建設省にお宝ポスターを求めるファンからの問い合わせが殺到した。 その後、細川はNHK朝ドラ『あぐり』や北野映画『菊次郎の夏』などに出演し、女優の素質を開花させていった。撮影■山崎力夫※週刊ポスト2016年12月9日号
2016.12.03 07:00
週刊ポスト

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