松井秀喜の最新ニュース/2ページ

【松井秀喜】に関するニュースを集めたページです。

日本を代表する文化であるゲーム音楽に合わせ、206の国と地域の選手が入場。日本は過去最多となる582人の選手団のうち155人が開会式に参加した(Getty Images)
写真で振り返る東京五輪2020開会式 歓声なきパフォーマンスへの称賛も
 2021年7月23日に行われた、東京五輪2020の開会式。前日に解任された元芸人・ラーメンズの小林賢太郎氏を含め、総合演出家が4度も交代するというドタバタを象徴するオープニングセレモニーとなった。 MISIAの個性的な君が代独唱を披露し、木やりうたとダンスのパフォーマンスでは棟梁役で真矢みきが登場。俳優・森山未來は、今なお苦しめられるコロナウイルスの犠牲者へ黙祷を捧げる内容で、神秘的な演出でダンスを披露した。 日本を代表する文化であるゲーム音楽に合わせ、206の国と地域の選手が入場した。日本は過去最多となる582人の選手団のうち155人が開会式に参加した。 入場行進中は、フィールドを囲うように陣取ったパフォーマーたちがお辞儀をし、両手を広げて大選手団をお迎えし、さあこちらへと「おもてなし」のダンスで選手を誘導する。無観客の殺風景に花と彩りを与えた。 冒頭にはコロナ禍によって世界最終予選がなくなり、戦わずしてオリンピアンになる夢を絶たれた女子ボクシング選手の津端ありさを登場させた。「多様性と調和」に加え、現役の看護師である彼女を登場させることで、パンデミックの最中に五輪を開催する意味を世界に問うた。 直径4メートルの五輪のシンボルは、1964年の東京大会の際に各国の選手団が持ち寄った種から育てた木の間伐材を用いて表現した。 大会エンブレムは多様性を象徴している。さまざまな人種、性別、年代のパフォーマーがカラフルな45個のブロックを使って、ともに「東京2020」のエンブレムを作り上げた。立ち止まった世界中のアスリートが再び走り出すまでを描いた演出。赤い紐は血管や筋肉、葛藤などの心情を象徴しているという。 簡素でありながら、1824台のドローンで作り上げた五輪エンブレムから地球の形へと変化し、最新の舞台演出の技術と粋が詰まっていた。 パントマイムアーティストのが~まるちょば・HIRO-PONとGABEZによる全50競技の「動くピクトグラム」は、国内外から称賛の声が続出した。 市川海老蔵は、代表的な演目「暫」の鎌倉権五郎に扮し、世界の厄災が収まるよう祈りを込め、厄災を打ち払う「見得」を切った。 国内を約1万人が121日間かけ繋いだ聖火リレーが国立競技場に到着。聖火は松井秀喜さんが支える長嶋茂雄さんと、王貞治さんの手に渡った。太陽をモチーフとした聖火台に点火したのはテニスの大坂なおみ選手。五輪の理念である男女平等や多様性を象徴する最終ランナーとなった。 閉会式の8月8日まで、オリンピアンたちのパフォーマンスに酔いしれたい。※週刊ポスト2021年8月13日号
2021.07.28 14:26
高卒野手ルーキー・秋広優人(時事通信フォト)
巨人・秋広、開幕1軍には高い壁 松井秀喜と同じく後半戦の飛躍に期待
 キャンプから注目され、1軍に帯同している巨人ドラフト5位の高卒ルーキー秋広優人がプロの壁に悩んでいる。オープン戦開始当初から身長2メートル2センチの大柄な体に似合わぬ柔らかい打撃にセンスに期待は高かったが、3月15日までの直近5試合で11打数1安打7三振。開幕スタメンどころか、1軍も危うくなってきた。プロ野球担当記者が話す。「今の状態だと、1軍で打てるようになるまではもう少し時間が掛かりそうです。原監督は若手、ベテラン関係なく、選手をフラットに起用するので、結果を残していない秋広を1軍で使うとは思えません」 今年は新型コロナウイルスの蔓延により、外国人の来日が遅れている。巨人も一塁を予定していたスモークが開幕に間に合いそうもなく、秋広に開幕スタメンの芽が出てきていた。「スモークは2017年にメジャーで38本塁打を放ったほどのパワーヒッターですが、キャンプもオープン戦も経験しないまま、公式戦に突入するので、日本の投手やストライクゾーン、チームプレーに慣れるまで時間がかかるはず。まずは、中島宏之かウィーラーが一塁を務める公算が高い。 ただ、中島は今年39歳を迎えますし、日本球界7年目のウィーラーはある程度計算できても伸びしろが大きいわけではない。来日しても、スモークが必ず打つという保証もない。秋広は現時点では1軍で通用しないかもしれませんが、日増しに成長していき、後半戦には1軍の戦力になって、一塁のポジションを奪う可能性もある」 過去に同じく高卒の大型ルーキーとして注目された松井秀喜は1年目の1993年、オープン戦打率0割台で開幕2軍スタートだった。しかし、イースタンリーグの開幕戦で、ヤクルトの伊藤智仁からホームランを放つなど打ちまくり、1か月後に1軍に昇格した。「5月1日にプロ初ヒット、2日にプロ1号を放ちましたが、その後は通用せず、6月20日の出場を最後に2軍落ちしました。この間、わずか3安打です。そして、優勝の可能性が薄れてきた8月下旬に1軍に昇格して、復帰後スタメン7試合目の8月31日の横浜戦で2号、3号を放った。9月12日からは3番に定着し、閉幕までに11本塁打を記録。特に10月は12試合で打率2割9分8厘と安定感も出てきて、終盤は巨人の中で最も頼りになる打者でした」 高卒野手の新人王はパ・リーグでは1986年の清原和博(西武)、セ・リーグでは1988年の立浪和義(中日)以来生まれていない。それほど、10代で結果を残すことは難しくなっている。秋広が高卒野手で開幕スタメンを勝ち取れば、巨人では王貞治以来となるが、現実的には後半戦を見据えたいところか。
2021.03.16 16:28
古巣・楽天に田中将大が帰ってくる!(2014年のメジャー挑戦時の会見。時事通信フォト)
田中将大が復帰した楽天、松井秀喜を取り戻せなかった巨人の違い
 メジャーリーグの名門ニューヨーク・ヤンキースで7シーズン戦った田中将大が8年ぶりに楽天イーグルスに復帰する。年俸は日本球界最高の9億円(推定)プラス出来高で、2年契約を結んだ。野球担当記者が語る。「田中はワールドシリーズを制覇していなかったし、まだ脂の乗った32歳。試合数の少なかった昨季こそ3勝に終わったが、2年前までは6年連続2桁勝利を挙げている。まさか、本当に日本に帰ってくるとは思いませんでした」(以下同) 田中は2013年、24勝0敗1セーブという文句なしの成績を上げ、星野仙一監督率いる楽天を初の日本一に導き、海を渡った。以降の7年間、チームは一度もリーグ優勝を果たせず、Aクラスも2回のみ。3度も最下位に沈んでいる。今年から指揮を取る石井一久GM兼監督にとって、田中の復帰はこの上ない朗報となっただろう。「楽天は快く田中を送り出しましたし、オフの自主トレ期間中も練習場所を貸し出していた。復帰するかどうか全くの未知数なのに、背番号18をずっと空けて待っていた。両者の良好な関係はメジャー移籍後も続いていました。長年の誠意が、田中に伝わったのだと思います」 日本からメジャーへ移籍した選手は数多いるが、日本球界に復帰する際、必ずしも古巣に帰ってくるわけではない。阪神の藤川球児やヤクルトの青木宣親、巨人の上原浩治などのように元の所属へ戻ってくる選手がいる一方で、新庄剛志(阪神→メッツなど→日本ハム)や福留孝介(中日→カブスなど→阪神)、西岡剛(ロッテ→ツインズ→阪神)、岩隈久志(楽天→マリナーズ→巨人)などのように球団が変わる選手も目立っている。また、松井秀喜のように巨人復帰を望まれながらもアメリカで引退する選手もいる。「田中と違い、松井は2002年に巨人からFA宣言する記者会見で、『何を言っても裏切り者と言われるかもしれないが、いつか松井は行ってよかったと思われるように頑張るしかない』と悲壮感を滲ませていた。当時は巨人戦が毎試合、地上波でナイター中継されており、球界は巨人を中心に回っていた。今と異なり、巨人を出ていくことは相当な勇気が要ったはずです」 野茂英雄が1995年にドジャースで成功してから、日本人選手のメジャー挑戦が本格的に始まった。ただ、打者は2001年にイチローと新庄剛志が初めて契約したばかりで、投手も含めて巨人から飛び出す選手はいなかった。まして川上哲治、長嶋茂雄、王貞治、原辰徳と伝統のある巨人の4番を捨てることは、オールドファンの価値観に背くことでもあったのかもしれない。「球団やファンの中には、内心快く思わない人間もいたでしょう。そんな空気を察したからこそ、松井の口から“裏切り者”という表現が生まれたのではないか。もちろん、松井も巨人からFAした時点で、二度と戻れないと思っていたでしょうし、戻るつもりもなかったはず。FA直後の自主トレはジャイアンツ球場を使用しましたが、翌年以降は都内のグラウンドに場所を変えていました」 松井が去った後の巨人の対応も、楽天が田中に見せたような対応とは異なるものだった。「2008年のドラフト会議で東海大相模高校の大田泰示を1位指名すると、巨人は松井の代名詞である背番号55を与えた。元々、メジャーに骨を埋める気持ちだったとはいえ、これで完全に巨人復帰が消えたのではないか。松井も当然、思うところはあったでしょうし、大田もプレッシャーになってしまった。結局、大田は巨人で結果を残せず、トレード先の日本ハムで開花した。特別な55番を新人に付けさせたことで、ファンの不信感も芽生えたし、巨人にとって何ひとついいことのない出来事だったと言えるでしょう」 2009年、松井はヤンキースの一員としてワールドシリーズに出場し、MVPを獲得。オフには契約満了に伴ってFAとなった。「もしかしたら諸々の条件さえ揃えば、今年の田中と同じように巨人に復帰する可能性があったかもしれない。しかし、松井はまだまだメジャーでの挑戦を続けたかったでしょうし、何よりそれまでの経緯もありますから、松井は古巣のユニフォームに袖を通す気持ちにはなれなかったのではないでしょうか」 引退後のインタビューで、松井は〈可能性はあったよね。でも、あの時はひざが最悪だった。次の年から多少、良くなったんだけど。(東京ドームの)人工芝で守る自信はなかったね。万全なら、守れる状況ならわからなかったけど、その時はヤンキースが再契約しただろうね(笑い)〉(『スポーツ報知』2013年5月5日付)と語っているものの、リップサービスの感は否めない。 松井のメジャー挑戦以降の18年間で、日本球界は変貌した。巨人も時代の流れに沿うように、ポスティングを認めるようになり、2019年オフには山口俊が球団で初めて利用し、ブルージェイズに移籍した。もし2002年の巨人が松井のFAを積極的に容認し、その後も復帰を歓迎する体制を整えていたら、田中のように古巣に舞い戻ってくることもあったかもしれない。
2021.01.29 16:28
阪神を去るノムさんが愛弟子・赤星に残した「2つの伝言」
阪神を去るノムさんが愛弟子・赤星に残した「2つの伝言」
 野村克也氏が亡くなったのは2020年2月。まもなく1年が経とうとしているが、その教えと言葉は今も球界に燦然と輝く。『週刊ポスト』(2020年12月21日発売号)では、野村監督の教えを受けた4つの球団の名手8人が、「ノムさんの言葉」を回想している。そこに収録できなかった未公開証言をNEWSポストセブン読者にお届けしよう。 本稿では、監督として3年間指揮した阪神タイガースの2人の証言を紹介する。野村氏はプレイングマネージャーだった南海、1990年代に黄金時代を築いたヤクルトではリーグ優勝を果たし、最後に指揮を執った楽天でも、弱小球団を4シーズンで2位に押し上げる手腕を見せた。しかし、阪神監督を務めた3年間(1999~2001年)は3年連続の最下位に沈んだ。野村氏の教えはその後に花開き、2003年には28年ぶりにリーグ優勝、2005年にも優勝を果たす。野村氏の撒いた種は確実に育っていたのである。 * * * 6年連続のBクラス、特に貧打にあえいでいた阪神の監督に就任した野村氏は、得意の「貧者の野球」を展開するため、機動力を活かした攻撃を模索した。俊足選手を好んで起用し、「F1セブン」と呼んだが、その「1号車」に指名されたのが、のちに5年連続盗塁王となる赤星憲広氏だった。野村阪神最終年の2001年にルーキーだった赤星氏は、野村氏から盗塁では「キャッチャーをよく見ろ」と教えられたエピソードを週刊ポストで語っている。1シーズンだけの師弟関係だったが、赤星氏は野村氏の温かい人柄に支えられたと語る。「ノムさんからは『強いゴロかライナーを打てば足を活かせる』というアドバイスももらいました。『当てただけのゴロは、プロの内野手ではヒットにならない。アマチュアと違って当て逃げは通用しない』というのです。プロで生きるための発想をもらいましたね。 1年目には盗塁王と新人王をいただきましたが、ノムさんからは『お前はこれくらいできて当たり前の選手だ』とほめてもらいました。でもそれに続けて『この程度で満足しちゃいかんぞ』とも言われました。その年限りでノムさんは退団されてしまいましたが、その最初の契約更改の時、ノムさんからの伝言を聞かせてもらいました。『普通に勉強すれば、お前は楽々3割打てる』、それから『背番号(53番)をもっと軽くしてやってくれ』という2つです。それだけ気にかけてもらっていたことがうれしかったですね。背番号は変えませんでしたが(笑い)。 ノムさんは、ボヤきとか、厳しい監督というイメージで見られていますが、細かい気配りをしてくれる優しい人だと思います。僕がケガで引退することになった時、唯一止めてくれたのがノムさんでした。星野仙一さんとノムさんには事前に連絡したのですが、ノムさんは、『ちょっと待て。まだなんとでもなるやろ。俺の知り合いに診てもらって、その人たちがダメと言えば納得できるが、それまでは引退は待て』と親身になって話してくれました。情の厚い人でした。引退後も球場で会うと、あちらから話しかけてくれました」 もう一人、「野村再生工場」の最高傑作の一人に数えられる遠山奨志氏(昭治)の話も聞こう。1985年にドラフト1位で阪神に入団し、1年目から8勝をあげて活躍するが、肩を傷めて1990年オフにロッテにトレードされて野手に転向した。1997年オフに戦力外になると、阪神に投手としてテスト入団。野村氏が監督になると、サイドスローの左腕としてワンポイント起用で活躍し、特に巨人の松井秀喜、高橋由伸キラーとして名を馳せた。「プロ人生の最後に野村監督と出会って野球に対する考え方が変わりました。キャンプ中のミーティングが長いことは有名ですが、なにしろ食事したあとに始めるので、眠いし疲れるしで辛かったですね(笑い)。もちろん内容には興味があるし面白いんですよ。 監督はピッチャーの感覚や経験、キャッチャーの感覚や経験が大事だということがよくわかっていて、松井との対戦でも、ベンチから指示はまったく出ないんです。僕自身、どうやって打ち取るか考えるようになって、初球が入りやすくなりました。もちろん野村監督の考えと違うこともあったし、うまくいっても常に修正が必要。そのためにミーティングは大事にしていました」 ボヤきの裏に選手を尊重する指導者の姿があったからこそ、多くの教え子が厳しい指導についていったのだろう。
2020.12.19 16:37
早大の早川隆久投手の交渉権は、4球団競合の末、楽天が獲得した(時事通信フォト)
ドラフト競合時のクジ順を検証 早く引いたほうが有利?
 残り物に福があるのか。それとも、早く引いたほうが有利なのか──。今年のプロ野球ドラフト会議は、早稲田大の早川隆久投手、近畿大の佐藤輝明内野手に各4球団の入札があった。抽選の末、早川は楽天、佐藤は阪神が交渉権を獲得。ともに2番目にクジを引いた球団だった。佐藤を指名した巨人は、ドラフト1位の抽選で10連敗となった。 1965年のドラフト開始以降、1位指名で4球団以上の競合は32回ある。そのうち、4番目以下にクジを引いた球団の交渉権獲得は7回で、21.9%(小数点2位以下を四捨五入。以下同)しかない。 すなわち、3番目までに抽選箱に向かった球団が78.1%の確率で交渉権を引き当てている。その内訳は、クジ引き順の1番が31.3%、2番が各25%、3番が21.9%である。つまり、2番目までに引ければ56.2%という理論値よりも高い確率で、当たりクジに巡り合える。例えば、1966年の江夏豊は阪神、巨人、阪急、東映の4球団が競合して1番の阪神・戸沢一隆球団代表、2009年の菊池雄星は西武、阪神、ヤクルト、楽天、中日、日本ハムの6球団が集中して1番の西武・渡辺久信監督が引き当てている。 このように過去のデータを見れば、早く引けば引くほど有利のように思える。だからといって、抽選順の遅い球団が大物を指名回避すべきとも言い難い。 1979年の岡田彰布は6球団の中で4番目の阪神、1985年の清原和博は6球団の中で5番目の西武が獲得。岡田は主軸として1985年の日本一に貢献し、引退後は監督として2005年に20年ぶりの優勝を果たした。清原は西武在籍11年で8度の優勝、6度の日本一に導き、黄金時代を築いた。 最後まで当たりクジが残っていたのは、1989年の近鉄(野茂英雄・8球団)、1992年の巨人(松井秀喜・4球団)、2010年の西武(大石達也・6球団)、2013年の楽天(松井裕樹・5球団)、2018年の広島(小園海斗・4球団)の5回。野茂は1年目にタイトルを総ナメにしてMVPに輝き、4年目まで最多勝、最多奪三振を取り続けた。松井は巨人の主軸としてMVP3回、首位打者1回、本塁打王3回、打点王3回を獲得した。彼らがいなければ、球団の歴史は変わっていただろう。 巨人は1位指名の4球団以上入札32回のうち14回に名を連ねている。抽選外れの12回を見ると、既に当たりを引かれており、手の施しようのない状態だった。しかし、最初から諦めていれば、1980年の原辰徳(クジ順4球団中3番目)、1992年の松井秀喜という時代を作る4番打者は獲得できなかった。 クジ引きは単なる運でしかない。しかし、挑戦しなければ運を掴めないことも事実である。■文/岡野誠:ライター、松木安太郎研究家。NEWSポストセブン掲載の〈検証 松木安太郎氏「いいボールだ!」は本当にいいボールか?〉(2019年2月)が第26回『編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞』デジタル賞を受賞。著書『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記』(青弓社)の巻末資料では田原の1982年、1988年の全出演番組(計534本)の視聴率やテレビ欄の文言、番組内容などを掲載。
2020.10.28 10:58
サンズの活躍が阪神上位進出のカギか(時事通信フォト)
阪神ボーアは5番で復調 サンズには何番を打たせるべきか?
 プロ野球の開幕から1か月弱が経過し、新外国人に明暗が分かれ始めている。セ・リーグ最下位に沈んでいる阪神では、“バースの再来”と期待されたボーアの打棒に開幕前から注目が集まっていた。 ボーアは開幕からスタメン4番で18打席連続ノーヒットと不調に喘いだものの、打順が降格して以降、調子を取り戻した。最近11試合連続(記録は7月12日現在。以下同)は5番を打ち、その間3割7分8厘、4本塁打、11打点と急上昇。7月5日の広島戦では勝ち越しの満塁本塁打を放った。一方、もう1人の新外国人打者サンズはスタメン10試合全て6番で、1割8分8厘と苦しんでいる。野球担当記者が話す。「あのバースは来日1年目の1983年、故障で開幕に間に合わず、最初は代打で起用されていた。スタメンになってからも、当初は7番を打っていた。“巨人史上最強の助っ人”と言われるクロマティでさえ、開幕直後は6番を打ち、5月には7番に下がっていた。日本で2000本安打を達成したラミレス(現・DeNA監督)もヤクルトに入団した2001年は主に7番を打っていた。 日本球界に名を残す外国人選手も、必ずしも最初から順応していたわけではありません。特に巨人や阪神のような球団だと、打てなければマスコミに大きく取り上げられる。新外国人には最初から期待しすぎるのではなく、まずは気楽な下位打線で日本野球に慣れさせてから打順を上げる方が得策なのかもしれません」(以下同) 阪神でも、2010年にはマートンが1番や3番を任されてシーズン最多記録の214安打(当時)を打ったり、2014年にはゴメスが来日1年目の開幕戦から4番を打ち続け、打点王を獲得したりするケースもあった。それでも、他の年の新外国人を考えれば、稀有な例と見る方が無難だ。「今の阪神には他に中軸を任せられる選手が少なく、新外国人に打ってもらわなければ困るというチーム事情がある。1シーズンを考えれば、サンズの打棒が爆発しないと上位進出は望めない。日本の攻め方に慣れれば、打ち始めるかもしれない。だからこそ、思い切って7番、8番という気楽な打順に置く手も必要かもしれません。韓国時代も三振が多い選手でしたが、現在35打席で10三振。8番に置かれれば、9番は投手なので『まともに自分と勝負してこない』と考え、ボールを見極めるようになるという効用があるんです」 1995年、ヤクルトのミューレンがその例だという。“恐怖の8番打者”と呼ばれ、日本一に貢献した外国人選手である。前年、ロッテのクリーンアップの一員として期待され、オープン戦15試合で5本塁打を放ち、開幕4番でスタートした。だが、日本の投手に苦戦し、4月下旬には6番、ゴールデンウイークが終わると7番にまで打順が下がった。 夏場、調子を上げてきたミューレンは8月になると4番に復帰。シーズンを通して、打率2割4分8厘、23本塁打、69打点を残したが、外国人を3人しか1軍登録できず、野手、投手に3人ずつの配置を禁じられていた当時、合格点とは言えず、自由契約となった。それを拾ったのが、野村克也監督のヤクルトだった。「1995年のヤクルトは古田敦也、オマリーはクリーンアップ当確としても、もう1人はミューレンが打ってもおかしくなかった。この年のヤクルト打線は池山隆寛に陰りが見え始め、層は厚くなかったですからね。野村監督は開幕当初はミューレンを6番に置いたが、そのうち7番に下げ、8月中旬以降はほとんど8番で固定した。下位になったことで、ミューレンの考え方が変わったんです。 8番、9番の打力は弱いので、相手は『四球でもいい』とボール球で釣ってくる。それまでのミューレンは外角の変化球に手を出して空振りしていましたが、見極められるようになった。前年よりも選球眼が良くなり、四球が前年の36(敬遠1)から60(敬遠4)と増えた。『まともに勝負してこない』と意識を変えただけで、調子が上向いた。結果的に、2割4分4厘、29本塁打、80打点を上げました。 もしクリーンアップを打っていたら、マークが厳しくなるし、打たなければならないという重圧から外角の変化球を追いかける癖は治らず、数字は伸びなかったでしょう。野村監督は1993年も、外国人のハドラーに主に8番を打たせ、3割をマークさせています」 ミューレンは中軸なら打率の低さを指摘されるが、主に7番、8番で29本、80打点なら文句なしの成績。この2部門では、古田や池山を上回り、オマリーに次いでチーム2位。同年巨人の4番だった落合博満よりも上で、松井秀喜と打点は同じ、ホームランは7本も多かった。また、打順別のホームラン数を見ると、5番・2本、6番・9本、7番・8本、8番・10本と“恐怖の8番打者”にふさわしい数字が残っている。 監督の起用法次第で、潜在能力の高い外国人選手は生き返ることもある。野村監督の教え子である矢野燿大監督は、チームの鍵を握るサンズをどう扱っていくか。
2020.07.14 08:42
今も昔も共通する「三冠王を狙える打者」の特長とは?
今も昔も共通する「三冠王を狙える打者」の特長とは?
 令和初の「三冠王」は誕生するか──好調なスタートを切ったのは巨人の岡本和真だ。10試合を終えた時点で打撃三部門のリーグトップとなった。その後、15試合終了時点(7月7日)で本塁打は2位、打点は7位となったが、打率1位はキープしている。さらにセではDeNAの宮崎敏郎、広島の鈴木誠也、パでは楽天の浅村栄斗といった過去の打撃タイトルホルダーたちも3部門すべてでベスト5に名を連ねている(7月7日時点)。 三冠王は昔より難しくなったとの見方もある。1988年に40歳で44本塁打、125打点で二冠王に輝くも打率.311で6位に沈んだ門田博光氏(72)はいう。「僕の時代、(一塁手以外の)内野手はしっかり守って打率2割5分が合格とされ、打撃タイトルは外野手やファーストの選手で争っていた。でも今は浅村や坂本のように守備が大変な内野手にも好打者が増えて、タイトル争いが激しくなっている」 2004年のダイエー・松中信彦を最後に三冠王は15年間出ていない(それ以前は中島治康、野村克也、王貞治、落合博満、ブーマー・ウェルズ、ランディ・バースの6人)。岡本にとって「巨人の4番」の大先輩にあたる松井秀喜は2002年のシーズンで、中日の福留孝介(現在は阪神)に打率が及ばず二冠に終わった。 加えて、3つのタイトルのうち1つでも飛び抜けた選手がいると、三冠王の難度が増す。「かつてのイチローのように、7年連続で首位打者になる選手がいると三冠王は厳しい。松中が三冠王を獲ったのも、イチローがメジャーに移籍してからです。現在のパではソフトバンクの柳田悠岐が三冠に最も近いと思うが、本塁打数で西武の山川穂高を超えるのは至難の業でしょう」(同前) 2012年には巨人の阿部慎之助が打率と打点のタイトルを獲得したが、本塁打でヤクルトのバレンティン(現在はソフトバンク)の後塵を拝した。バレンティンは2011から3年連続本塁打王に輝いている。 1953年に本塁打、打点の二冠王に輝くも、打率が4厘届かず。その後も3度、二冠に輝くが三冠には届かなかった中西太氏(87)は、三冠王を狙える良いバッターには今も昔も変わらぬ特長があると指摘する。「昔よりボールもバットも数段良くなった代わりに、凄い球を投げるピッチャーが増え、スコアラーによって選手は丸裸にされ、打者のライバルも多くなりました。そんな中で求められるのは体全体を使ったしなやかなスイングで、逆方向にホームランを打てる能力。その技術を身につければ自ずと打率も上がってくる。そういうバッターでなければ、三冠王は狙えない」 現役バッターで中西氏が、特に期待する選手はやはり岡本だという。「岡本は成長しました。遠くに飛ばすのは力ではなく、体全体でボールを捕らえて捻ることだと理解し、ライト方向に打球が飛ぶようになった。2年連続で30本塁打を打ち、2018年には100打点、3割をマークした。どこを攻められても対処できる、踏ん張れる穴のない打撃を心がければ、さらに良い結果を残せるはずです」 技術的には申し分ない。ただ門田氏はこう注文をつける。「岡本で気になるのは太り気味に見えるところ。開幕時は元気でも、体重がありすぎるとシーズン半ばに疲れが出てキレがなくなり、体の回転で打てなくなるからです。体調管理をしっかりして、最初に30本打った2年前の体に戻せば、三冠を十分に狙えます」 コロナにより異例のペナントとなった今季は、巨人の若き大砲・岡本が令和初の伝説を作るかもしれない。※週刊ポスト2020年7月24日号
2020.07.13 16:44
中西、加藤、門田…最強二冠王が語る「三冠王に必要なもの」
中西、加藤、門田…最強二冠王が語る「三冠王に必要なもの」
 長き球史で達成者はわずか7人(11回)。中島治康、野村克也、王貞治、落合博満、ブーマー・ウェルズ、ランディ・バース、松中信彦だけが成し遂げている。あの長嶋茂雄や松井秀喜ですら成しえなかった「三冠王」という大記録に、まだシーズン序盤とはいえ、期待を集める選手が両リーグに現われている。ただ、これまで数多くの強打者が“あと一冠”に涙を飲んできた。 好スタートを切ったのは巨人の岡本和真だ。10試合を終えた時点で打撃三部門のリーグトップとなった。その後、15試合終了時点(7月7日)で本塁打は2位、打点は7位となったが、打率1位はキープしている。 さらにセではDeNAの宮崎敏郎、広島の鈴木誠也、パでは楽天の浅村栄斗といった過去の打撃タイトルホルダーたちも3部門すべてでベスト5に名を連ねている(7月7日時点)が、球界のレジェンドたちは「最注目はタイトル未経験の岡本」と口を揃える。三冠王への道の険しさを誰より知る、惜しくも三冠王を逃した歴代の「二冠王」たちはどんなアドバイスを送るのか。「怪童」と呼ばれた中西太氏(87)は、西鉄入団2年目の1953年に本塁打、打点の二冠王に輝くも、打率が4厘届かず。その後も3度、二冠に輝くが三冠には届かなかった。最も三冠に肉薄したのは最終戦を残して本塁打、打点がトップだった1956年のシーズン。「チームメイトの豊田泰光を4毛下回る打率2位からの逆転を狙ったが、最終戦で三原脩監督は、両選手をオーダーから外しました。それまでタイトルに縁のなかった豊田に首位打者を獲らせたかった三原監督の温情だったと言われています」(元スポーツ紙編集委員) 当の中西氏はサバサバと振り返る。「僕の時代は三冠王が騒がれることもなく、個人記録よりチームの日本一が目標でした。豊田君と打率を競った時も、チームメイトと争う気持ちはなかった。最終戦の欠場も日本選手権のために練習をしただけで、三冠王は頭にありませんでした」 中西氏のようにチームメイトに三冠を“阻止される”ケースは少なくない。その典型が巨人の長嶋茂雄と王貞治。1963年は王が本塁打王に輝き長嶋の三冠を阻み、1968~1970年は長嶋が打点王を獲得して王に三冠を獲らせなかった。 岡本に置き換えて考えれば、坂本勇人ら巨人のチームメイトの調子もカギとなりそうだ。ただし、岡本の前を打つチームメイトが調子を落とせば、打点王が遠ざかるというジレンマも抱えている。◆ヒットを狙ってチャンスを逃す 三冠王は、自分の力だけで達成できるものでもない。1979年のパ・リーグ、三冠王を狙える位置にいた阪急の加藤秀司氏(72、当時は英司)は、近鉄のマニエルと本塁打王争いを続けていた。迎えたシーズン終盤の近鉄との直接対決。すでに阪急が優勝を確実にして消化試合ムードが漂う中、近鉄リードで迎えた8回裏に加藤を1本差でリードするマニエルが打席に立った。「誰もが勝負を避けると思ったが、マウンドの今井雄太郎は真っ向勝負。マニエルは今井の球をライトスタンドに放り込み、本塁打王争いの大勢が決まった。試合後に加藤が『消化ゲームでっせ。普通は歩かせるやろ』とボヤいたのを覚えている」(当時阪急担当の元在阪スポーツ紙記者) 加藤氏に当時の心境を聞いたところ、ぶっきらぼうにこう答えた。「誰にでも思い出したくない過去はあるんや。消化試合でウチのピッチャーが打たれた。それだけや」 シーズン終盤ではメンタル面が重要と指摘するのは、南海・ダイエー・オリックスで活躍した門田博光氏(72)だ。1988年に40歳で44本塁打、125打点で二冠王に輝くも打率.311で6位に沈んだシーズンを振り返る。「後半戦で本塁打王と打点王が確実になり、“あとは小さなスイングで打率を稼ごう”と考えたんです。しかしいつでも打てると思っていたヒット狙いに切り替えると、かえってうまくいかなかった。三冠を獲る最後で最大のチャンスだったんですけどね」※週刊ポスト2020年7月24日号
2020.07.12 16:43
巨人戦の視聴率はなぜ上がらないのか(時事通信フォト)
他球団の試合は好調でも… 巨人戦の視聴率が低迷する背景
 新型コロナウイルス感染拡大の影響で約3か月遅れで開幕した、今年のプロ野球は、近年では珍しく、日本テレビが地上波で開幕戦から5試合連続で巨人戦を中継した。6月19日、阪神との開幕戦の視聴率は10.7%(ビデオリサーチ調べ/関東地区。世帯視聴率。以下同)だった。デーゲームの2戦目は7.3%、3戦目は5.8%を記録した。テレビ局関係者が話す。「ファンも待ち望んでいましたし、外出自粛ムードもあるので在宅率も高い。ここ数か月、スポーツ自体が行われていなかったですから、もう少し伸びるかと思いましたが……。巨人の開幕戦は昨年10.6%、一昨年9.2%なので、例年とあまり変わりませんでした。デーゲームの数字は最近の中では、悪くないと思います」(以下同) 続く広島戦との3連戦のうち2戦はナイター中継だったが、6月23日は8.9%、24日は7.5%と数字は伸びなかった。「これは、日テレにとって痛い数字でした。6月の第4週(22~28日)の世帯視聴率で日テレは全日帯では1位を獲得しましたが、ゴールデン帯とプライム帯はテレビ朝日がそれぞれ11.1%、11.6%を記録し1位の座を明け渡しています。2位の日テレとの差はそれぞれ0.2%、0.8%です。つまり、巨人戦で週に2度も夜7~8時台に1桁を出してしまったことが大きな原因なのです。 この2局は熾烈な視聴率争いをしていますが、週間のゴールデン帯では日テレがだいたい勝っています。6月の月間視聴率でも、プライム帯はテレ朝が首位でしたが、ゴールデン帯は日テレがNHKと並び、11.5%でトップでした。巨人戦中継が視聴率争いの足かせになっているのは、残念ながら間違いありません」 地上波だけでなく、CS放送や動画配信サービス「DAZN」などでも巨人戦は中継されている。その分、視聴率が分散するとの指摘もある。「確かに普段から巨人を応援しているファンは余計な演出のないCSなどを見るかもしれません。しかし、地上波以外の視聴率を換算しても、実際は雀の涙ほどにしかならない。仮に今後、地上波のみの中継が実現しても、12%を超えるとは考えづらいのではないでしょうか。 日テレは今年、あと4試合巨人戦ナイターを中継する予定になっていますが、いかに下げ止めるかを模索するしかない。昨年8月29日、松井秀喜氏と高橋由伸氏のダブル解説という往年のファンにとって堪らない演出をしても6.7%しか取れなかった。今後も低い数字を覚悟しないといけないでしょう」 関東地区の巨人戦は視聴率に苦しんでいるが、他の地区でのプロ野球中継は低迷するどころか、高視聴率を稼いでいる。「ゴールデン帯の開幕ナイターの数字をおさらいすると、関西地区の巨人対阪神(読売テレビ)は17.4%、広島地区のDeNA対広島(広島テレビ)は27.6%、札幌地区の西武対日本ハム(札幌テレビ)19.7%、仙台地区のオリックス対楽天(NHK)は17.6%、北部九州地区のソフトバンク対ロッテ(テレビ西日本)は17.7%です。 これらの地域のファンも、契約すればCSやDAZNは観られる環境にある。それにもかかわらず、地上波で高い数字を記録している。この事実からも明らかなように、巨人戦の地上波中継の視聴率が上がらないのは、決してCSやDAZNで観られるからではないんですよ。ちなみに、名古屋地区のヤクルト対中日(東海テレビ)は9.9%で、地方局の開幕戦中継で唯一1桁でした。もう何年も中日が低迷しているので、ファン離れが進んでいることが、数字にハッキリ現れている。全体的に見て、巨人戦の視聴率低下はプロ野球人気の低下ではなく、単に巨人の人気が落ちていると考えるべきでしょう」 8年連続Bクラスの中日と異なり、巨人は昨年5年ぶりのリーグ優勝を果たし、今季も好調なスタートを切っている。それでも、視聴率上昇の気配は見えてこない。「昔、20%を取っていた頃はプロ野球中継が巨人戦のみでした。他球団のファンは途中経過を見るためにスイッチを付けていた面もある。それが多チャンネル化によって、巨人戦の数字が相対的に下がった。また、他球団は地元密着を進め、成果を上げているので、地域で高視聴率を取れる。一方、巨人は本拠地のある東京、関東地区にアピールしきれていないとも言えます」 かつて巨人戦の視聴率はプロ野球人気全体のバロメーターだったが、今はそうではない。地域密着型のチームが増える中で、巨人の全国区での人気にも陰りが見え始めているということか。はたして地上波で巨人戦の視聴率が上がる日は来るか。
2020.07.02 16:44
今シーズン中に球団歴代1位の勝利数に到達しそうな巨人・原辰徳監督(時事通信フォト)
『ジャイアンツ愛』から18年、巨人・原監督の名将への軌跡
 昨年、5年ぶりのセ・リーグ優勝を果たした巨人。6月19日に開幕する今季プロ野球で通算14年目を迎える原辰徳監督はこれまで1024勝を挙げており、順当に行けばシーズン中に長嶋茂雄監督の1034勝、川上哲治監督の1066勝を抜き、球団歴代1位の勝利数になりそうだ。なぜ、原監督は“勝てる監督”になったのか。野球担当記者が話す。「時代によって、采配スタイルを変えてきたことが大きい。2002年、長嶋監督の後を受けて43歳で就任した時は『ジャイアンツ愛』をキャッチフレーズに、選手を尊重して情に厚い指揮官でした。松井秀喜が全試合4番に座り、二冠王を奪取。前年まで不振に陥っていた桑田真澄も復活して、最優秀防御率を獲得した。原監督が選手を信じ、我慢して起用したことで、斉藤宜之や鈴木尚広など長嶋政権時代には芽が出なかった若手が成長し、チーム全体がのびのびとしていました。毎年のように大型補強をしていた長嶋監督時代と異なり、この年の補強は新外国人のワズディン、クレスポ、中日からFAで前田幸長を獲ったくらいでした」(以下同) 2002年は序盤こそ星野仙一監督1年目の阪神が快走したが、夏場には巨人の独走状態に。2位・ヤクルトに11.0ゲーム差をつけ、原監督が宙に舞った。日本シリーズでもパ・リーグ王者の西武を圧倒し、4勝0敗で日本一に。選手時代の1990年、0勝4敗と叩きのめされた相手に雪辱を果たした。新たな黄金時代の到来かと思われたが、オフには松井がヤンキースに移籍。その一方で、松井と本塁打王を争っていたロベルト・ペタジーニをヤクルトから獲得した。「“脱長嶋野球”で日本一になったのに、他球団の4番を奪ってくるという補強に逆戻りしてしまった。原監督の意思というより、フロントの意向だったのでしょう。ペタジーニの本職である一塁には清原和博がいるため、外野で起用しましたが、開幕戦で本塁への送球を暴投するなど守備の乱れも目立った。この頃の原監督は良くも悪くも頑固で、前半戦は清原が欠場していてもペタジーニを外野で使っていましたし、抑えの河原純一が何度失敗しても9回を任せ続け、チームの調子は上がりませんでした」 この年は3位とAクラスを確保したが、原監督は球団代表との確執も噂され、辞任。後を受け継いだ堀内恒夫監督が3位、5位に終わると、2006年から第2次原政権が始まった。スタートダッシュに成功し、最大貯金14と首位を快走したが、交流戦で失速。6月に8連敗、10連敗、7月に9連敗を喫し、最下位に落ちた時期もあった。なんとか4位に踏みとどまるも、借金14で球団史上初の2年連続Bクラスに終わった。「この年がターニングポイントでしたね。故障者が続出したことで、『巧い選手ではなく、強い選手が欲しい』と言うようになった。時折非凡さを感じさせるプレーをする選手よりも、年間を通して働ける選手を望みました。“強い選手”は計画性や己を律する能力がある、と原監督は考えています。2006年の惨敗をきっかけに、完全な実力至上主義を打ち出し、情に厚いイメージが消えた。このオフから『ジャイアンツ愛』という言葉が、ほとんど聞かれなくなりました」 2007年の春季キャンプで、前年の後半戦に1番として起用した鈴木尚広、チームリーダーとしても期待の二岡智宏がケガで離脱すると、報道陣に〈鈴木? 痛いのかゆいの言って、土俵にも上がっていない。二岡? そんなのいたっけ?〉と突き放した。シーズンに入ると、二岡は139試合に出場し、打率2割9分5厘、20本塁打と主軸として活躍した。しかし、7月の広島戦では、チャンスの場面で代打に小関竜也を送るなど厳しい一面を見せた。「原監督はコーチの頃から二岡に大きな期待を掛けていましたし、レギュラー選手のプライドを重視していた第1次政権では考えられない采配でした。結果的に小関は凡退し、この用兵は当たらなかった。ただ、誰も特別扱いしないという方針を示したことで、チームに緊張感を生んだ。 この年、原監督は1番に高橋由伸を抜擢し、先発に拘っていた上原浩治を抑えに回した。オフにはFAで小笠原道大、トレードで谷佳知を獲得した。彼らがシーズンを通して働いて“強い選手”の模範となり、巨人は5年ぶりの優勝に輝きました。監督の意識改革が、そのままチーム改革につながった。小笠原や谷の補強は数字の面だけでなく、練習への姿勢などでも他の選手への影響を与えていた。指揮官にはそんな狙いもありました」 原監督は2007年から3連覇、2009年にはWBCで指揮を執り、世界一に導いた。落合博満監督の中日に2年間覇権を渡してしまうが、2012年からまた3連覇。2位に終わった2015年限りで退任したが、2019年に復帰するとチームを5年ぶりの優勝に導いた。「プロ野球の歴史を振り返ると、名将と呼ばれた監督たちも在任期間が長くなると、徐々に勝てなくなってくる。原監督のように“第3次政権”となると、過去の成功体験に囚われてしまいがちです。選手の考え方は世代によって変わっていきますし、時代に合わなくなっていくのです。 しかし、原監督は常に自身をブラッシュアップさせ、考え方も戦略も柔軟に変化させている。肉体は衰えますが、思考は何歳になっても変えられると示しています。昨年、丸佳浩や炭谷銀仁朗というFA組は活躍したが、期待された中島宏之や岩隈久志という移籍組、ビヤヌエバやクックといった新外国人は数字を残せなかった。エースの菅野智之も不調に陥る中、原監督が選手を適材適所で起用することで、なんとか優勝できた。第2次政権で山口鉄也や松本哲也などが育ったように、昨年も増田大輝や若林晃弘が伸びました」 今年の巨人はオフに目立った補強もできず、戦力的に頭抜けているわけではない。坂本勇人や大城卓三が開幕から全開というわけにもいかない。先発も、昨年の勝ち頭である山口俊がメジャーに行き、菅野以外で計算できる投手が少ない。苦しい状況の中、原辰徳はどう選手をやり繰りし、巨人監督最多勝利を実現するか。
2020.06.17 16:58
日本テレビが巨人戦を地上波中継する狙いは?(時事通信フォト)
日本テレビが巨人戦を地上波中継 視聴率10%超えが合格点か
 6月19日、新型コロナウイルス感染拡大の影響で遅れていたプロ野球が開幕する。近年では珍しく、日本テレビが開幕戦から5試合連続(ナイター3試合)で巨人主催試合を生中継すると発表された。現段階では19~21日の阪神戦、23~24日の広島戦、そして7月4日の中日戦の、計6試合の地上波中継が発表されている。はたしてその狙いは一体、どこにあるのか。テレビ局関係者はこう語る。「バラエティはロケもままならず、リモート収録にも試行錯誤しており、総集編ばかり流していると、そのうち視聴者に飽きられてくる。プロ野球のみならず、スポーツ自体が開催されていないですし、在宅率もまだまだ高い。総合的に考えて、例年の巨人戦よりは需要があると判断したのでしょう」(以下同) 1983年には平均視聴率27.1%(ビデオリサーチ調べ/関東地区。以下同)を叩き出した巨人戦のナイター中継も、2000年から数字が下落し、2005年には平均視聴率10.2%と過去最低に。翌年から放送数は減っていき、昨年は数えるほどしか地上波中継がなかった。「2019年に2ケタを獲ったのは開幕戦だけ。優勝決定試合である9月21日のDeNA戦もBSでの放送に留まりました。昔は30~40%も期待できた日本シリーズでも、4戦中3戦が1ケタになってしまった。視聴率トップを走る日本テレビですが、巨人戦を中継すると、その日は首位から陥落するという事態になっています」 そもそも、巨人戦の視聴率はなぜ2000年頃から下がっていったのか。「2000年はFAで工藤公康というエース、江藤智という4番打者を他球団から獲得し、勝って当たり前の状態で、本当にそのまま勝ってしまった。それまでも清原和博や広沢克己という4番打者がFA移籍してきましたが、思うようには勝てなかった。2000年も序盤はつまずきましたが、夏には独走状態になった。その辺りから数字が下がり始めたんです。それに、毎年のように大型補強を重ねたことも、ファン離れに繋がっていった要因かもしれません」 実は、巨人が9年連続日本一になったV9時代の後半、平均視聴率は20%に届いておらず、V9最後の1973年は16.6%だった。「それが長嶋茂雄監督1年目で最下位に沈んだ1975年は21.5%と跳ね上がった。強い頃より弱い時の方が、数字が上がっていた。第1次長嶋政権の6年間で、最高は3連覇を逃した1978年の24.9%、2番目は江川卓入団1年目で5位に沈んだ1979年の24.6%です。2年とも優勝していません。 1980年代は全て20%を超え、最も良かった1983年は3年目の原辰徳がMVPを獲得し、江川や西本聖などの活躍で優勝しています。ただ、2番目の25.6%を記録した1982年、1984年は共に優勝を逃しています。この頃はFAもなく、若手を育てるしかなかった。その中で、駒田徳広、槙原寛己、吉村禎章の50番トリオなど毎年のように生え抜きが出番を増やしていった。そんな成長過程に、ファンが惹かれていた面もあるでしょう」 今年の巨人はオフのFA補強でロッテの鈴木大地、楽天の美馬学の獲得を目指したが、2人とも他球団に奪われ、獲得は叶わなかった。新加入選手は育成選手を除けば、外国人とドラフト指名のみ。生え抜きの若手にとって、チャンスの年になる。「ファンも生え抜きスターを望んでいる。それは、1970年代後半や1980年代の視聴率からも明らかです。4番・松井秀喜を中心として、若手も台頭した2002年、平均視聴率は前年の15.1%から16.2%と上昇しました。翌年、松井がヤンキースに移籍したこともあって、視聴率は下がっていくのですが……。古いデータですが、ファンが惹かれる要素はそうは変わりません。今年の巨人は4番に岡本和真がどっしり座るでしょう。スタメンに俊足の吉川尚輝や3年目の大城卓三が加わり、昨年同様にベテランの亀井善行が渋い味を出す。そんな試合が常時、地上波で中継されれば、人気も徐々に回復するかもしれません」 多チャンネル化されていなかった1980年代はほとんど巨人戦しか中継されておらず、他球団のファンも巨人戦を見て、応援するチームの途中経過に一喜一憂していた。現在はBSやCSで12球団の試合が放送されており、プロ野球ファンが巨人戦に一極集中することはない。今年の中継で、日テレはどのくらいの数字を取れば合格点になるのか。「今は地上波全体の視聴率が下がっているので、昔のような20%は誰も求めていない。6月第1週の日テレのゴールデン帯の世帯視聴率は11.5%です。この辺りが基準になるでしょう。 最近3年間の開幕戦は2019年10.6%、2018年9.2%、2017年10.7%と2ケタ前後になっています。昨年8月29日に松井秀喜、高橋由伸という豪華解説陣を迎えた広島戦でも6.7%だった。この数字では、厳しいでしょう。 ナイター中継はまずは平均10%超えを目指したい。ナイター3戦とも12%以上を取ったら、巨人戦中継も増えていくかもしれません。テレビは視聴習慣が大きいので、本気で巨人戦で視聴率を取りに行くなら、シーズンを通して放送することが重要です。ただ、近年の状況では、いきなりそう決めるのはリスクが高い。最初に数字が取れれば、コロナ渦も相まって、そんな話が出てくるかもしれません」
2020.06.12 16:57
【著者に聞け】吉田輝星ら雑草集団を描く『金足農業、燃ゆ』
【著者に聞け】吉田輝星ら雑草集団を描く『金足農業、燃ゆ』
【著者に聞け】中村計氏/『金足農業、燃ゆ』/文藝春秋/1800円+税「高校野球でこれ以上心を動かされることはもうないと思っていましたが……」 北海道代表・駒大苫小牧の連覇の舞台裏を描いた前作『勝ち過ぎた監督』で、講談社ノンフィクション賞を受賞した著者の琴線に再び触れたチームが、2018年夏の甲子園に現れた。エースの吉田輝星(現・日本ハム)を擁して準優勝した秋田代表・金足農業高校だ。刀を抜くような吉田の「侍ポーズ」などが話題となり、日本列島に「金足フィーバー」を巻き起こした。「自分なりの勝てる監督像やチーム像が全部崩れて、それが気持ちよかった」 と、著者が爽快感すら覚えるほど、〈何から何まで「ありえないチーム」〉だった。しかも、県大会から甲子園決勝まで、3年生9人だけで戦い抜いたのだ。「9人は30分程度の通学圏から集まっているだけ。練習もクラシックで、雪国というハンディもある。でもこれで勝てるんだって思いました。こんな奇跡的なチームは二度と現れないんじゃないでしょうか」 著者が描く甲子園ノンフィクションに一貫した力強さは、取材対象者に決して阿らない、大胆かつ繊細な筆致にある。本書でも、白い球を追い掛けるナインの生き生きした姿だけでなく、その一挙手一投足に込められた思いや葛藤、監督やコーチに対する素直な気持ちにまで迫っている。「取材対象者が読後にどう思うのかは意識しないようにしています。もちろん気にはなりますが、そこには左右されたくない。この本を出した時も、送って2日後ぐらいに学校へ挨拶に行きました。正直、恐くて、緊張します。でもそれがないと書く意味がないと思います。相手に喜ばれるだけの作品は書きたくないです」 本格的な取材が始まったのは、甲子園が終わった直後の秋。最初は控えの選手など周辺取材にとどまり、ナインの3年生にはなかなか接触できなかった。「中泉監督に手紙を書き、電話を掛けましたが、全然出てくれなかった。毎日1回ずつ掛けていたら、2週間後くらいに電話をくれたんです。3年生に会えたのは3回目に秋田に行った時。取材には3人1組で応じ、最初の1組目に吉田が出て来ました。普通、こちらが質問するまで黙っているじゃないですか? でも3人は勝手にべらべらと話し出した。こんなに面白い奴らだったのかって。その魅力に恋に落ちました」 3人へのインタビューは本書の冒頭に収録され、吉田は自らのチームを〈凶悪な集団〉と表現する。バットをぶん投げる、相手チームの声をつぶすほどの野次、眉毛を剃る……。次々と飛び出すエピソードは、甲子園で輝くイメージをぶち壊すような、荒っぽい集団にも感じられたが、蓋を開けてみれば、人懐っこい純な子供たちだった。「挨拶だけはきちんとしていましたが、取材はめんどくさそうでした(笑い)。冒頭から『何時に終わるんですか?』っていう選手もいたりして。でも何だかんだ言って話すし、食堂へカレーを食べに連れて行ってくれたり。『凶悪』と言う割に恐い印象は全然なかった。逆にかわいい奴らだなと」 中でもエース吉田の素顔は、昔の野球漫画に登場する主人公を彷彿とさせた。「勉強できるけどやんない。野球めちゃうまい。超だらしない。でも女の子にもてる。ちょっと強がりで優しい。仲間は吉田のことをディスりつつも、憧れを抱いている。僕も吉田に憧れちゃいましたね」◆主役になることを躊躇しないナイン 金足農業は県内でも練習が厳しくて有名だ。とはいえ、正座をしたまま上空に向かって声を張り上げる「声出し」や、延々とヘッドスライディングをやらされる伝統的な〈ペナルティー〉など、その光景は時に、〈狂信的に映った〉。「声出しの時は、見てはいけないものを見てしまったような感じがしました。生徒がもっとも恐れていたコーチは、その代によっては、父兄から反感も買った。金農も少しずつ変わっていくでしょうけど、時代の変化はもっと早い」 もう1つ変わるべきことが、本書で提言されている。それは投球過多の問題だ。その火種は2000年代後半からくすぶり続けていたが、あの夏の吉田の球数の多さが、火に油を注ぐ形となった。「吉田の連投を見て感動はしなかったです。いたたまれない気持ちでした」 しかし、吉田の父親は意外にも、連投に肯定的だった。著者の常識を軽々と超えていくチームに対し、甲子園を埋め尽くした観客の大半も心を奪われた。「スタンドが自分たちに拍手を、歓声を送ってくれる。超快感だと思います。武道館を満員にしている歌手のように、俺たち今主役なんだと。でも金足のナインは、自分たちが主役になることに全く躊躇していない。吉田を筆頭に、自信を持った若者ってこんなに美しいんだって思いました」 決勝では大阪桐蔭に敗れたものの、球児たちが秋田に帰省すると、地元民の歓待ぶりに、〈世界が一変していた〉。卒業後は、プロ入りした吉田だけでなく、全員が野球を続けることにした。「純粋にいいなって思いました。あんな厳しい練習をさせられても、皆野球好きになった。卒業後も野球を続ける野球部ほど良いと思います。それが一番の勝利っていうか。まだ野球をやりたいって思わせるのは、指導者にとっても栄誉です」〈甲子園は、人を変える力がある〉。その言葉の意味を考えさせられる一冊だ。【プロフィール】なかむら・けい/1973年千葉県船橋市生まれ。同志社大学法学部政治学科卒。スポーツ紙を7か月で退職後、ライターとして独立。『甲子園が割れた日 松井秀喜5連続敬遠の真実』で第18回ミズノスポーツライター賞最優秀賞、『勝ち過ぎた監督 駒大苫小牧 幻の三連覇』で第39回講談社ノンフィクション賞を受賞。他に『言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』の取材・構成を担当。趣味は浅草放浪と、6時間前後で走るフルマラソン。172cm、74kg、AB型。構成■水谷竹秀:1975年三重県生まれ。ノンフィクションライター。2011年、『日本を捨てた男たち』(集英社)で第9回開高健ノンフィクション賞を受賞。著書多数。撮影■黒石あみ※週刊ポスト2020年6月5日号
2020.05.28 07:48
野球のない日々に読みたい『プロ野球語辞典』最新版の面白さ
野球のない日々に読みたい『プロ野球語辞典』最新版の面白さ
 放送作家、タレント、演芸評論家で立川流の「立川藤志楼」として高座にもあがる高田文夫氏が『週刊ポスト』で連載するエッセイ「笑刊ポスト」。今回は、野球の無い毎日のウサ晴らしができる書籍を紹介する。 * * * 自粛生活。何かが足りないと思ったら野球の無い日常なのだ。野球をやっていない毎日なんてクリープを入れないコーヒーのようだし、自転車のないウーバーイーツのようなものだ。そんな事を嘆く貴方に嬉しいウサ晴らしの一冊。 ひたすら野球がらみの本を書きまくる長谷川晶一が、名バッテリーを組むイラストの佐野文二郎とまた『プロ野球語辞典』(誠文堂新光社)を出したのだ。「また」と言うことは2冊目ということ。この連載のイラストも佐野クン。第2弾にはサブタイトルも生意気に付いていて「令和の怪物現る!編」だとさ。2冊目が出たという事は1冊目もそこそこ売れたのだろう。出版不況、風俗不況の昨日今日、嬉しい話である。「あつお(熱男)」、「稲葉ジャパン」など言葉の説明は勿論のこと、佐野クンの渾身でもない力のぬけたクスクスッという絵も傑作。選手の顔が似ているだけでなく、打つ・投げるなどの身体の動きがなめらかで、その動作までが似ているのだ。ものまねの名人と同じ筋肉を使うのだろう。プロ野球ファンには、たまらない仕上がりになっている。 そう言えば1か月位前、泣きそうな声で「2日で300点イラスト仕上げるンすよ。もう死にます。コロナで生き残ってイラストで終わるってのも情けないですかネ」と言ってたっけ。 長谷川クンの面白い解説以外に様々趣向をこらしたコラムのようなものも面白く、例えば「忘れじの名言&迷言&珍言集」もあって、「ボールが止まって見える」(川上哲治)、「乱闘は教育上よくないって言うけど、これプロ野球だから。教育じゃないから」(東尾修)その通り。良い事言ってたネ。「打たれん方法? それは投げんことやろね」(山本和行)豪快な昭和編。 別のページには平成編があって「守らせたら天下一品。でも守るだけで攻めないから自衛隊だな」(野村克也)。「野球というスポーツのすばらしさを子どもたちに伝えていきたい。そのためにも、大きなホームランを打ちたいんです」(松井秀喜)。「選手のニックネームあれこれ」なんてページもあって「ヘソ伝」(山田伝)って古いねぇ。「ザトペック投法」(村山実)、「カミソリシュート」(平松政次)、「ライオン丸」(シピン)、「ヤッターマン」(中畑清)、「おかわり君」(中村剛也)、など嬉しい名前が次々。 プロ野球のない日々、これ1冊で1か月は投げ切れる。 私もなにか、辞典でも作ろうかな。■イラスト/佐野文二郎※週刊ポスト2020年6月5日号
2020.05.22 16:43
藤浪晋太郎、コロナ感染でパ・リーグ移籍にも現実味か?
藤浪晋太郎、コロナ感染でパ・リーグ移籍にも現実味か?
 新型コロナ感染が発覚して以降、女性記者との食事やタニマチとの合コンなど私生活が明らかになりファンからの批判も受けているのは阪神・藤浪晋太郎(25)だ。 かつては、大阪桐蔭のエースとして史上7校目の春夏連覇を達成、2012年のドラフトでは大谷翔平(25)を抑え、4球団が競合するなど、高い評価を受けてきた。「大リーグ挑戦で注目されていたのは大谷だったが、メジャーのスカウトの大半は藤浪の方が将来性は上という評価だった」(MLB関係者) その高評価に違わぬ活躍を見せた。1年目に新人特別賞を獲得。さらに、松坂大輔以来となる高卒1年目から3年連続2ケタ勝利をマークした。しかし、2016年から制球の乱れが目立つようになり、成績は急落していく。 近年の制球難は深刻で、右打者への抜け球を警戒し、対戦チームは左打者を並べる「藤浪シフト」を敷く始末。コーチやOBがいくらアドバイスしても改善の兆しも窺えない。「藤浪はああ見えて頑固な性格。2015年の春季キャンプに臨時コーチとして参加した江夏豊氏がキャッチボールの大切さを説いたのですが、藤浪だけアドバイスを聞かなかったと明かしています。能見篤史やメッセンジャーら先輩投手も、自己流の調整ばかりの藤浪に苦言を呈してきました」(前出・在阪スポーツ紙デスク) 昨年はついに初の勝ち星ゼロと、どん底まで落ちる。ライバルだった大谷の活躍について説明する必要はないだろう。メジャーも開幕が延期されているが、開幕日だった3月26日(日本時間27日)にMLBが公式サイトで公開したファンに向けた動画メッセージに大谷も出演。いまや世界の顔だ。「阪神には指導できるコーチもおらず、ファンや在阪スポーツ紙の存在が重圧でイップスになっているとも指摘されている。ここ3年、パの球団からは“うちなら再生できる”というトレードの話がきている。これまでは球団内でも藤浪の復活を期待する声が強かったが、今回の一件で話が進む可能性もある」(同前) 熱心なファンからも「ほとほと呆れ果てた」という声が聞こえる。「今年こそは、と思っていたのに何をしとんねん。ピッチングも私生活もコントロール不能なんて、シャレにもならんわ」(大阪在住、50代男性) それでも197cmの体格から放たれる最速160kmの剛速球は、阪神のみならず球界のエースたる能力を秘めているのはたしかだ。阪神ドラ1の先輩で、故障によるトレードという屈辱を経験したものの、再び阪神で「松井秀喜キラー」として復活した遠山昭治(奬志)氏はエールを送る。「どん底を経験して、自分を見つめ直したと思う。それをピッチングに生かせばいい。ちょっとしたことでは変われないだろうが、あれだけの素材なのだからやれますよ。今回の騒動で世間から批判を受けていますが、結果で雑音を吹き飛ばすシーズンにしてほしい」 それしか名誉挽回の方法はないが、果たして……。※週刊ポスト2020年4月17日号
2020.04.07 08:43
堀内恒夫は1966年にプロ入りした(時事通信フォト)
野茂、堀内、松井、大谷ら 新人時代から大活躍した名選手達
 プロ野球界にはルーキーイヤーから大活躍する選手たちがいる。ここでは野茂英雄、堀内恒夫、松井秀喜ら、7人の選手たちのデビュー当時を振り返ってみよう。◆堀内恒夫(1966年プロ入り) 1年目成績 登板試合:33 勝利:16 敗北:2 防御率:1.39 奪三振:117 開幕3戦目に高卒ルーキーとして初先発。これを初勝利で飾ると7月までに13連勝し、1年目は16勝2敗で終えた。最優秀防御率と最高勝率に輝き、新人王と沢村賞にも選ばれた。44イニング連続無失点は今も塗り替えられていない新人記録となっている。2年目以降もコンスタントに勝ち星を挙げ、巨人V9のエースとして活躍。13年連続2ケタ勝利をマークした。 ふてぶてしいまでのマウンド度胸からついた異名は“甲斐の小天狗”“悪太郎”。入団に際しての取材では、時間や場所を変えて1社ずつ同じような質問をされるのが面倒臭くなり、「誰かが代表して聞いてくれませんか」と言い放った。門限破りの常連で、鬼軍曹と呼ばれた武宮敏明寮長から叱られた時に「憲法で決まっているわけではない」と反論した逸話もある。◆松井秀喜(1993年プロ入り) 1年目成績 出場試合:57 安打:41 打率.223 本塁打:11 打点:27 12年ぶりに長嶋茂雄監督が巨人へ復帰したシーズンに華を添えたのが、甲子園での5打席連続敬遠が社会現象になったゴールデンルーキー・松井秀喜だった。4球団競合による抽選で引き当てた松井の背番号55は、王貞治の最多本塁打記録(当時)にちなんだ数字。長嶋監督の松井へのホームランバッターとしての期待の大きさがうかがえる。 キャンプでは場外弾を連発したが、オープン戦では不調(打率.094、20三振)だったため開幕は二軍で迎えた。5月に7番レフトで一軍デビューを果たし、2試合目に高津臣吾から初本塁打を放っている。 6月には二軍に降格したが、フレッシュオールスターでMVPを獲得し、8月に一軍へ再昇格するとヒットを連発し、3番に定着。ルーキーイヤーは11本塁打を放ち、セ・リーグ高卒ルーキーの本塁打記録を更新し、翌年からレギュラーに定着した。◆大谷翔平(2013年プロ入り) 1年目成績【投手】登板試合:13 勝利:3 敗北:0 防御率:4.23 奪三振:46【打者】出場試合:77 安打:45 打率:.238 本塁打:3 打点:20 花巻東高時代、地方大会でアマ野球史上最速の160キロを記録し、日米から注目された。大谷はメジャー挑戦を表明したが、日本ハムが投手と野手の二刀流育成プランを提示し、ドラフト1位で獲得。46年ぶりに高卒新人でプロ初勝利と初本塁打を記録した。◆野茂英雄(1990年プロ入り) 1年目成績 登板試合:29 勝利:18 敗北:8 防御率:2.91 奪三振:287 史上初の8球団競合の末、近鉄に入団。プロ初勝利を17奪三振の日本タイ記録(当時)で飾ると、5試合連続2ケタ奪三振を記録。ルーキーイヤーは最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率の投手4冠のほか、新人王、ベストナイン、MVP、沢村賞を受賞。◆田中将大(2007年プロ入り) 1年目成績 登板試合:28 勝利:11 敗北:7 防御率3.82 奪三振:196 夏の甲子園決勝で早実高の斎藤佑樹(現日本ハム)と投げ合い、ドラフトでは4球団が競合、楽天に入団。高卒1年目では歴代4位の196奪三振でシーズンを終え、186イニング1/3を投げて11勝。1999年の松坂大輔以来、8年ぶりに高卒1年目の新人王が誕生した。◆上原浩治(1999年プロ入り) 1年目成績 登板試合:25 勝利:20 敗北:4 防御率:2.09 奪三振:179 ドラフトでは松坂と話題を二分。巨人が逆指名を勝ち取った。初登板は黒星だったが、歴代4位タイの15連勝を記録し、33年ぶりに堀内が持つ新人連勝記録(13連勝)を更新。木田勇以来となるルーキー20勝をマークし、新人王と沢村賞をダブル受賞した。◆立浪和義(1988年プロ入り) 1年目成績 出場試合:110 安打:75 打率.223 本塁打:4 打点:18 PL学園の主将として甲子園で春夏連覇(1987年)を達成し、ドラフトでは南海と競合した中日が獲得。開幕で一軍メンバーに名を連ねると、2番ショートで先発出場。新人王に選ばれ、高卒ルーキーとしては史上初となるゴールデングラブ賞を受賞した。※週刊ポスト2020年4月10日号
2020.04.01 07:39
MLB移籍・筒香嘉智が「勝負に行ってきます」と覚悟の一言
MLB移籍・筒香嘉智が「勝負に行ってきます」と覚悟の一言
 元横浜DeNAベイスターズの筒香嘉智(28)は、今シーズンからMLBタンパベイ・レイズへ移籍する。国際試合で侍ジャパンの4番を務め、無類の勝負強さを見せてきたが、MLBは五輪への選手派遣に慎重な姿勢を崩しておらず、筒香が代表入りする可能性は低い。筒香が五輪直前の移籍を決めたのは、お世話になった球団に移籍金が入るポスティングにこだわったためとされる。筒香は移籍を「運命だと思います」と語る。(取材・文/平尾類=フリーライター)◆古巣への感謝 ベイスターズの10年間でスタッフや選手の入れ替えは多数ありましたが、たくさんの出会いがあり、育ててもらったからこうしてメジャーに挑戦できるようになった。ラミレス監督からも、昨年11月のファン感謝祭で「頑張って」と背中を押してもらえました。 なによりファンの方々には感謝しかありません。入団したときは苦しいシーズンが多かったが、いまや優勝争いできるチームになった。選手のレベルアップだけでなく、溢れんばかりの声援を送っていただけるからこそです。 今年こそ優勝して、フロント、選手、ファンみんなが喜んでいる姿を見たいですよね。キャプテンだったので全選手、平等に接していましたが、自主トレを一緒にやってきた柴田竜拓(26)には期待しています。これまで守備固めで起用されることが多かったけど、昨シーズンはバットでも結果を残した(後半戦の打率は3割3分8厘)。これまで柴田には打撃のアプローチといった技術面だけでなく、野球への姿勢を伝えてきました。先の結果なんてわからないけど、大切なのはどれだけ自信を持って試合に挑めるか。そのための準備が重要なんです。不安は、試合で結果を出すことでしか取り除けない。柴田も新人や若手に伝えていってほしい。チームの中心になる能力はあるし、ならなくちゃいけない選手です。〈筒香は小学生の時に、松井秀喜(元ヤンキースほか)の打撃をビデオが擦り切れるほど見た。2015年の春季キャンプに松井から受けた「4番打者としての心構え」は1日たりとも忘れていないという。その時に松井からプレゼントされた直筆サイン入りのバットは「今でも大事な宝物」と笑顔で語る〉 子供の時はイチローさん、松井さんのバッティングを毎日見ていました。 松井さんは僕よりはるかに凄い方です。NPBだけでなくメジャーでもあれだけ活躍された方なので。当然、松井さんのような活躍ができれば理想ですけど、自分は自分でやれることをしっかりやっていきます。バッティングが期待されていると思うので、まずはバットで貢献したい。 ただ、野球には目には見えない貢献度というのがあります。同じ1本のホームランでも勝負の大勢が決まった時に打つのと、チームを勝利に導く1本では意味合いが違います。首脳陣が求める役割に100%貢献できるのが選手の理想だと思います。渡米してどんな役割を求めているか首脳陣にしっかり聞いた中で自分の役割を全うできるようにしたいですね。──筒香のプロ10年間は決して順風満帆だったわけではない。稀代のスラッガーとして素質を認められ、多くの指導者から助言を受けた。時にそれが自身の意に沿わず、成績が低迷。トレードの噂が出るなど「野球人生の危機」を迎えた時期もあった。それでも、逆境からはい上がり、メジャー挑戦の夢を掴んだ。 数年前、「僕はそんなに強い人間ではないです」と漏らしたことがあった。自分の心に向き合えるから他人に寄り添える。不調の選手がいれば、「やっていることは間違いないから大丈夫」と声を掛け、食事に誘っていた。 常に周囲に気を配る筒香が「全てが新鮮だった」と楽しそうに話していたのが2015年オフのドミニカでの武者修行だった。あれから4年後に叶えた異国での挑戦。「勝負に行ってきます」 覚悟を決めた侍の活躍に注目したい。※週刊ポスト2020年2月21日号
2020.02.13 11:36
「ワンポイント」に活路を見出し大成した遠山奬志(写真:時事通信フォト)
MLBが導入の「ワンポイント禁止」、日本野球には不要論も
 今季からメジャーリーグでは投手は打者3人、もしくは回を終了するまで投げなければならない新ルールを導入する。これによって、1人の打者を抑えるためにマウンドに上がる“ワンポイント”登板という概念は基本的に消滅する。 1月22日に行われたNPBの12球団監督会議では、「ワンポイント禁止ルール」が話題に上った。今季の導入は見送られたが、来季以降にどうするか監督の意見を聞きつつ、アメリカの動向も注視しながら決めていくという。近年、申告敬遠やコリジョンルールなどアメリカに倣ってルールを採用する例は多く、ワンポイント禁止が実現する可能性も十分ある。だが、そこに批判的な声も少なくない。野球担当記者が話す。「導入の目的の1つに、試合時間の短縮があると考えられます。ただ、時短に捉われて野球の面白さを損なっては元も子もない。試合内容が面白ければ、時間が長くなってもファンはついてきますよ。 ワンポイント登板があるからこそ、ファンも『左の代打を出したら、左投手が来るから、右打者のままで行くのかな』など推理しながら野球を楽しめる。このような駆け引きこそ、采配の妙であり、野球の魅力の1つでしょう。力対力の勝負だけでなく、頭を使った作戦のせめぎ合いにも日本のプロ野球の良さがあった。 しかし、セパ両リーグとも予告先発制が定着したこともあり、近年は読み合いの要素が少なくなっている。なんでもかんでもメジャーに従えばいいわけではない。ワンポイント禁止はプロ野球を単純化するルールだと思いますね」(以下同)“一人一殺”のワンポイントに活路を見出し、大成した投手もいる。永射保(ながいたもつ)は1974年に広島から太平洋へ移籍し、左の横手投げに転向。中継ぎとして徐々に頭角を現し、福本豊、加藤秀司(ともに阪急)、門田博光(南海)、ソレイタ(日本ハム)、レロン・リー(ロッテ)など各チームの強打者を手玉に取った。 1979年から1981年まではリーグ最多登板を記録し、1983年の巨人との日本シリーズでは7試合中5試合に登板。そのうち4試合がワンポイント、1試合がツーポイントながらも、要所を抑えて西武の日本一に大きく貢献した。 1986年、阪神に入団した遠山昭治(のちに奬志)は高卒ながら1年目に8勝を挙げる。しかし、2年目以降伸び悩み、1991年ロッテに移籍。1995年には打者に転向するも、2年後に戦力外通告。その後、阪神に投手として拾ってもらい、1999年に野村克也監督の助言でサイドスローに転身。すると、この年に巨人の松井秀喜を13打数ノーヒットに抑え、『松井キラー』の異名を取った。 2000年には、右サイドハンドの葛西稔と交互に登板する『遠山―葛西―遠山―葛西』のリレーを野村克也監督が奇襲作戦として仕掛け、話題を呼んだ。「投手は打者3人、もしくは回を終了するまで投げなければならないルールになれば、この作戦は実現しなくなります。何十年に一度の継投ですが、Bクラスの常連だった阪神を率いた野村監督が頭を絞って生み出した名采配。未だに語り継がれるわけです。なんでもかんでも、メジャーに倣えばいいわけではない。ルールを単純化することは日本の良さを消すことにもなる。『アメリカがやっているから』『時間短縮になるから』という理由だけで導入するべきではないでしょう」 ワンポイント禁止は、日本に必要なルールなのか。じっくりと、あらゆる角度からの議論が望まれる。
2020.01.27 19:43
引退会見で涙を流した上原浩治氏(写真:時事通信フォト)
上原浩治氏を臨時コーチとしても呼べない巨人特有のお家事情
「僕が巨人のユニフォームを着ることはほぼないと思うので……」。1月3日、BSテレ東の『再会 ~今だから言える、聞ける、話せること~』で昨季で引退した上原浩治と阿部慎之助が対談した。(文中一部敬称略) 2人は阿部が2001年、巨人に入団してから上原がFAでメジャーへ移籍するまでの8年間バッテリーを組み、3度の優勝、1度の日本一を達成した名コンビだった。野球担当記者が話す。「ともに2000年代の巨人を引っ張ってきた選手ですが、引退に至る過程は対照的でした。上原は自身の決断とはいえ、5月に発表したこともあり、引退セレモニーもなし。阿部は本拠地最終戦で『4番・捕手』でスタメン出場し、試合後にはスピーチもあった。上原にも来季のオープン戦で引退試合が行なわれる可能性は残っていますが……」(以下同) 対談の最後に、2人が将来同じユニフォームを着る可能性を問われると、冒頭のように上原が答えた。番組では、来季から2軍監督に就任する阿部に『生え抜きは違う』と漏らす場面もあり、最後には松井秀喜や高橋由伸、阿部と同じチームでまた戦えたらという理想も語った。「上原は巨人からオファーさえあれば、指導者になる気もあるのではないでしょうか。しかし、巨人では一度、自らチームを出て行った選手が監督やコーチとして舞い戻るケースはほとんどない。上原が現役選手として2018年にメジャーから巨人に戻ったのは例外中の例外と言えます。同級生の盟友である高橋由伸監督、鹿取義隆ゼネラルマネージャー(ともに当時)の尽力が大きかった。しかし、その2人はもう球団にいません」 今季の首脳陣を見ても、巨人で現役を終えた選手がほとんどだ。「2軍投手コーチの木佐貫洋や3軍総合コーチの二岡智宏のように、巨人がトレードで放出した選手の場合、引退後に帰って来るケースはあります。しかし、自分から袖にしたと考えられれば、復帰は難しい。それでも巨人が復帰を懇願するのは、松井秀喜くらいでしょう。 たとえば、川相昌弘は2003年で現役を終えて翌年からコーチに就任するはずでしたが、原辰徳監督が急遽辞任したことで、去就も宙ぶらりんになり、中日に移籍した。このような経緯があったので、コーチとして巨人に復帰できた。それでも、2006年の引退から4年間は指導者として中日に残り、巨人に戻ったのは2011年でした。2015年限りで原監督が辞めた後、川相がヘッドコーチから監督に昇格する選択肢もあった。でも、選手として他球団のユニフォームを着ていたことがネックになったという噂もあります」 昨季14年ぶりに現場に復帰し、今季からヘッドコーチを務める元木大介は2005年オフに巨人から引退を促された。この時、オリックスから声が掛かっていたが、巨人一筋でユニフォームを脱ぐことを決断した。そのことも、現在の地位に繋がっているのかもしれない。「今季から1軍の野手総合コーチになった石井琢朗のように、現役時代に巨人を経験していない人が他球団での指導実績を買われて首脳陣入りすることはあります。しかし、一度巨人に関わりながら、自ら出て行くことを選択した選手には未だに厳しい。結果的には残留したもののFA宣言で移籍の意思を示した槙原寛己、2006年の退団後にメジャー移籍をした桑田真澄は候補として名前すら挙がらない。もちろん、彼らの知名度などを考えれば、コーチになるよりも現在の活動を続けたほうが収入は遥かにいいでしょう。でも、現場から声が掛かれば出向く可能性は十分ある。上原だって、そういう気持ちだと思いますよ」 番組で、阿部2軍監督から「春季キャンプに来てください」と話を振られても、上原は「アメリカにいるから」と濁すばかりだった。「巨人特有のお家事情を感じ取っているから、行きづらいのではないでしょうか。ワールドシリーズで胴上げ投手にまでなった上原がコーチとして加われば、間違いなくチームのプラスになる。臨時コーチとして来るだけでも、選手に与える影響は大きい。上原は日本人唯一の日米通算100勝100セーブ100ホールドを達成しているし、こんな経験値の高い人は他にいない。それなのに、巨人は呼ぶ意向を見せない。あくまでも日本一を目指すために首脳陣を決めるべきなのに、いつまでも古い慣習にこだわっている印象です」 昨年は5年ぶりの優勝を果たしたものの、日本シリーズではソフトバンクに4タテを喰らい、力の差を見せつけられた巨人。今オフのFA戦線では、楽天・美馬学とロッテ・鈴木大地の獲得を目指すも、失敗に終わった。大半のFA選手がジャイアンツのユニフォームに着たいと考えた時代ではなくなっている。巨人が再び“球界の盟主”として輝きを取り戻すためには、こうした古い慣習から脱却する必要があるのかもしれない。
2020.01.07 16:58
近年はショッピングモールなどにも出店している「いきなり!ステーキ」だが…
「いきなり!ステーキ」失速 相次ぐ値上げと大量出店の誤算
 一時はステーキブームのけん引役として拡大の一途だった「いきなり!ステーキ」(ペッパーフードサービス)だが、いまや客離れ・売り上げ減に歯止めがかからないほど苦境に喘いでいる。なぜ同社はここまで失速してしまったのか──。ジャーナリストの有森隆氏がレポートする。 * * * ステーキを立ち食いするスタイルが受けてきた「いきなり!ステーキ」が失速した。 11月中旬、「いきなり!ステーキ」を運営するペッパーフードサービスは10月の月次動向を発表したが、既存店売上高は前年同期比41.4%減と大幅なマイナス。客数の落ち込みも深刻で同40.5%減だった。 2018年の春先までは好調が続いていたが、4月から既存店売り上げが前年実績を割り込み、数字は月を追うごとに悪化。10月には、とうとう売り上げ、客数とも4割以上減少してしまった。 そもそも、外食業界が肉ブームに沸いたのは2015年頃からだ。輸入牛肉の規制緩和を追い風に、コンセプトも様々なステーキハウスが続々とオープンした。 そんな中、「いきなり!ステーキ」は、高級イタリアンを安く食べられるという謳い文句で人気を博した「俺のイタリアン」のいわば牛肉版。立ち食い形式でステーキを量り売りで提供するステーキハウスを立ち上げた。 まず2013年12月、東京・銀座に1号店を出店。「分厚いステーキをリーズナブルな価格で立ち食いする」ことにテレビなどマスコミが飛びついた。口コミでの広がりもあって店舗網を拡大し、急成長を遂げた。2016年末に115店だった店舗数は、17年末に188店、18年末には389店まで増えた。◆ステーキ文化を無視したNY進出で惨敗 2017年2月には、鳴り物入りでニューヨークに進出した。一瀬邦夫社長は「全米1000店舗展開を目指す」と高らかに宣言。2018年2月16日、ニューヨークの中心部マンハッタンの5番街近くにオープンした4号店の開店イベントには、ニューヨーク・ヤンキースなどで活躍した松井秀喜氏も駆けつけた。松井選手の背番号は55。gogoということだったらしい。一瀬邦夫社長は〈野茂(英雄)さんも松井さんも(米国で)大成功された。それにあやかりたい〉と語った。 米国で多店舗展開する資金を調達するため、2018年9月に日本の外食チェーンとして初めて米ナスダック取引所に米国預託証券(ADR)を上場した。 米国のステーキの値段は20ドル(約2200円)前後。高級店だと廉価なランチでも50ドル前後はすることを考えれば、「いきなり!ステーキ」は半額以下だが、その安さは武器にならなかった。 ニューヨーカーの低所得者は20ドルのステーキは高過ぎて手が出ないし、他方、金持ちは高級レストランで食べる。中間層だって自分たちのステーキ文化へのこだわりがある。そもそも米国人は立ってナイフとフォークを使うことを嫌がるのだ。 米国のステーキ文化を無視し、日本で流行ったからということだけで「立ち食い」を始めても客を呼び込めるわけがない。慌ててテーブル席に切り替えたが、オシャレな店舗でもないのでビジネスランチには向かず、若者がデートで使うこともなかった。一時は11店舗まで拡大したが、消費者を掴み切れず店舗を次々と閉鎖し、赤字をタレ流した。 その結果、2019年9月、米ナスダック取引所の上場を廃止。米証券取引委員会(SEC)の登録もやめた。「いきなり!ステーキ」のニューヨーク上陸は惨憺たる結果に終わった。◆各地に格安ステーキ店が登場 一瀬社長は国内でも1000店舗を目指し、アクセルを踏み続けた。2017年以降、3か月に2ケタのペースで出店を続け、1号店誕生からわずか6年で487店(2019年10月末、フランチャイズ店を含む)まで膨張した。 確かに肉ブームが去ったわけではない。焼肉ならびにステーキのジャンルは、依然として堅調だ。しかし、「いきなり!」だけが独り負けの状態なのである。敗因のひとつは、「いきなり!」の快進撃を見て、各地にライバル店が登場してきたことも挙げられるだろう。 2018年1月、愛知県発祥のステーキ大手あさくまがメニュー構成や価格帯がほぼ同じの「やっぱりあさくま」を東京に出店。「3年で100店舗を目指す」と、一騎打ちを挑んできた。その他、ファミレス系のチェーン店もサラダバーを武器に肉を売り込む。肉ブームを背景に、各チェーンがさまざま特色を出してきたのである。これで消費者の選択肢が一気に広がり、「いきなり!」は、いきなり埋没してしまった。◆相次ぐ値上げで客離れを引き起こす 決定的だったのは、「仕入れが困難」という理由でたびたび値上げをしたことだ。「量り売りといっても、たいして安くない」(20歳代のサラリーマン)といった声が挙がっていたうえ、2018年5月には「国産牛サーロインステーキ」と「国産牛リブロースステーキ」を1グラム当たり1円値上げして11円とした。じつに値上げ率は10%だ。 公式サイトの全店共通のメニューによると、一番上に表示されているのが「リブロースステーキ」。量り売り価格は1グラム当たり6.9円(税抜き)。昨年7月以前と比べると0.4円高くなった。300g定量カット×6.9円=2070円(税抜き)、400g×6.9円=2760円(同)。これを「安い」と考える消費者は、どれくらいいるだろうか? サラリーマンがよく昼食に注文するのは「CABワイルドステーキ」で、こちらは200g1130円(税抜き)、300g1390円(同)と安価だが、メニューの末尾に載せていて、しかも扱っている店は数えるほどしかない。 相次ぐ値上げで値ごろ感を失った──。これが客離れを引き起こした最大の原因である。◆「郊外店」が大苦戦を強いられる店舗戦略の失敗「いきなり!」の店舗は駅前を中心に立地していたが、2017年5月、群馬県高崎市で初の郊外店を出店したのを皮切りに、出店エリアを都心から地方に拡大した。2018年の大量出店も半数は郊外だ。 主に閉店したコンビニエンスストアの店舗などを活用した結果、店舗網は47都道府県に広がった。もちろん郊外は都心に比べ出店余地が多いうえに、家賃も安い。だが、すでに店&商品に客を引き寄せる魅力が薄れ始めていた同店が郊外に、しかも多数立地すれば結果は目に見えていた。 また、特にフランチャイズ(FC)店の新規出店が目立った。店舗数472店のうちFC・委託店は4割強を占めるようになった(2019年6月末)。 業績不振に陥ったラーメンチェーン大手の幸楽苑ホールディングスがフランチャイジーとなって、2017年12月、1号店を福島市内に出し、その後もFC店を次々と出店した。幸楽苑を皮切りに外食チェーンのFC店が急増したのである。 だが、FC店はいずれも郊外の路面店だ。その結果、1つの商圏で複数出店するケースが続出。客を奪い合う深刻なカニバリーゼーション(自社競合)が起きてしまった。ペッパーフーズは店を増やすことだけに目を奪われ、「1つの商圏に店は1つ」という基本ルールから逸脱したのである。 一瀬邦夫社長は、メディアとのインタビューで〈お客様の取り合いを避けるために店同士をしっかり離さなければならないことが分かりました〉と語っている。こうした出店戦略の誤算も「いきなり!」の失速につながった。 ペッパーフードサービスの2018年12月期の連結決算は、米国事業の不振から約25億円の損失を計上したのが響き、最終損益はマイナス1億2100万円。8年ぶりに赤字に転落した。続く2019年同期も2期連続の最終赤字になる。株価は1年前の3分の1程度に落ち込んだ。 2019年度は期初210店の新規出店を計画していたが、売り上げの急激な落ち込みを受け、6月末に115店に下方修正。既存店の売り上げが4割減となったことから、11月14日、店舗の1割に当たる44店のクローズを決めた。 今回の苦境は、2000年代のそれより根が深い。過去にはステーキを中心としたレストラン「ペッパーランチ心斎橋店」(大阪市)で店長と店員が客を強姦拉致した事件や、病原性大腸菌O-157による食中毒を起こしたことがある。こうした事件は一過性で済んだが、今は立ち食いステーキのFC展開そのものに赤信号が灯っている。 新たなコンセプトの店の展開を始めるにも“出血”が大き過ぎる。まずは競争力のない郊外店を一斉に閉める英断が求められている。
2019.12.04 13:36
荒川静香はトリノ五輪唯一の金メダルを獲得(時事通信フォト)
2000年代流行語 中津江村、テツandトモ…当事者たちの今
 1年の間に発生した出来事にまつわる話題の言葉を選ぶ「ユーキャン新語・流行語大賞」。2000年代の主な「年間大賞」を振り返りながら、その当事者たちの現在を追いかけた──。■2000年【IT革命】 IT分野の成長を、経済発展や社会組織の構造変革につなげようとする「IT革命」が流行語に。森喜朗首相(当時)が「イット革命」と誤読したことでも話題になった。授賞式にはITで商店街活性化に取り組む高校3年の男子生徒が出席。■2001年【米百俵/聖域なき改革/恐れず怯まず捉われず/骨太の方針/ワイドショー内閣/改革の「痛み」】「自民党をぶっ壊す」「痛みに耐えてよく頑張った。感動した!」など、ワンフレーズのメッセージを得意とした小泉純一郎氏。印象に深く残った名(迷)言は数知れず、そのDNAは息子の進次郎氏にも受け継がれているようだ。■2002年 2002年は「タマちゃん」と「W杯(中津江村)」が年間大賞に。授賞式には、鶴啓二郎氏(真珠夫人)、齋藤孝氏(声に出して読みたい日本語)、串岡弘昭氏(内部告発)、黒住祐子氏と佐々木裕司氏(タマちゃん)、坂本休(W杯[中津江村])、松井秀喜氏(GODZILLA)、佐々木憲昭氏(ムネオハウス)、藤本信一郎氏(ベッカム様)が受賞者として出席した。【タマちゃん】 8月に多摩川の丸子橋付近にオスのアゴヒゲアザラシが出没。その動向は連日報道され「タマちゃん」の愛称とともに多くの人の関心を引きブームとなった。翌年横浜市西区より特別住民票を与えられた。2004年4月を最後に消息は不明。 FNNスーパーニュースでリポーターをつとめていた、タレントの黒住祐子さんがタマちゃんを追った日々を振り返った。「視聴者から『多摩川にアザラシらしきものがいる』という情報があり、現地に行ったところ、近所の保育園の子供たちが見に来ていて『アザラシちゃーん』と呼んでいたので、『じゃあ、みんなでお名前を付けよう』と一緒に考え『多摩川だからタマちゃんにしよう!』となりました。 その年の暮れに命名者として『流行語大賞』の授賞式に参加させていただきました。暗いニュースが多かったその年に『タマちゃん』という明るいニュースが流行語に選ばれてとても光栄でした。 今でも多摩川を見ると『タマちゃんはいないかな?』とふと探してしまいます。どこかで元気にしていてくれたら嬉しいです」【W杯(中津江村)】 日韓W杯の際、カメルーン代表がキャンプを張ったのが大分県中津江村。代表チームの到着が予定より5日も遅れるハプニングが起きるも、村民が温かく迎え入れた様子が報じられ、村長をはじめ中津江村が脚光を浴びた。中津江村は2005年に日田市に編入合併された。元中津江村村長の坂本休さんが、授賞式での思い出を語った。「受賞のお話をいただいた時は、最初バラエティ番組か何かで笑いものにされるのだと思ってお断わりしたんです。後からそうではなく意義ある賞だと聞いて思い直しました。 授賞式はとても華やかで、同じテーブルには野球の松井秀喜選手がおられ緊張しました。サッカーのルールはほとんど知りませんでしたが、受賞できて大変光栄でした。現在は隠居の身ですが、大分トリニータは応援しています」■2003年【マニフェスト】 政権公約として、実行までの財源やプロセスなどを具体的にまとめたものを指す。2003年の統一地方選で多くの候補者が以前にはなかったマニフェストを提示しはじめたことで、マニフェスト選挙ともいわれた。【なんでだろう~】 中本哲也(テツ)と石澤智幸(トモ)によるお笑いコンビ・テツandトモ。赤青のジャージ姿で日常の疑問を「なんでだろう~」と連呼するネタが大人気になりこの年の流行語に。現在は営業でのステージ依頼が芸人屈指の多さを誇り多忙を極める。流行語大賞を受賞した当時の思い出を、テツandトモが振り返った。「授賞式の当日は、取材のカメラの多さに驚き緊張しました。友人、知人、関係者など沢山の方々に祝福してもらえていい思い出です。毎年この時期になると、様々なメディアから流行語大賞に関する取材依頼があります。露出が増えることに感謝しています! 今でもライブの開始時に司会の方が私たちを紹介する際、『2003年、流行語大賞・年間大賞受賞!』と言ってくれるんですよ」■2006年【イナバウアー】 トリノオリンピック唯一の金メダリスト、フィギュアスケートの荒川静香が得意とした技の名前。本来のイナバウアーよりも誇張した独特のポージングは多くの人が真似をした。荒川は現在、日本スケート連盟副会長などをつとめている。■2008年【グ~!】 親指を立てて突き出すギャグで一世を風靡したエド・はるみ。まさか大賞を受賞するとは思っておらず、授賞式に3時間遅刻するというハプニングが起きた。彼女は昨年、慶応大学大学院の修士課程を修了した。■2009年【政権交代】 8月に行なわれた衆院総選挙で、民主党が115から308と議席を大きく伸ばし政権交代を果たした。発足当初の政党支持率は70%を超えたが、消費税や沖縄米軍基地の普天間移設問題など政治課題に対処できず、民主党政権はわずか3年で幕を閉じた。※週刊ポスト2019年12月13日号
2019.12.02 18:12

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