豊田泰光一覧

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中西、加藤、門田…最強二冠王が語る「三冠王に必要なもの」
中西、加藤、門田…最強二冠王が語る「三冠王に必要なもの」
 長き球史で達成者はわずか7人(11回)。中島治康、野村克也、王貞治、落合博満、ブーマー・ウェルズ、ランディ・バース、松中信彦だけが成し遂げている。あの長嶋茂雄や松井秀喜ですら成しえなかった「三冠王」という大記録に、まだシーズン序盤とはいえ、期待を集める選手が両リーグに現われている。ただ、これまで数多くの強打者が“あと一冠”に涙を飲んできた。 好スタートを切ったのは巨人の岡本和真だ。10試合を終えた時点で打撃三部門のリーグトップとなった。その後、15試合終了時点(7月7日)で本塁打は2位、打点は7位となったが、打率1位はキープしている。 さらにセではDeNAの宮崎敏郎、広島の鈴木誠也、パでは楽天の浅村栄斗といった過去の打撃タイトルホルダーたちも3部門すべてでベスト5に名を連ねている(7月7日時点)が、球界のレジェンドたちは「最注目はタイトル未経験の岡本」と口を揃える。三冠王への道の険しさを誰より知る、惜しくも三冠王を逃した歴代の「二冠王」たちはどんなアドバイスを送るのか。「怪童」と呼ばれた中西太氏(87)は、西鉄入団2年目の1953年に本塁打、打点の二冠王に輝くも、打率が4厘届かず。その後も3度、二冠に輝くが三冠には届かなかった。最も三冠に肉薄したのは最終戦を残して本塁打、打点がトップだった1956年のシーズン。「チームメイトの豊田泰光を4毛下回る打率2位からの逆転を狙ったが、最終戦で三原脩監督は、両選手をオーダーから外しました。それまでタイトルに縁のなかった豊田に首位打者を獲らせたかった三原監督の温情だったと言われています」(元スポーツ紙編集委員) 当の中西氏はサバサバと振り返る。「僕の時代は三冠王が騒がれることもなく、個人記録よりチームの日本一が目標でした。豊田君と打率を競った時も、チームメイトと争う気持ちはなかった。最終戦の欠場も日本選手権のために練習をしただけで、三冠王は頭にありませんでした」 中西氏のようにチームメイトに三冠を“阻止される”ケースは少なくない。その典型が巨人の長嶋茂雄と王貞治。1963年は王が本塁打王に輝き長嶋の三冠を阻み、1968~1970年は長嶋が打点王を獲得して王に三冠を獲らせなかった。 岡本に置き換えて考えれば、坂本勇人ら巨人のチームメイトの調子もカギとなりそうだ。ただし、岡本の前を打つチームメイトが調子を落とせば、打点王が遠ざかるというジレンマも抱えている。◆ヒットを狙ってチャンスを逃す 三冠王は、自分の力だけで達成できるものでもない。1979年のパ・リーグ、三冠王を狙える位置にいた阪急の加藤秀司氏(72、当時は英司)は、近鉄のマニエルと本塁打王争いを続けていた。迎えたシーズン終盤の近鉄との直接対決。すでに阪急が優勝を確実にして消化試合ムードが漂う中、近鉄リードで迎えた8回裏に加藤を1本差でリードするマニエルが打席に立った。「誰もが勝負を避けると思ったが、マウンドの今井雄太郎は真っ向勝負。マニエルは今井の球をライトスタンドに放り込み、本塁打王争いの大勢が決まった。試合後に加藤が『消化ゲームでっせ。普通は歩かせるやろ』とボヤいたのを覚えている」(当時阪急担当の元在阪スポーツ紙記者) 加藤氏に当時の心境を聞いたところ、ぶっきらぼうにこう答えた。「誰にでも思い出したくない過去はあるんや。消化試合でウチのピッチャーが打たれた。それだけや」 シーズン終盤ではメンタル面が重要と指摘するのは、南海・ダイエー・オリックスで活躍した門田博光氏(72)だ。1988年に40歳で44本塁打、125打点で二冠王に輝くも打率.311で6位に沈んだシーズンを振り返る。「後半戦で本塁打王と打点王が確実になり、“あとは小さなスイングで打率を稼ごう”と考えたんです。しかしいつでも打てると思っていたヒット狙いに切り替えると、かえってうまくいかなかった。三冠を獲る最後で最大のチャンスだったんですけどね」※週刊ポスト2020年7月24日号
2020.07.12 16:00
週刊ポスト
まさかチョキチョキ切った紙でデザインされたとは…
西鉄の帽子のNLマーク 三原脩氏と豊田泰光氏がデザイン
 プロ野球チームの帽子には様々なドラマがある。約700点に上る野球帽の歴史を解説した『野球帽大図鑑』(著/綱島理友、イラスト/イワヰマサタカ。朝日新聞出版刊)から、かつて黄金期を築いたチームの帽子について紹介しよう。 昨年、パ・リーグを制した西武ライオンズの前身が西鉄ライオンズ。西鉄ライオンズの黄金期を象徴するNとLの帽子マークは、三原脩監督と豊田泰光選手が紙をはさみで切り、それを組み合わせながらデザインした。 NLマークが登場したのは1954年の日本シリーズあたりから。このときはLの上にNが完全に乗っていた。西鉄はこの帽子で56年から日本シリーズ三連覇を果たす。 三原が退任した1960年にNLマークは姿を消すが、1962年に三原の娘婿である中西太がプレイングマネージャーに就任すると、フォルムがスマートになって復活。Lの一部が前に出ているデザインに変更された。ところが同時期に、LがNの上に完全に乗っているパターンも確認できる(1962~1965年、別掲イラストの※)。1966年にNLマークはオレンジに変更されている。※週刊ポスト2020年6月26日号
2020.06.22 07:00
週刊ポスト
投手としてだけでなく、打者としても活躍した関根潤三さん(写真:時事通信フォト)
近鉄パールス消滅の危機を救った関根潤三さんの打者転向
 戦後の混乱期にプロ野球選手となり、近鉄で投手、打者として活躍した関根潤三さんが4月9日、老衰のため逝去した。93歳だった。 大谷翔平(ロサンゼルス・エンゼルス)以前の“元祖・二刀流”としても知られる関根さんは1950年、近鉄パールスに入団。2リーグに分裂した同年、セ・リーグは8球団、パ・リーグは7球団でスタートした。1951年2月、セの西日本パイレーツがパの西鉄に吸収され、セも7球団に。翌々年2月には松竹ロビンスと大洋ホエールズが合併し、セ・リーグは6球団制になった。一方のパ・リーグは拡大路線で人気アップを画策し、1953年12月に新球団として高橋ユニオンズが誕生した。野球担当記者が話す。「パ・リーグは球団増のため、戦力差が如実に現われました。7球団制の1953年は優勝・南海と最下位・近鉄の差が22ゲームでしたが、8球団制になった1954年は優勝・西鉄と最下位・大映の差が46ゲーム、翌年は優勝・南海と最下位・トンボの差が57ゲーム、翌々年は優勝・西鉄と最下位・高橋の差が45.5ゲームと格差は開き、いわゆる消化試合が激増。1試合の平均観客動員数は7球団制の1953年には8275人でしたが、8球団制になってから徐々に落ち込み、1956年には4950人にまで減少。セ・リーグの半分以下になっていました」(以下同) 1957年2月のオーナー会議で、球団数削減案が飛び出る。3年前、新規球団として迎え入れられた高橋ユニオンズがその対象となり、キャンプ中の2月25日、大映スターズとの合併が決まってしまう。これによって、大映は『大映ユニオンズ』と球団名を変更した。しかし、高橋の選手は各球団に散らばっており、合併とは名ばかりの解散、消滅だった。新規参入も削減も、大映のオーナーである永田雅一氏を中心に話は進められており、彼はパ・リーグ7球団ではなく6球団にしたい意向を持っていた。「最近でいえば、巨人のオーナーを務めた渡邉恒雄氏のような存在でした。その永田氏が様々な案を出すうちの1つに、1957年シーズンの最下位チームを合併させる案があった。2リーグ分裂と同時に誕生した新興球団である近鉄は前年までの7年間で、Aクラスは1度だけ。最下位を4度も記録しており、お荷物球団と揶揄されることもありました。近鉄を含め、Bクラス常連チームの尻に火がついたことは言うまでもありません」 8球団制の前年、Bクラスは5位・近鉄、6位・東映、7位・大映、8位・高橋だった。Aクラスの4位・毎日と5位・近鉄は16ゲーム離れており、上位と下位の差は明らかだった。「この年、30歳の関根さんは4月3日、開幕5戦目の西鉄戦に先発するも、5回途中でノックアウトされます。すると、芥田武夫監督に自ら打者転向を申し入れ、2試合後の阪急戦から5番・ライトで先発出場。いきなり猛打賞、翌日は2安打、翌々日にまた猛打賞と打ちまくり、シーズンを通して主に3番を任され、リーグ9位の打率2割8分4厘を残しました」 今と比べて飛ばないボールが使用されていた当時、圧倒的に打者が不利だった。この年、3割バッターは6人しかおらず、野村克也が30本でホームラン王に。大下弘や中西太、豊田泰光らを擁した西鉄でさえ、132試合で94本塁打、チーム打率2割5分5厘だった。 それに引き換え、『神様、仏様、稲尾様』と呼ばれた全盛期の稲尾和久が防御率1.37を記録したこともあり、西鉄のチーム防御率は2.15と驚異的な低さだった。7球団中5球団のチーム防御率が2点台という『投高打低』の時代だ。ちなみに、2019年のパ・リーグで防御率1位はソフトバンクの3.63であり、この数字は1957年の防御率最下位の大映と同じである。「この年、近鉄のチーム打率は2割2分5厘と低迷。そのため、関根さんの2割8分4厘は大きな価値がありました。前年もパ・リーグで3割打者は5人しかおらず、『投高打低』が明らかだったのに、関根さんが打者転向を決断したことに驚かされます。当時は20勝が一流投手の条件と考えられており、そこに届かないからと投手に限界を感じたと生前、話しています。 しかし、前年は9勝、2年前は14勝、3年前は16勝を挙げており、普通はスパッと切り替えられないでしょう。ましてキャンプ、オープン戦は投手として調整を続けたわけで、開幕後にすぐ方向転換できるメンタルも凄い。もし関根さんが投手にこだわっていたら、この年の近鉄はクリーンアップの一角を欠くことになりますから、最下位になった可能性も十分にある。そうなったら、1957年限りで近鉄が消滅していたかもしれません」 結果的に、この年最下位に沈んだ大毎ユニオンズが毎日オリオンズと合併。翌年から『大毎オリオンズ』となり、パ・リーグも6球団制となった。もし1957年に関根潤三が打者に転向しなかったら――。1人の男の決断が、プロ野球の歴史を大きく変えていた。
2020.04.13 16:00
NEWSポストセブン
金田正一からキツいプロの洗礼(共同通信社)
長嶋茂雄、清原和博、松坂大輔 いかにすごい新人だったか
 プロ野球界では、1年目から華々しくグラウンドで活躍したヒーローたちがいる。なかでもデビュー時の衝撃が大きかったのが、長嶋茂雄、清原和博、松坂大輔の3人だろう。彼らの何がすごかったのか、データとともに振り返る。◆長嶋茂雄(1958年プロ入り) 1年目成績 出場試合:130 安打:153 打率:.305 本塁打:29 打点:92 ゴールデンルーキー・長嶋茂雄と国鉄スワローズの大エース・金田正一が対戦した1958年の巨人対国鉄戦はプロ野球史上、最も注目された開幕戦といわれる。通算8本塁打の東京六大学記録を引っさげて鳴り物入りで巨人入りし、オープン戦でも7本塁打と大暴れの長嶋に対し、すでに通算182勝を挙げていた金田。その対決に、後楽園球場は異様な熱気に包まれた。結果は4打席4三振。長嶋は1球もバットに当てることができなかった。 しかし、翌日から長嶋のバットは火を噴いた。新人ながら本塁打王(29本)と打点王(92打点)を獲得。新人で本塁打王はいるが、打点王は長嶋だけ。1年目から「チャンスに強い打者」を印象づけた。 打率.305はリーグ2位。盗塁は37を記録した。一塁ベースを踏み忘れた幻の1本を加えれば、3割、30本塁打、30盗塁で巨人唯一のトリプルスリー達成となっていた。 開幕戦で3番に起用された長嶋は、8月から打撃の神様・川上哲治に代わって4番を任された。日本シリーズでも4番を打ったが、西鉄の稲尾和久の前に沈黙。巨人は3連勝のあと4連敗したが、長嶋は第7戦で稲尾からランニングホーマーを放って意地を見せた。 ルーキーイヤーに6試合連続で敬遠され、そのたびに調子を崩したと言われている。現役中、敬遠に抗議するためバットを持たずに打席に入ったことがあるが、新人の時から敬遠四球が大嫌いだった。◆清原和博(1986年プロ入り) 1年目成績 出場試合:126 安打:123 打率:.304 本塁打:31 打点:78 甲子園通算13本塁打など数々の高校野球記録を樹立。子供の頃からファンだった巨人への入団を希望していたが、巨人はプロ入りを拒否していた桑田真澄を単独指名。清原は1985年のドラフト会議で6球団が1位で競合、西武が引き当てた。 開幕2戦目に公式戦デビューし、2打席目に本塁打を放った。6月には写真週刊誌に登場。門限破りで罰金を払うなど新人離れした話題を提供した。 球宴では巨人選手の前でホームランを打ってのけた。シーズン後半戦はさらに本塁打ペースを上げ、長嶋茂雄の1年目(29本)を抜いて31本塁打を放った。 シーズン終盤には4番に定着。高卒ルーキー新記録となる本塁打数に加え、打率、打点など新人記録をほとんど塗り替え、新人王を獲得。それまで高卒野手の新人王は中西太、豊田泰光、榎本喜八、張本勲の4例しかなかった。◆松坂大輔(1999年プロ入り) 1年目成績 登板試合:25 勝利:16 敗北:5 防御率:2.60 奪三振:151“平成の怪物”と呼ばれた横浜高のエースは3球団競合の末、西武の東尾修監督が当たりくじを引き当てた。初登板は東京ドームでの日本ハム戦。1回に片岡篤史へいきなり155キロの快速球を投げ、8回2失点で初登板初勝利を挙げた。「東尾監督の配慮でデビュー戦は本拠地ではなくマウンドに傾斜がある東京ドームだった。余裕をもって投げていたので終盤でも150キロ台を投げた。マウンド上で自己修正ができ、そのため投げるたびに進化していった」(当時の西武投手コーチだった杉本正氏) イチローとの初対決(5月16日)では3打席連続三振に打ち取り、試合後のインタビューで「自信から確信に変わりました」の名セリフを残した。この年、16勝を挙げて新人王を獲得した。高卒ルーキーの最多勝は堀内恒夫以来、33年ぶりだった。※週刊ポスト2020年4月10日号
2020.03.31 07:00
週刊ポスト
天覧試合から60年、秘話を明かす
歴代最高打者アンケート ONやイチロー、張本勲は何位?
 2月1日にプロ野球がキャンプイン。開幕に向けてワクワク感を押さえられないプロ野球ファンの鉄板の話題が、「歴代最高の投手・打者は誰なのか?」というネタだ。長くプロ野球を見続けてきた本誌・週刊ポスト読者1000人が、ガチンコで選定した歴代最高打者は誰なのか。 イチロー(2位・188票)を抑えて1位に輝いたのは、世界のホームラン王・王貞治(311票)だった。「“歴代最高”というなら、王しかいない。868本の通算本塁打記録はもちろんだが、本塁打王15回、打点王13回、首位打者5回はすごすぎる」(72・元会社役員) 68歳男性(自営業)は「王ボール」が王の凄さを証明していると語る。「なにしろ主審がストライクだと思っても、王が見送ったら“自分が間違ってるかも”と“ボール”と判定してしまうんだから。それほど偉大な選手は他にいないよ。村山(実)や江夏(豊)が血相を変えてマウンドから駆け下りてきて抗議していた。でも、そのあとマウンドに戻った村山や江夏にホームランでとどめを刺すんだから、別格でしょう」 3位にはミスタープロ野球・長嶋茂雄(131票)が入った。「勝負強さはナンバー1だったし、彼のような華のある選手は後にも先にも存在しない」(75・元会社員) 6位・川上哲治(39票)は巨人の「V9監督」のイメージが強いが、現役時代は「打撃の神様」と称された。巨人の名遊撃手としてV9に貢献し、監督としてもヤクルト、西武を日本一に導いた広岡達朗氏が言う。「王は努力に努力を重ねてナンバー1になった人。センスからいえばイチローが上だが、努力では王が上。長嶋は逆に、生まれ持った才能で実績を残した。カワ(川上)さんも打つことに命を懸けていた努力の人。試合前の打撃練習を一人で独占して、他選手には一人3球しか打たせなかったからね。それでこそプロのバッターです」◆ただのショートライナーが「ご意見番」としてお馴染みの7位・張本勲(34票)は、広角打法で日本プロ野球史上唯一の3000本安打を達成。のみならず、500本塁打300盗塁と、長打力や走力も兼ね備える選手だった。現役選手への“喝”に「何様?」との声も上がるが、それだけの実績はある。「知将」が代名詞の8位・野村克也(30票)は、王に先んじた「戦後初の三冠王」。捕手で三冠王に輝いたのは、世界でもひとりしかいない。「高校生の頃、オープン戦で南海の試合を観に行って、ノムさんの素振りを初めて観た時は驚いた。なにしろスイングするたびに、ブン、ブンと大きな音が観客席にまで響くんだから。その後もあのバットスイングを超える選手はいない」(71・元公務員) 9位には「怪童」中西太(28票)がランクイン。ショートライナー性の打球がそのまま浮き上がり、バックスクリーンを越えたという「伝説」の持ち主だ。「少々オーバーにしても、弾丸ライナーでスタンドの最上段まで飛ばすパワーは本当にすごかった。西鉄ライオンズの中西、豊田泰光、大下弘の“水爆打線”は史上最強だったと思う」(75・元会社員) 10位以下には、初代・安打製造機の榎本喜八(14位)、バース(10位)、ブライアント(14位)という“最強助っ人”など、個性あふれる選手たちが名を連ねた。以下、上位20人のランキングだ。◆週刊ポスト読者が投票したプロ野球総選挙〈打者部門・上位20人〉(カッコ内は主な球団。数字は票数)1位 王貞治(巨人)3112位 イチロー(オリックス)1883位 長嶋茂雄(巨人)1314位 落合博満(ロッテ、中日)67    5位 松井秀喜(巨人)49    6位 川上哲治(巨人)39    7位 張本勲(東映、巨人)348位 野村克也(南海)30    9位 中西太(西鉄)2810位 バース(阪神)2311位 大谷翔平(日ハム)1812位 金本知憲(広島、阪神)1613位 門田博光(南海、オリックス)1514位 ブライアント(近鉄)1414位 榎本喜八(ロッテ)1416位 山本浩二(広島)1217位 掛布雅之(阪神)1018位 桑田武(大洋)918位 清原和博(西武、巨人)920位 立浪和義(中日)8    ※週刊ポスト2018年2月16・23日号
2018.02.06 16:00
週刊ポスト
高木豊氏 『プロ野球ニュース』CS版は解放感あり好き放題
高木豊氏 『プロ野球ニュース』CS版は解放感あり好き放題
 1976年にスタートした『プロ野球ニュース』は、地上波での放送は2001年に終わってしまったが、その後はCSに舞台を移し、同じ名前、そしてスタイルのまま、現在も元気に放送を続けている。CS版『プロ野球ニュース』に出演する高木豊氏が、同番組について語る。 * * * 現役時代は『プロ野球ニュース』で次の対戦相手の情報を得るのに活用していましたね。ウチ(横浜大洋)は試合時間が長かったので、番組を見逃さないために、当時は珍しかった自動車テレビをつけたほどです。『プロ野球ニュース』に出ていた先輩方は迫力がありましたけど、言葉は優しかった。唯一、豊田泰光さんからはかなり厳しいことを言われましたが、すべて正論でした。私もそんな大先輩にならって、是々非々の、できるだけ自然体での解説を心掛けています。 番組出演は1997年から。地上波に比べCSは解放感があるので、好き勝手やらせてもらっています(笑い)。解説者同士の事前打ち合わせは全くなし。だから楽しくもあるし危険でもあるけど、ギリギリの方が視聴者は楽しいでしょう。 専門チャンネルですから、野球好きを楽しませる番組にしなければならない。時間に余裕があるから作りたいものが作れるので、大きなメリットになっています。例えば大谷翔平の打席を全球見せるなんて、地上波だったら「バカヤロー」っていわれますよ(笑い)。 とにかくこだわりは持ち続けたいですね。ポジションの違う解説者が絡み合うことでコメントに厚みが出る。若い解説者も多くなりました。30年前と現代の野球は違う。進化や変化を学ぶにはいい機会になっていると思うし、刺激になっています。 伝える側が面白くないと視聴者は面白いはずがない。そういう意味では野球好きのスタッフが制作している『プロ野球ニュース』は最高。この伝統が続く限り、面白い番組を作れると思いますよ。撮影■藤岡雅樹 取材・文■鵜飼克郎※週刊ポスト2017年8月11日号
2017.08.04 07:00
週刊ポスト
なぜ現役プロ野球選手や力士はレコードを出していたのか?
なぜ現役プロ野球選手や力士はレコードを出していたのか?
「プロ野球選手にとって、レコードを出すことはステータスだった」──1970~80年代にかけて活躍した江本孟紀(南海、阪神)や松岡弘(ヤクルト)が口を揃えていうように、王貞治(巨人)や山本浩二(広島)など当時の一流選手は軒並みレコードデビューを果たしている。 レコード会社にとっても、メリットは大きかった。娯楽の王様だったプロ野球の人気選手がシングル盤を出せば、大ヒットは難しくとも、確実に一定の売り上げが見込める。2000~3000枚捌ければ採算が取れる時代に、両者の思惑は合致していた。 プロ野球選手が出すレコードは、主に3タイプにわかれる。一番多いのが演歌調の曲。そして、アイドル的人気を誇った選手に多い、ポップス系の曲。最後に、球団歌や応援歌など野球と密接に関係した曲だ。 歴史を遡ると、1958年の豊田泰光(西鉄)を皮切りにプロ野球選手がレコードをリリースするようになる。その豊田は同年、『西鉄ライオンズの歌』の2番をソロで任されている。松岡弘が『とびだせヤクルトスワローズ』を、大洋の10選手が『行くぞ大洋』を歌唱したように、1970年代までは選手が球団歌を歌うことは珍しくなかった。 同時期、選手のオリジナル盤発売が活発になる。その背景を、野球文化評論家のスージー鈴木氏はこう分析する。「個々の選手グッズが少ない時代に、レコードはファンと選手を繋ぐコミュニケーションツールの1つとして機能していました。また、収録曲やジャケットは当時の音楽界を反映しています」 五木ひろしや森進一、都はるみがレコード大賞を獲得するなど演歌全盛期を迎えていた1970年代、小林繁(阪神)などがこぶしを効かせ、パンチパーマやアイパーをかけてジャケット撮影を行なった。アイドルブームが起こり、ニューミュージックが完全に市民権を得た1980年代に入ると、原辰徳や定岡正二(ともに巨人)、高橋慶彦(広島)が流行のファッションに身を包み、ポップスを歌うようになった。 一方、もう一つの昭和の代表的な娯楽である相撲界からも、続々とレコードが発売されていた。野球選手と同じく演歌系が目立つ中、異彩を放ったのが高見山の『ジェシー・ザ・スーパーマン』だ。中古レコード店『えとせとらレコード』の小野善太郎氏が語る。「基本的に野球選手や力士のレコードは音楽的にはあまり評価されません。しかし、この歌はディスコサウンドで、曲目当てで買われる珍しい1枚。中古レコード市場には、ディスコというジャンルに一定のファンがいるからです」 1970年代には、増位山太志郎が『そんな夕子にほれました』『そんな女のひとりごと』という2曲ものミリオンヒットを飛ばした。力士からの更なるヒット曲が期待されたが、1985年、相撲界ではレコード発売が全面的に禁止になってしまう。「力士の本分は相撲だからです。現在は協会が内容を認めたものに限り、発売が許可されています。昨年、白鵬が東日本大震災復興応援ソングとしてCDを出しています。ただし、付随したイベント出演などは制限されます」(日本相撲協会広報部) 本業以外における選手や力士の意外な一面を見て、ファンになる層もいる。昭和時代、歌が2つの競技の人気を陰ながら支えていたのかもしれない。■取材・文/岡野誠※週刊ポスト2017年2月10日号
2017.02.05 07:00
週刊ポスト
【著者に訊け】平岡陽明氏 『ライオンズ、1958。』
【著者に訊け】平岡陽明氏 『ライオンズ、1958。』
【著者に訊け】平岡陽明氏/『ライオンズ、1958。』/角川春樹事務所/1600円+税 1番センター高倉、2番ショート豊田、3番サード中西、4番ライト大下、5番レフト関口、6番ファースト河野、7番セカンド仰木、8番キャッチャー和田。今見ても惚れ惚れするような〈流線型打線〉である。投手陣も稲尾和久らが大活躍し、1956~1958年には名将・三原脩監督の下、3年連続の日本一に輝いた西鉄ライオンズは、福岡市民の夢を体現する〈野武士軍団〉として、絶大な人気を誇った。『ライオンズ、1958。』は、西鉄黄金期に沸く昭和33年の博多を舞台に、虚々実々の人間模様を活写した平岡陽明氏のデビュー作だ。主人公は地元紙の西鉄番記者〈木屋〉と、〈博一会〉に籍を置く土建屋の〈田宮〉。2人は中洲の娼妓と出奔した二軍選手〈川内〉の始末を巡って出会い、後に兄弟と呼び合うほど絆を深める。 大下や稲尾らも脇を固め、往年のファンには堪らないが、なぜ今、西鉄なのか?「元々は僕がオール讀物の新人賞を取った後、角川春樹社長から『小説の背景たりうるスポーツは唯一、野球だと思う。どうだ、野球小説で時代を書き切ってみないか?』と言われまして。 僕は高校も硬式野球部で、昔から野球漬けだったんですけど、野球が娯楽の王様で夢を託せた時代となると、巨人のV9か西鉄の3連覇しか思いつかない。そこで、以前取材したことがあった豊田泰光さんの当時の話が破天荒すぎて記事に書けなかったこともあり、『西鉄はどうですか』と言うと『おう、俺もそのつもりだった』って(笑い)。ただ西鉄はキャラもエピソードも面白すぎますから、事実に負けないドラマを書こうと、本当に必死でした」 一口にヤクザといっても、南方から復員後、自堕落な日々を送り、昔気質の博徒〈洲之内〉に拾われた田宮の任侠道は、〈筋が通っているかいないか〉等々、〈明確な二分法〉で成立していた。例えば中洲の娼妓〈双葉〉と逃げた西鉄選手の1件だ。彼は兄貴筋の〈中山〉から捜索を一任され、川内と親しい木屋に協力を強要するが、堅気相手の仕事だけに気乗りはしないのである。 一方木屋は川内の才能に高校時代から注目していたが、東筑の仰木が正二塁手に抜擢される一方、川内は二軍で燻っていた。当時西鉄選手の溜まり場といえば中洲。結果、川内は双葉と恋仲になり、子までなしてしまったのだ。 木屋はまず、この状況を学生ボランティアで通った百道の孤児院にいる双葉の弟〈ケン坊〉に伝えに行く。戦災孤児や炭鉱孤児らを受け入れる〈みその苑〉に暮らすケン坊は、口はきけないが利発で賢く、姉との連絡係を快諾してくれた。が、東京に潜伏中の川内を訪ねた木屋は、後をつけてきた田宮の子分と遭遇。格闘の末、何とか川内と身重の双葉を逃がすのだった。 以来、田宮と木屋の間には奇妙な共犯関係が生まれ、〈みそのライオンズ〉の監督やコーチとして大下や稲尾共々、爽やかな汗まで流すようになるのである。「博多に九大のボランティアが関わった孤児院があったのも本当なら、大下さんが自宅を開放して子供たちに野球を教えたのも本当の話。今ならイチローの家に上がり込むようなものですが、彼は幼い頃に苦労したからか、〈大人の世界のきたなさ〉にいい意味で敏感なヒーローだったと思う。 そうした実話はあるとして、実在の人物にここまで勝手な台詞を喋らせていいのかとは、僕も悩みました(笑い)。ただ歴史小説の中の信長が何を言ってもいいように、昭和33年の西鉄は既に、時代小説だと思うんです。当時の博多を僕は鬼平等々が歩く深川と同じように感じ、大下も稲尾も信長級の歴史的ヒーローだと考えれば、自由に活躍させてもいいんじゃないかと」◆人から人へ思いのボールを繋ぐ小説 そのヒーローのヒーローたる所以が、虚も実も甲乙つけ難い本書のドラマ性を支える。巨人3勝で迎えた1958年の日本シリーズ第5戦、10回裏に投手稲尾が放ったサヨナラ弾が〈神様、仏様、稲尾様〉の名文句を生む瞬間はもちろんのこと、ケガで野球を諦めたケン坊の〈ホームランが、打ってみたかったとです〉という夢を大下が叶えたある方法など、涙なくして読めない。 田宮も然り。洲之内が何者かに撃たれ、ある捨て身の行動に出る彼は、何しろスポーツマンシップ=任侠道と解釈する男なのだから。「学のない彼にも彼なりの哲学や辞書があって、今の僕らが見れば損で愚かにも映るその選択が、田宮には当然の義理だったりする。 たぶん戦後から高度成長に入るこの時期、いろんなことが変わったんですよ。たかが野球に夢を託す人や、洲之内みたいな分別のある博徒も少なくなって、その後は箍(たが)が外れたように球界でも黒い霧事件が起きる。でもまだこの時代なら田宮みたいな男がいていいし、いてほしかったんです」 本書ではそんな男惚れの美学が底流をなし、木屋とプロの夢半ばに戦死した兄、さらに田宮を繋ぐ、古びた〈ボール〉が、戦争や時代に翻弄された人々の切なる願いを映して、感動を誘う。「男には幾つになっても永遠の野球少年みたいなところがあると思うんです。今作は戦後13年目の博多で、ワケありな男たちが思いのキャッチボールに興じる、そんな話です」 たった年前の時代小説には、確かに我々が失ってしまった多くのものがあり、人々のキラキラした表情は目に眩しいほど。元野球少年は、これからも人から人へ、思いのボールを繋ぐ小説を書き続けたいと誓ってくれた。【プロフィール】ひらおか・ようめい/1977年横浜生まれ。慶應義塾大学文学部卒。慶應志木高校硬式野球部では内野手。角川春樹事務所や吉本興業出版部等を経て2013年「松田さんの181日」で第93回オール讀物新人賞を受賞。本書は初長編。「博多には特に縁はないんですが、妻が大分出身で、九大出身の義父は大変な語学通。『君の考える博多弁は大分弁が混じっている。僕が後で添削するから思う存分書きなさい』と言ってくれた頼もしい人です」。174cm、68kg、B型。■構成/橋本紀子 ■撮影/三島正※週刊ポスト2016年9月16・23日号
2016.09.12 16:00
週刊ポスト
プロ野球中継改革 「解説者総選挙」実施し上位から仕事獲得
プロ野球中継改革 「解説者総選挙」実施し上位から仕事獲得
 2月1日、プロ野球界はキャンプインを迎え、また新たな1年が始まった。プロ野球中継では、プレーのみならずアナウンサーや解説者の軽妙なトークも楽しみの1つだが、野球中継が地上波から激減、つまらなくなったといわれて久しい。そこで本誌は専門家の意見を元に、野球をもっと面白くするドラフト制度改革案を考えてみた。まずは、あるテレビ局関係者が自戒の念を込めて語る。「試合や技術、野球という競技の面白さそのものではなく、選手のプライベート情報を重視して“物語”を作ろうとしすぎる。おまけに視聴率が下がったことを“華がないから”と勘違いし、タレントを出して騒がせるからさらにファンが離れる。野球好きの人は、見ていてもこれぞプロというべき細かいプレーが見られないからつまらないし、野球を知らない人には説明不足。結果、誰も楽しめない中継になっているんです」 民放は一度、演出を排除した野球中継に挑戦してみてはどうか。そのために必要なのが、「解説者の技能の見直し」だ。「発言が問題になったら干されるし、現場復帰が頭にちらついたりして、とにかく無難にこなそうとする人が最近多い。選手や監督采配に厳しくいわない解説者ばかりです」(同前) 確かにかつての豊田泰光氏などに代表される、鋭い指摘ができるOBが少なくなった。ファンが求めるのは、選手や監督を褒めるばかりの解説者ではない。そのOBの経験に基づき、納得できる理屈とともに、毅然とした解説ができる人物だ。 また、OBが増えすぎて解説者の椅子に空きがなく、若いOBがなかなか仕事にありつけないことも事実。ここは一つ、AKB48に倣って、「野球解説者の総選挙」を実施し、上位から「優先解説権」を取れるという仕組みに変えてはどうだろうか。各解説者の技量も上がっていくはずである。※週刊ポスト2014年2月14日号
2014.02.08 07:00
週刊ポスト
豊田泰光氏「田中将大と稲尾和久は、まったくレベルが違う」
豊田泰光氏「田中将大と稲尾和久は、まったくレベルが違う」
 プロ野球の黎明期、数々の伝説を作り上げた名選手たちが、もしも現代のグラウンドに降り立てばどんな成績を収めるか。今の球界への叱咤激励を込めた、“レジェンド”による大胆な“自己査定”。今回は豊田泰光氏(78)である。豊田氏は1953年西鉄に入団。1956年に入団した稲尾和久氏とともに黄金時代を築いた。  * * * 田中将大が56年ぶりに稲尾の連勝記録を塗り替えたと騒がれました。そのため彼を稲尾と比較する人が多かったけど、稲尾とチームメートだったオレにいわせてもらえば、まったくレベルが違う。それにオレがもし今現役で、田中とチームメートだったとしても、彼を認めなかったと思います。  稲尾は常に、野球に“尽くしきった男”でした。だからこそ、オレをはじめ皆が彼を支えたし、西鉄というチームの強さはそこにあったんです。  稲尾が記録した開幕20連勝は、入団してまだ2年目の1957年。この時も稲尾は個人の連勝記録のための連投ではなく、あくまでチームが勝つための登板ばかりでした。この記録は75日間で達成したんですが、31試合のうち先発勝利は12で、残り8勝はリリーフで挙げた勝ち星なんです。田中は中6日のローテーションを守って先発、158日間を要しての連勝ですから、内容の違いは明らかでしょう。  それに、稲尾はどこかのエースみたいに、自分のせいで負けそうな試合でも、監督に「代われ」といわれているのに、「最後まで行く」なんてフザケたことはいいません。監督のいうことは絶対なんだから「ハイ」といえばいい。  その点稲尾は、負け試合でも泣き言ひとついわず、降板する時には、次の投手のためにマウンドをならすことを忘れない冷静さも持ち合わせていた。だからこそ、稲尾が投げる時はナインが何とかしてやりたいと思ったんです。  それに稲尾の時代、パ・リーグにどんな打者がいたと思いますか。山内一弘、榎本喜八、張本勲、野村克也……錚々たる顔ぶれが並ぶんですよ。また、稲尾とタイトル争いをやった投手には杉浦忠、スタンカ、土橋正幸、尾崎行雄、米田哲也がいて、こんな連中と真っ向から投げ合ったんです。  そんな中で、シーズン42勝、30勝以上が4回、入団以来8年連続20勝、年間400イニング以上2回と、今のプロ野球では考えられないハードワークの記録が並んだわけです。この数字を見て、今の人は「稲尾のすごさ」だけを語るけど、オレがいいたいのはそうじゃない。彼こそがチームに尽くし、野球に尽くした本当のエースでした。  派手なガッツポーズや、雄叫びも上げない。静かに、冷静にマウンドをこなしていた。バックを守る者としては、そんなエースこそ応援したいと思うのです。※週刊ポスト2014年1月1・10日号
2013.12.26 07:00
週刊ポスト
伝説のプロ野球キャンプ 西鉄選手が球場に誰もいない珍事件
伝説のプロ野球キャンプ 西鉄選手が球場に誰もいない珍事件
 今年もプロ野球キャンプは真っ盛り、連日各地から球春を告げるニュースが伝えられている。開幕前の大事な1か月間。 しかし血気盛んな若い選手たちが集まれば、色々な“事件”が起きるのは当然だ。半世紀にわたるキャンプの歴史の中で、いまだ語り継がれる秘話を公開する。「現在ほど担当記者がおらず、監視の目がないパ・リーグの武勇伝はすごい。中でも特に語り草となっているのは、西鉄の島原キャンプの豪快さです」(スポーツ紙デスク)“野武士軍団”と称され、中西太、豊田泰光、仰木彬、稲尾和久らが中心をなしていた1950年代後半から1960年代前半のライオンズ黄金時代。練習もそこそこにして終わると、ナインはこぞって船に乗って、遊郭のある島へ通っていた。 しかしある時、遊びに行ったはいいものの、海が大シケになってしまって帰りの船が出ず、翌日の練習に大勢の選手が出られずに中止になった。 実は記者連中もこの遊びに同行していて帰ってこられず、キャンプなのに球場に誰もいないという事件が起きた。※週刊ポスト2013年3月1日号
2013.02.18 16:02
週刊ポスト
「ダルと稲尾はどっちがすごい?」名球会豊田泰光氏の答え
「ダルと稲尾はどっちがすごい?」名球会豊田泰光氏の答え
 7月某日、球界の重鎮が一堂に会した。「育成の鬼」と呼ばれた関根潤三氏、「野武士軍団」の豊田泰光氏、「350勝投手」米田哲也氏。球界の草創期から活躍し、すべてを知りつくした3人に、スピードガンがなかった時代の投手について尋ねると、お三方からはこんな返事が返ってきた。 * * *米田:ニュースカメラで撮影して、コマ送りにすると球速は計算できたのよ。それで測ると、僕の速い球で152~153キロといわれたな。そんなピッチャーは、各チームに2~3人はいた。豊田:そうだね。そういうピッチャーが投げ合うと投手戦になって試合が予定通りに終わらないから、彼女とデートの約束をしていても間に合わなくなる。米田:でも、逆に早い試合も極端だったですよね。土橋(正幸=東映)さんと投げ合う時なんか、土橋さんが「今日はヨネちゃん、早く終わらせような」とポンポン投げるから、1時間45分くらいで試合終了。バッターが「待って」といっても無視してすぐに投げてくるんですよ。関根:皆、自分の私生活が優先でね。審判からも「今日は早く頼む」なんていわれてました。豊田:そうそう、審判も昔はシャレがきいていた。キャッチャーがボールの判定に文句をいうと「半紙一枚分外れとったな~」とか。米田のカーブは背中に当たりそうなところから曲がってくるんだけど、そのボールが「ストライク!」。驚いて「ウソだろ!」と聞くと「うん、ウソ」といわれたりね。早く終わらせたかっただけかな。――現在メジャーで活躍するダルビッシュを、往年の稲尾さん、米田さんと比べるとどうですか。豊田:今のピッチャーはたくさん球種を投げるから、あの時代とは比べられない。米田:昔はちょっとでも曲がると、真っ直ぐ投げろと直されましたからね。今みたいに自由に投げさせてもらえれば、もっと球種は増えていたと思う。今でいうツーシームを投げると直球のスピードが落ちるので、矯正されていたんだから。 今の子は全般に股関節が固いよね。ダルも股関節が固いから、日本で投げていた頃よりも両足が開かなくなっていて腰の位置が高い。コントロールミスが出ている。マウンドの高さや硬さの関係もあるんだろうけど。豊田:そうなのか。そういうことをアンタはもっと声を大にしていいなさいよ。※週刊ポスト2012年8月17・24日号
2012.08.16 16:00
週刊ポスト
終戦直後のプロ野球選手の移動は夜行列車 荷物棚で寝る人も
終戦直後のプロ野球選手の移動は夜行列車 荷物棚で寝る人も
 7月某日、球界の重鎮が一堂に会した。「育成の鬼」と呼ばれた関根潤三氏、「野武士軍団」の豊田泰光氏、「350勝投手」米田哲也氏。球界の草創期から活躍し、すべてを知りつくした3人は、当時のプロ野球選手が置かれていた環境の厳しさを語る。 * * *豊田:昔の球団はとにかく、カネを出さなかったなァ。僕らが入団したころは、ピッチングマシンもなかった。米田:グラウンドもガタガタで、イレギュラーは当たり前。外野もイレギュラーするからとゴロを捕りに前へ出てこないから、センター前ツーベースなんてのがよくあった。豊田:内野もイレギュラーだらけだったけど、球団に文句をいったら、「自分でならしてこい」といわれるだけだからね。まァでも、おおらかではあったよね。雨天練習場の設備もないから、キャンプでも雨が降ったら練習は中止。時間があり余るから麻雀に花札をやって、暗くなったら飲みに繰り出すっていうパターンだったな。米田:カネがないから、深夜2時に出て4時ごろに着く「ムーンライト」という半額の飛行機で移動するんですよね(東京-大阪、東京-福岡便に1960年代に存在した深夜割引便)。だから試合が終わっても、その時間まで飲んでなくちゃいけない。飲んでたらうっかり遅れるんですわ。それで慌てて、「悪い、遅れる!」って飛行機会社に電話したら、「待っときます!」って(笑い)。他の一般客はどうなんねんと。関根:その他の移動は夜行列車で、寝台は3段ベッド。僕は荷物の棚だった。ひどいチームになると、通路に新聞紙を敷いて寝ているヤツがいた。皆それを跨いで便所に行く。米田:それに当時は蒸気機関車でしょう。大阪から東京へ行くと、朝起きたら鼻と耳の中がすすで真っ黒になりましたよね。そのままダブルヘッダーに出るなんてのが当たり前でした。※週刊ポスト2012年8月17・24日号
2012.08.14 07:01
週刊ポスト
「喝!とかいう人は飲むと基本喧嘩腰」と重鎮野球解説者語る
「喝!とかいう人は飲むと基本喧嘩腰」と重鎮野球解説者語る
 7月某日、球界の重鎮が一堂に会した。「育成の鬼」と呼ばれた関根潤三氏、「野武士軍団」の豊田泰光氏、「350勝投手」米田哲也氏。球界の草創期から活躍し、すべてを知りつくした3人は、当時のプロ野球のチーム事情をこう語る。 * * *豊田:昔のコーチは面白かったね。皆を誘って飲みに行って、コーチが門限破りの常習犯だったり。大下(弘=西鉄)さんなんて、コーチなのに他のチームの選手と飲み歩いてきて、朝方に自分の旅館にタクシーを横付けしちゃうんだからね。そんな親分肌の男はいないし、今はコーチといってもカスばかりじゃないか。西鉄は中西さんや僕、ピッチャーがダメで内野手にした仰木(彬=西鉄)、稲尾と、ルーキーをどんどん使って強くなった。最初はボロボロですが、選手は申し訳ないと思って練習するからグングン伸びた。これを忘れてはいけない。米田:ルーキーは確かに使いづらいですが、監督が腹をくくって起用しないと、そこが完全な穴になってしまいます。新人は使わないと絶対に育ちませんから。豊田:今の監督は、新人を使って失敗したら自分の責任になるから、ルーキーを使いたがらない。僕がたまに指導しに行ったら、後から電話で「よくいってくれました!」なんていってくる。自分の責任になるのが怖いんだろう。関根:ボクは選手が育って伸びてくるのを見るのが楽しいんだけど、やっぱり昔と違って、若い選手が故障するのを怖がって指導しているようなところがあると思うね。それだけ今の野球にはコクがなくなっているのかもしれない。豊田さん、若かったら指導者やってたでしょう。豊田:やらないですよ。野球は見てるけど、つまらないから酒飲んでいるのよ。米田:ビールですか。豊田:ワインだね。1本空かないのが悔しい。米田:昔は大阪で飲んでましたよね。中にはケンカ腰の人もいましたけど。豊田:ああ、アイツか。アイツと飲むと喧嘩売られとるように思うからな。関根:わかるわかる。豊田:関根さんみたいに酒を飲まない人でもわかるんだもんな。少しは大人しくなったかね。米田:相変わらず「喝!」とかいってますけどね。関根:結構、変わったみたいだけどね。豊田:人間、そんなに変わるとは思えないけどなァ。俺たちみたいにね。※週刊ポスト2012年8月17・24日号
2012.08.12 07:00
週刊ポスト
350勝投手米田哲也氏 「当時の給料はサラリーマンの2倍」
350勝投手米田哲也氏 「当時の給料はサラリーマンの2倍」
 7月某日、球界の重鎮が一堂に会した。「育成の鬼」と呼ばれた関根潤三氏、「野武士軍団」の豊田泰光氏、「350勝投手」米田哲也氏。球界の草創期から活躍し、すべてを知りつくした3人が、古のプロ野球を振り返る。 * * *豊田:しかしこの頃は野球を見ていても面白くないね。何だこのピッチャーは、このバッターはっていうヤツばかりで、つまらんよ。関根:基礎体力が違うように思うかな。昔の方が安心して鍛えられたっていうか、今は体を心配しながら練習している感じだよね。米田:故障にも強かった。ただただ走らされましたけど、あれが良かったんでしょうね。関根:昔は叩かれてやらされて、ヘド吐いてたから。豊田:喧嘩するヤツもいないね。昔は豪傑が多かった。殴り合いをしろとはいわないが、野球で喧嘩をするくらいの迫力がほしいんだ。米田:今の選手は文句から始まりますしね。ピッチングコーチをしていても、こうやれというと「肩を壊したら補償してくれますか」とか平気でいいよる。アホか、投げられんようになったら家業継いだらええ。それがプロちゃうんか、と。豊田:すぐ「痛い」というしな。米田:甘いんですわ。よっぽどじゃない限り、僕らは痛いなんて口に出せませんでしたよ。投げられる痛さと、投げられない痛さを身体で覚えていた。痛いといって休んだら、あっという間にクビですからね。関根:それで、ボクらの頃とはケタ違いの年俸をもらっているんだからね。米田:昭和30年代の大卒の初任給が1万3800円、という歌謡曲が流行りましたが、当時の僕の給料は当時3万円。昔はサラリーマンが基準で、その2倍程度でしたよ。上げてくれといっても「前例がない」と繰り返すだけ。「前例は破るもんや」って契約更改で大喧嘩したけど、ダメでした。関根:プロ野球に注目が集まり、待遇が改善されたのは、長嶋が巨人に入団してからだよ。それまで世間には、スポーツをやって金儲けとは何事かという空気があった。ウチの親父なんて、息子がプロ野球へ入るのが恥ずかしくて猛反対したんだよ。自分は愛人を囲ってたくせに、どっちが恥ずかしいんだよと。※週刊ポスト2012年8月17・24日号
2012.08.10 07:00
週刊ポスト

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