柏原芳恵一覧

【柏原芳恵】に関するニュースを集めたページです。

デビュー40周年の節目にパートナーの闘病
柏原芳恵が40周年記念ライブ開催 白血病のパートナーが後押し
「この40年、たくさんのかたに出会いました。つくづく出会いというのは一つひとつが大事だと、改めて感じています」 10月17日、東京都北区の北とぴあさくらホール。ここで開催されたデビュー40周年記念コンサートの最中、純白の衣装に身をまとった柏原芳恵(55才)は、しみじみとそう語り、往年と変わらない艶やかな歌声を披露した。もともとこのコンサートは7月に予定されていたが、新型コロナの影響で延期。無事に開催された記念公演に駆けつけたファンは、SNSでこう歓喜した。《すごくお若くておきれいでビックリ!》《歌声とスタイルと美貌は変わらずそのままでした》 6月には約12年ぶりとなるシングル『KU・ZU~ワタシの彼~/A・RU・KU~愛してる人にちゃんと愛を伝えてますか?~』を発表し、デビュー40周年が経ったいまでも、第一線の歌手としての貫禄を見せつけた。しかし、こうした彼女の活発な活動に驚きの声も上がっている。音楽関係者が重い口を開く。「芳恵さんは、いままではテレビに出るといっても年に1回ぐらいで、芸能活動はかなりセーブしていた。最近の活動を見ていると、背中を押してくれる出来事があったんだと感じます。 芳恵さんといえば、恋多き女として知られましたが、1990年を境にスキャンダルはパタリとなくなっています。それは異国で出会ったある男性K氏との出会いがきっかけでした。以降、彼女は今日までその男性との事実婚生活を貫いているんですよ。ただ、数年前その彼に深刻な病が見つかって……」 2015年、70才を超えたK氏が、白血病を患ったのだ。柏原は、献身的にK氏の闘病を支えてきたという。 それから5年あまり経ち、病状が落ち着いたK氏は現在、自宅療養をしているという。「ヘルパーの人が自宅を訪れることはなく、Kさんの身の回りの世話はすべて芳恵さんが行っています。彼女はテレビなどでは『自販機の使い方がわからない』『身の回りのことはすべてスタッフがやってくれる』と話していますが、最近は買い物や料理、掃除といった家事をすべてひとりでこなしているんです」(前出・音楽関係者) 迎えた今年のデビュー40周年。看病のため仕事をセーブしていた柏原の背中を押したのはK氏だった。「『せっかくの40周年なので、ぼくのことはいいから、きみの記念になるようなことをやるべきだ』とKさんがアドバイスしたんです。最初は躊躇していた芳恵さんですが、最後には記念コンサートと新曲の発表を行うことを決断しました」(前出・音楽関係者) 両親のサポートもあった。「芳恵さんは、いまでも両親を年に一度、2泊3日の旅行に連れて行くほど親孝行。彼女はよく、『デビューしてからは年に数回しか会えなかったから、その埋め合わせをしてあげたい』と話しています。その両親から『無理のない範囲で頑張ってみたら』と言われたことも、彼女にとっては前に進む支えになったようです」(芸能関係者) 最も大きかったのは、柏原がずっと胸に秘めてきた「覚悟」と「責任」だ。「芳恵さんはこれまでKさんとの仲について、公式には一切語っていません。彼女の中には彼の奥さんと子供からKさんを奪ったという罪悪感と償いの気持ちがあるのでしょう。どんな状況になっても彼の面倒を見続けるという強い覚悟と責任感があり、介護や家事についても精一杯頑張っています。 それでも彼女も気づけば55才。病身のパートナーと家族から後押しされたこともあり、これまでの人生に恥ずべきことがないことを示すためにも、彼の介護を続けながら、表舞台に立って仕事を再開しようという気になったようです。それが彼女にとっての30年のけじめなのでしょう」(前出・音楽関係者) 12年ぶりの新曲『KU・ZU~ワタシの彼~』で柏原は自ら作詞を手がけた。そこで彼女は、一途な思いを寄せる「ワタシの彼」について書いている。それは30年の歩みに後悔がないことを告げる、柏原の宣言ではないだろうか。※女性セブン2020年12月3日号
2020.11.21 07:00
女性セブン
デビュー40周年の節目にパートナーの闘病
柏原芳恵 事実婚の22才年上夫が白血病患い献身介護の日々
 1980年にデビューした柏原芳恵(55才)にとって、今年はデビュー40周年を迎えるメモリアルイヤーだ。同期に松田聖子、田原俊彦らがいる“アイドル黄金期”に活躍し、80年代を代表するトップアイドルの1人だった彼女はいま、30年前に出会ったパートナーとの絆を改めて感じているのかもしれない──。 1979年、大阪に住む中学2年生だった柏原は、伝説のオーディション番組『スター誕生!』(日本テレビ系)でグランドチャンピオンに輝き、スカウトされた。 翌年、単身上京し、阿久悠作詞の『No.1』でデビュー。1980年といえば、松田聖子(58才)、田原俊彦(59才)、河合奈保子(57才)らが綺羅星のごとく現れた記念すべき年。そのなかで「柏原よしえ」としてデビューした彼女は、『No.1』で14才ながら、体を艶めかしくくねらせた歌い方で一躍注目された。 1982年、17才の誕生日に本名の「柏原芳恵」に改名し、谷村新司(71才)や松山千春(64才)など、ビッグネームのシンガーソングライターが提供する楽曲路線に挑んだ。なかでも忘れられない名曲となったのが、中島みゆき(68才)が作詞作曲した『春なのに』(1983年)だ。恋人との切ない別れを繊細に表現したこの曲は多くのファンの心をつかみ、『ハロー・グッバイ』(1981年)に次ぐ大ヒットとなった。 ちなみに中島が作詞作曲した楽曲で最も多くトップ10に入るヒットを出したのは、研ナオコ(67才)でも工藤静香(50才)でもなく、柏原だ。「中島さんは芳恵さんに『春なのに』の歌唱法を伝授するほど入れ込んでいました。中島さんから『すべての歌詞が悲しいのではない』と教えられた芳恵さんは、“春”は楽しい、“別れ”は悲しいというように、メリハリをつけて歌うようになりました」(音楽関係者) 1986年10月には、柏原の大物ぶりを物語る、異例の出来事が発生した。かねてから柏原の大ファンを公言されていた浩宮さま(現在の天皇陛下)がリサイタルを訪れ、庭に咲く一輪のプリンセス・サヤコ(バラの花)を柏原に手渡されたのだ。この出来事は、翌日の一般紙とスポーツ紙の一面を埋めた。「そのバラは原色ドライフラワー処理をして、そのままの色と形で保存してあるそうで、芳恵さんにとって“家宝”です」(前出・音楽関係者) 大阪から単身上京して6年、20才になった柏原は両親に5LDKの家をプレゼントするほどの売れっ子となった。「デビュー後はトップアイドルとしてだけでなく歌手や女優、グラビアモデルとしても幅広く活動して多忙を極め、25才のときには自由を求めて突然姿を消したことがあります。そのときは南の島に逃亡したそうですよ(笑い)」(前出・音楽関係者)香港で出会った22才年上男性と事実婚 浩宮さまに見初められたことから、「ロイヤル・アイドル」とまで称された柏原だが、異性関係がゴールに結びつくことはなかった。これまでマスコミから何度も「結婚しないの?」と尋ねられても、現在まで独身を貫いている。「交際報道はたびたびありましたが、彼女の場合は決まって年上がお相手でした。最初の噂は当時所属していたプロダクションの20才ほど年上の社長で、次が1才年上の歯科大生。その後、俳優の宅麻伸さん(64才)とも浮き名を流しましたが、結婚にはいたりませんでした」(芸能記者) しかしその裏には、ある年上男性との長きにわたる禁じられた恋が存在する。1990年、柏原はVシネマの撮影で出かけた香港で、アクション監督兼俳優として活躍していたK氏と運命の出会いを果たした。「Kさんは芳恵さんの22才年上で、出会った頃のふたりは20代半ばと40代後半。その翌年に日本と香港の合作映画『メイプル・オン・ファイアー』の監督と主演女優として再会し、2か月にわたるロケの最中に急接近しました」(前出・音楽関係者) 年齢差をものともせず深い仲となったふたりだが、異国で芽生えた恋には大きな障害があった。このとき、K氏には妻と2人の子供がいたのだ。「Kさんの奥さんは中国籍の女性で、香港での撮影時は親身になって、英語と中国語が不自由な芳恵さんの世話をしていました。芳恵さんも奥さんを慕い、『ママ』と呼んでいたほどです。もちろん奥さんは夫と芳恵さんが男女の関係になったことを知りませんでした」(前出・音楽関係者) その後、事態は急展開を見せた。香港の芸能誌が柏原とK氏の関係を報じ、不倫が妻にバレてしまったのだ。「Kさんは奥さんを見捨てるかたちで、芳恵さんを追い、はるばる日本にやって来ました。芳恵さんも“運命の相手”を受け入れて、ふたりは東京で同棲を開始。突然の不倫略奪同棲は日本でも大きく報じられ、詳細を知ったKさんの奥さんは、『恩を仇で返した!』と芳恵さんを恨んだそうです。その後、Kさんと奥さんは離婚協議を始めましたが、2人の子供のこともあり、なかなかうまく進まなかった。 それに香港の法律では離婚した人は最長で5年間は再婚できない規定があり、芳恵さんとKさんは正式に結婚することができず、事実婚状態となりました」(芸能関係者) 当時、テレビリポーターからたびたび、不倫同棲について直撃取材されたが、ふたりはそれからも揺らぐことなく愛を育み続けた。「ふたりは都内にある芳恵さんの自宅で同棲し、ゴミ捨てをしたことがないという彼女の代わりに、Kさんがゴミを出す姿がたびたび目撃されました」(前出・芸能記者)誰の手も借りずひとりで介護 その後も事実婚を続けたふたりに再び大きな転機が訪れたのは、2015年。70才を超えたK氏が、白血病を患ったのだ。「当時は、芳恵さんが連日通院するので、彼女が病気にかかったのではないか……と噂されたほどです。しかし違った。それはKさんの見た目が変化していたことで明らかになりました。抗がん剤の使用で髪の毛が抜け落ち、以前よりやせたKさんを芳恵さんは甲斐甲斐しく看病しました。 退院時は『ご心配をおかけしました』とふたりそろって近所に挨拶に行くこともありましたが、その後もKさんは入退院を繰り返しました。この頃の芳恵さんは仕事をセーブして、入院時は毎日のように看病に行っていましたよ。 それまで身の回りのことは全部ほかの人がやってくれていたようですから、彼女にとっては初めてのことばかりだったみたいで、それはそれはお疲れのようでした」(ふたりをよく知る知人) それから5年あまり経ち、病状が落ち着いたK氏は現在、自宅療養をしているという。※女性セブン2020年12月3日号
2020.11.20 07:00
女性セブン
オバ記者がカラオケ100点おじさんに弟子入り!
カラオケでなぜ音を外すのか? 最大の要因はカッコつけ
“オバ記者”ことライターの野原広子(62才)が、編集M(50代)とともに、憧れの先生「カラオケ100点おじさん」ことシンガーソングライターの佐々木淳平さん(39才)に弟子入りした。 入門した2人はまずは現在の実力で熱唱!オバが歌ったのは十八番、松田聖子の名曲、『赤いスイートピー』。オバにしては高得点の82.698点で全国平均をちょい上回った。Mは、柏原芳恵の『春なのに』で、85.261点。 2人とも佐々木さんの指導を受けると、オバが2.884点、編集Mが6.565点上げることに成功。  オバ記者が今回のカラオケ取材を振り返った。 * * * 言ったらナンだけど、自分の耳は確かだ思っていた。 だからオペラを聴きに行けば、「音は正確だけど、それだけ。ちっとも響かない。まあ、並よね」と、まあ、偉そうに。 それでもふと、わが身を振り返ることはあって、人前で歌を歌うのが年々、いやになっちゃった。よい耳を持っているはずの私が、なぜ音を外す? 声が出ない?  その答えが本日解明したの。最大の問題点は、妙なタメ歌い。歌ヘタをカバーしようとカッコつけていたのよね。 その結果、途中で歌い遅れ、慌てて追いつこうとして音を外す。息継ぎは滅茶苦茶。苦しい。声が出ない。ああ、もうダメだ。 ええい、こうなったらアクションでごまかしちまえ! とても歌の話とは思えないわよ。私のダメダメな性格、そのものじゃないの。「それ言うなら私の歌の致命傷は、抑揚のなさ。思えば一本調子な半生そのものよ。わ~ん(泣)」 編集Mちゃんと、しばしお嘆きタイム。と、愚痴っていたって、カラオケの点数は1点だって上がるもんじゃない。気を取り直して淳平先生から教わった、歌う前のストレッチ。「ぶ~、ぶ~、ぶ~」。 唇を震わせる自主トレをしよっと。60の手習いはまだまだ発展途上中。撮影/森浩司※女性セブン2020年4月16日号
2020.04.07 07:00
女性セブン
オバ記者がカラオケ100点おじさんに弟子入り!
熟女がカラオケ100点おじさんに弟子入り、どれだけ上手くなる?
『女性セブン』での体験取材などでおなじみの“オバ記者”ことライター野原広子(62才)が、カラオケにチャレンジ。どうすれば高得点を出せるのか、「カラオケ100点おじさん」としてYouTubeチャンネル登録者数9万人を超えるシンガーソングライター・佐々木淳平さん(39才)に指導してもらいました。 * * *「カラオケ? 行かない、ヘタだし」。ここ数年、すっかり歌を忘れていたオバが、何十年ぶりかで魂の揺さぶられる歌声にビビビッ! そしたら何、急にキャラ変しちゃって「私も、歌いた~い」だって。で、逃げる編集Mちゃんを道連れに、憧れの先生から歌うまの秘伝を伝授されたら、あらま不思議。グッと点数アップ。そればかりか、女ふたりの人生の大穴まであらわに! 歌は人なり、だったのね。「カラオケで高点数を取ることと、人の心に響く歌を歌うのは基本、別。でも歌がうまくなるにはコイツ(カラオケAI採点機)を先生に練習するのが、結果的に早道なんですよ」 そう語るのは、歌手であると同時に、カラオケバーの店長でもある佐々木淳平さんだ。 アラカンの私と、アラフィフの編集Mちゃんが、歌がうまくなりたいと志を立てて入門したのには、ちょっとしたワケがある。 同世代の女友達とカラオケに行くと、場を仕切るのは、“ママ”か“グラン・マ”か、なの。「私、あいみょんの『マリーゴールド』」「じゃあ、米津玄師の『パプリカ』、歌っちゃう」「私、振り付けできるよ」。 娘や孫のいる人は、最新の曲を覚えられるのよね。一方、私たち独り者は昭和のまんま。分が悪いったらありゃしない。 去年の暮れ、オバはとうとう紅白を見なかったもんね。ちっとも胸に届かないのよ。「愛している」の、「会いたい」のって、何言ってんの。だんだん腹が立ってきたりして。 こうして時代から遅れていくのは、まあ、いいとしよう。けど、せめて「これ」という私の1曲を持ちたいではないの。カラオケから、歌から逃げない女でいたいのよ。そんなわけで、「まず曲選びから教えてください」と私。すると淳平先生、思わぬことを言うんだわ。「点数を出すには、歌に感情を込めないこと。たんたんと音通りに歌うこと。それをしやすい曲で、音の高低差が小さく、ボロが出にくい短い歌がいいんです」(佐々木さん、以下「」内同) 練習しなくても高得点が出たら、自分に“合う曲”なんだって。「曲が決まったら練習、練習、また練習。1000本ノックですか?」と編集Mちゃんが不安げに淳平先生を見上げれば、「いやいや、ただ歌えばいいわけではありません」(淳平先生・以下同)。 ひとつずつ課題をクリアして歌うことが大事なんだって。たとえば…。息はいっぱい吸って、意識してちょっとずつ吐く練習。マイクを離したり近づけたりして、抑揚をつける練習。大げさなくらいでちょうどいいんだそう。「AIの基準で歌うと最初はすごく窮屈だけど、必ず結果は出ます。頑張りましょう」 それともうひとつ。淳平先生は言わなかったけど、私は決定的な方法を見つけちゃった。それは、歌のうまい人と一緒に歌うこと。息の継ぎ方、声の出し方、張り方まで、たった1曲でかなり習得できるよ。歌うって、なんて楽しいんでしょ。◆【実力判定】とりあえず熱唱してみました オバが歌ったのは十八番、松田聖子の名曲、『赤いスイートピー』。オバにしては高得点の82.698点で全国平均をちょい上回った。Mちゃんは、柏原芳恵の『春なのに』で、85.261点。「ふたりとももったいない歌い方をしています」ここから、淳平先生によるレッスンが始まった!●教えてくれたのは?シンガーソングライター・佐々木淳平さん(39才) アニソン、ミュージカルシンガー。カラオケで30曲以上100点を出したのをきっかけに、YouTubeで『カラオケ100点おじさんチャンネル』を開設。2年足らずで登録者数9万人超え。『THEカラオケ★バトル』(テレビ東京系)、ミュージカル『ミス・サイゴン』(5月23日~6月28日 帝国劇場にて)に出演予定。◆【レッスン1】AI先生の攻略法を伝授します「カラオケの機能をフルに使うこと。ガイドメロディーをオンにすると、バーの長さや位置で音の高さ、長さがわかります。原曲を間違えて覚えていると、すぐにわかりますよ」◆【レッスン2】声の大小とブレスが大事!「日本のポップスはAメロ、Bメロ、サビで作られています。Aメロは小さめの声で、Bメロはやや大きめ。そしてサビでめいっぱい声を出す。曲がどうできているか。そしてどこで息継ぎをしているか。一度、冷静に聴いてから歌い出すと、めちゃ歌いやすくなります」 考えたこともなかった!◆【レッスン3】音程は手ぶりで合わせる!「一音、一音、ていねいに歌うのは基本中の基本。音程は高得点を出す重要なカギです。音の上がり下がりは手で指し示して、音を見える化すると、音程がグッと安定しますよ。これを何度も繰り返して、体に正しい音を叩き込みましょう」◆【レッスン4】ロングトーンで加点を狙え!!「ロングトーンとは、1秒以上、同じ音程を維持しながら発声すること。ちゃんと歌えたら高得点につながります。ここでビブラートが入ればさらに◎。『あ~あ↑ あ~あ↑』と、ゆっくりビブラートをつける練習をするといいですよ」。 最後まで歌い切れたら最高に気持ちいいよ。◆本日の成果●オバ記者 『赤いスイートピー』(松田聖子)が、85.582点(+2.884点) 62年の人生で最高得点。AIくんってば、「さらなる向上が期待できます」って励ましてくれちゃって、もう~。「ちょっと遅れる歌い出し。これはクセになっているので抜けるまで大変かも。でも意識していれば必ず直ります」。 オバ、90点を出す日も近い!? てか、それより淳平先生と一緒に『赤いスイートピー』を歌ったのが、ふふふ、最高の思い出だわ。●編集M 『春なのに』(柏原芳恵)91.826点(+6.565点) ン十年ぶりの『春なのに』で、いきなり85点も出て驚きましたが、淳平先生の指導でまさかの90点超え! 実は若かりし頃、某ボーカルスクールに通っていたので音程には少々自信がありましたが、なんと! 当時の先生に言われてた課題と同じことをAI先生に指摘されるとは!? AIって、心ないんじゃないの!? いつか、アンタの心も揺さぶってやる~。◆取材・文/野原広子 撮影/森浩司※女性セブン2020年4月16日号
2020.04.04 07:00
女性セブン
ワッキーが明かす、ロンブー淳の結婚式での長渕熱唱の裏側
ワッキーが明かす、ロンブー淳の結婚式での長渕熱唱の裏側
 門出、旅立ち、巣立ち…別れの季節である3月にはそんな言葉が似合う。人生の節目となる、春の時季を彩った歌はなんだろうか。歌の数だけ「別れの物語」がある――。 1980年代には、柏原芳恵『春なのに』、H2O『想い出がいっぱい』、尾崎豊の『卒業』などの歌が当時の若者の心を捉えた。 なかでも、お笑いコンビ・ペナルティのワッキー(47才)の心に刺さった歌は、長渕剛の『乾杯』だという。同期で親友のロンドンブーツ1号2号の田村淳(46才)がハワイで結婚式を挙げたとき、品川庄司の庄司智春(44才)と共に歌った曲だ。「冒頭のところで、もう泣きながら歌っていました。それを見て、淳ももらい泣きしながら一緒に口ずさんで…。 デビューしてから何をやるのもずっと一緒だったので、歌詞はまさにぼくらそのもの。あの曲を聴くと、“あの頃がいちばん楽しかったんじゃねえの?”という気持ちがわき上がります。みんなで街に繰り出してナンパしたり、海に行ったり、お互いの家で何をするでもなくボーッとしていたり。そんな他愛もないことが走馬灯のように脳裏を駆けめぐりました。 お金も何もなかったけど楽しかった日々。そんな気持ちも年を取ったら味わえなくなるのかなと、切なさを感じながら歌っていました」 大の長渕ファンのワッキーは、長渕の『さようならの唄』を照れた顔で口ずさみながら、子供の頃のほろ苦い思い出を振り返る。「親父が転勤族だったので、小・中学校の頃は転校を繰り返していました。中学3年生になる春の時期に北海道から千葉に引っ越すんですが、いまでも関係の続いているくらい仲のいい友達との別れだったので、寂しくてたまらなくて。 それで、当時好きだったクミちゃんという子がいたんですが、北海道を離れる前に意を決して告白したんです。サッカー部の練習前に廊下に呼び出して“ずっと好きだったんだ、つきあってほしい”と、人生初の告白です。その後サッカーの練習をしていたら、クミちゃんの親友のカリンちゃんに呼び止められて“これ、クミから!”と小さな手紙を渡されました。ドキドキしながら開けて見ると、そこに書かれていたのは“やっぱり友達がいい”という文字。あまりの衝撃に、ぼくはそのまま雪の積もった校庭にパタリと倒れこんでしまって(笑い)。仰向けになりながら、小さな手紙をさらに小さくちぎって上に投げると、雪と一緒に手紙が自分に降り積もって…。 家に帰ってから『さようならの唄』や五輪真弓さんの『恋人よ』を聴きながら、ボロボロ泣いていました」 1990年代、2000年代以降も、卒業式の定番となった埼玉県の中学校教師作曲の『旅立ちの日に』や、レミオロメン『3月9日』、森山直太朗『さくら』、アンジェラ・アキ『手紙~拝啓十五の君へ~』など、さまざまな卒業ソングが誕生した。「歌を聴くことで、卒業式で同級生が泣いていた横顔など、懐かしい情景がありありと浮かび、いまでも熱いものが込み上げてきます」(47才女性) 歌にはあの日の思い出を鮮明に甦らせる力がある。それはどんなに時が流れても、決して色あせることはない。※女性セブン2020年4月9日号
2020.03.29 16:00
女性セブン
「春の別れの歌」いちばん泣いた歌は?(写真/アフロ)
別れの曲『贈る言葉』『なごり雪』等の秘話と著名人の思い出
 聴けば当時の記憶が鮮明に甦る──そんな「別れの歌」は誰にでもある。見上げれば桜が咲いている、こんな季節は特にそうだ。「柏原芳恵の『春なのに』は亡き夫が、私がカラオケで歌うととても喜んでくれた曲。夫は去年の5月に亡くなりましたが、桜の頃が最も具合の悪い時期で、きれいに咲き誇る桜を見るといまも寂しい思いに胸が苦しめられます」(50才女性) サビの歌詞を聴いて、恋人や友人との別れを想起する人もいるだろう。卒業ソングのみならず、思い出深い春の別れの歌は人によってさまざまだ。あなたにとって、いちばん心に残る一曲はなんだろうか──。 舟木一夫の『高校三年生』やペギー葉山の『学生時代』がヒットした1960年代、高度経済成長期のまっただ中にあった日本は、東京五輪開催に沸いていた。地方から夢を抱いて上京する――別々の道を歩む友人たちへの惜別を明るく歌い上げた曲が流行したのも、そんな時代背景があったのだろう。 1970年代になると「きみ」「あなた」といった言葉が多用され、恋人や仲間との別れが歌われるようになる。卒業ソングの定番になった海援隊の『贈る言葉』も、もともとは失恋の歌だったという。「武田鉄矢さん(70才)が地元・福岡の学生時代、好きな女の子にフラれたほろ苦い経験から歌が生まれたそうです。本人は“失恋の歌を書いたつもりなのに、なんで卒業式で歌われるようになっちゃったんだろうな”と笑っていました」(音楽関係者) フォークグループのかぐや姫の楽曲を、イルカ(69才)がカバーした『なごり雪』は、亡き夫で音楽プロデューサーの神部和夫さんの情熱が実現させた歌だった。「イルカさんが21才、神部さんが24才のときに結婚して以来、神部さんは自身の音楽活動をすっぱり辞めてイルカさんのプロデュースに徹しました。なかなかヒット曲が出ないイルカさんの才能を信じ続け、“これだ!”と思ったのが『なごり雪』だった。 当時は無名のイルカさんがカバーするのは無謀といわれたそうですが、熱心に関係者を口説き続けてカバーを実現、大ヒットにつながったそうですよ」(別の音楽関係者)『なごり雪』が不動の別れの歌となって久しい2007年、神部さんはパーキンソン病に侵され59才でこの世を去った。 1970年代にはほかにも荒井(松任谷)由実の『卒業写真』や山口百恵の『いい日旅立ち』など、多くの別れの名曲が生まれた。プロスケーターでタレントの渡部絵美(60才)は、中島みゆきの『わかれうた』を印象的な別れの歌として挙げる。「2才でスケートを始め、9才でアメリカにスケート留学した私が『わかれうた』に出合ったのは18才のとき。1日8時間の練習づけの毎日の中、日本から送ってもらったこの曲のテープを、涙をこぼしながら何度も繰り返し聴いていました」 日本を離れての練習がつらく、何度も氷の上に倒れそうになったとき、この『わかれうた』の冒頭の歌詞を叫びたくなったこともあったという。「そうしたつらい時期を支えてくれたのは、アメリカの高校の仲間です。この曲を聴くと、国籍を越えたつながりを教えてくれた仲間との別れも思い出され、もの悲しい気持ちになります」(渡部さん) 経済評論家の森永卓郎さん(62才)にとっての別れの歌は、吉田卓郎の『今日までそして明日から』だという。「ぼくは小学5年生までを欧米で過ごしたので、帰国してからは日本語もろくにしゃべれず通信簿は1と2ばかり。しかも太っていたので、ずっといじめられっ子でした。中学で転校し、この曲に出合ったのが15才のとき。当時はフォークソングブームで、みんなでギターを弾きながら、吉田さんの曲を歌っていました」 曲名の通り、明日からもまたこれまでと同じように生きていくだろう、と歌うこの曲。「この歌詞を聴くと、これまでの自分を否定し変わろうとするのではなく、あるがままの自分を受け入れる気持ちになれました。“変なヤツ”だからいじめられたけれど、“変なヤツでいいんだ”と思えたんです」(森永さん)※女性セブン2020年4月9日号
2020.03.27 16:00
女性セブン
涙を彩る名曲の数々をランキング化
贈る言葉、旅立ちの日に… 卒業ソングランキングTOP20
 卒業式シーズンになると、何年経っても「あのフレーズ」とともに淡い記憶が蘇る──そんな「思い出の歌」が誰しもあるだろう。今年の卒業生たちにとっても、いつかこの時代の歌が、特別な思い出になるはずだ。新型コロナウイルス蔓延による全国一斉休校で卒業式を行なえない学生も多い。彼らに、せめて時代を彩った卒業ソングの名曲を贈りたい。『仰げば尊し』や『蛍の光』など卒業式で歌う合唱曲=卒業ソングだった時代に、舟木一夫が歌う『高校三年生』(1963年)は大ヒットし、1960年代の“代表ソング”となった。東京五輪を翌年に控えたこの当時、大学進学率は10%程度で、集団就職の全盛期。地方の「高校三年生」の多くは卒業すると「金の卵」として地元を離れ、大都市へと旅立っていった。「近い将来もう会えなくなるかもしれないという思いは、誰もが共有していた。就職後には夜この歌を一人で口ずさんで励まされました」(74・無職) 当時、中学3年生だった元参院議員の筆坂秀世氏(72)も思い出の曲だと言う。「池田勇人内閣で高度成長期の真っ只中。日本に勢いがある、いい時代だった。中学生仲間も当時は『高校三年生』を口ずさんでいました。その頃は中卒で就職する人生も少なくなかった。別れの辛さは中学生にも重かったんです。校内放送で流行歌が流れるようになったのは、『高校三年生』かららしい。この曲を聞くと1学年下の可愛い後輩に告白して、フラれたことを思い出すよ(笑い)」 翌1964年に流行したペギー葉山の『学生時代』は、結婚式を迎えた女性が、高校時代を懐かしむ歌だ。この曲は『大学時代』というタイトルになる予定だったが、みんなが大学に行く時代ではないとペギーが反対し、『学生時代』になったという。「テニスもキャンプファイヤーもしたことがなかったけど、都会的な学生生活に憧れた。高校の同窓会に行く途中、憧れていた同級生を思い出してこの曲が頭をよぎる。彼女は1回も来たことないけどね」(73・無職)◆もう若くないさと君に言い訳 時代背景が違えば、心に染みる卒業ソングも違う。1970年代の代表ソングといえば『なごり雪』。もともとはフォークグループ「かぐや姫」の楽曲だったが、1975年に「イルカ」がカバーして大ヒットした。この頃から大学進学率が上がり、卒業ソングは大学の思い出にもなった。『なごり雪』は、卒業後に故郷に帰る仲間や恋人たちの姿を切り取っている。音楽評論家で尚美学園大学副学長の富澤一誠氏(68)も思い入れのある曲として『なごり雪』をあげる。「曲の背景には70年安保闘争、学生運動の名残があります。男性を支えてくれていた女性が田舎に帰っていく。女性は成長していて男性のもとを去っていくのに、男性は変わらず、東京に残る。人生や恋愛の敗北感やこれからどう生きていくのかといった悩みをテーマにしたからこそ、共感を得たのだと思う」 この1975年は卒業ソングの当たり年。同年、当時21歳の荒井由実(松任谷由実)は、作詞作曲した『卒業写真』と『「いちご白書」をもう一度』をハイ・ファイ・セット、バンバンに提供。いずれも卒業ソングの名曲として歌い継がれている。エコノミストの森永卓郎氏(62)は、当時高校3年生だった。「ユーミンは好きでデビューアルバムから持っていたけど、『卒業写真』は下駄を履いたバンカラ学生だった僕には別世界で、おしゃれな映画を見ている感じでした。対して『「いちご白書」をもう一度』は歌詞に共感した。 僕は中学のときに学生運動に強い影響を受けていたので、バリケードを作ったり長髪でギター弾きながら吉田拓郎を歌う少年だった。高校に入って長髪を切って、『森永はノンポリに転向した』って友達に言われたんです。ユーミンの歌詞はそういう心境の変化を表わしていた」◆道に迷っているばかり 学生運動の熱が冷めると、「どう生きていくか」という悩みが若者の間に広がっていく。森田公一とトップギャランの『青春時代』(1976年)の阿久悠の歌詞は若者たちの心をわしづかみにし、「今でも同窓会のシメは肩を組んでこの歌を大合唱」(63・自営業)だという。 その後登場したのが、本誌・週刊ポストの読者1000人アンケート(表参照)でも1位となった『贈る言葉』(1979年)だ。大ヒットドラマ『3年B組金八先生』で主役を演じ、フォークグループ「海援隊」のボーカルでこのテーマ曲の作詞も担当した武田鉄矢氏(70)が振り返る。「最終回は卒業式ということは分かっていたから、『青春の一人旅の第一歩を踏み出した』というニュアンスを歌詞に組み入れたいと思った。辛いことに向かって踏み出す『寂しい一歩目』こそが『青春』だと思ったんです。 それから当時はフォークソングが下火になって、『ニューミュージック』というジャンルが台頭していた。『ニューミュージック』は歌詞に『優しい』という言葉が出てきて、キャッチコピーのように使っていたんですが、それに対して僕はものすごく腹が立っていて。『贈る言葉』の歌詞には、“優しさだけで人間は決まらんぞ!”みたいな、意地や恨みがこめられています(笑い)」『贈る言葉』のリリース後、武田氏は鹿児島県奄美群島の沖永良部島で、こんな経験をした。「港の近くで島の中学のブラスバンドが『贈る言葉』を演奏していたんです。僕たちを歓迎するために演奏しているのかと思ったら、みんなこっちに背を向けて、鹿児島の本島に向かう船に向かって演奏している。 島の中学校に赴任していた女の先生が転勤になって、鹿児島に船で帰るのを、教え子たちが『贈る言葉』で見送っていたんです。演奏している子供たちも、女の先生も泣いていました。その時、“歌というのは作り手から離れて、時代を超えていろんなところを旅していくんだなぁ”と思いました」◆あと何度自分自身卒業すれば 1980年代は柏原芳恵の『春なのに』(1983年)、斉藤由貴の『卒業』(1985年)、菊池桃子の『卒業』(1985年)など、アイドルが歌う卒業ソングがヒットする一方で、長渕剛の『乾杯』(1980年)、尾崎豊の『卒業』(1985年)など、硬派な卒業ソングも誕生した。「80年代になると、70年代の敗北感や迷いがなくなっていきます。長渕の『乾杯』にも“俺たちは頑張るんだ”という前向きな空気が流れている。尾崎の『卒業』も同様で、卒業後の自分探しがテーマになっている」(富澤氏) 学生たちがカラオケボックスで歌えるようになったのもこの時代。「尾崎ファン」を公言するお笑いコンビ・テツandトモのトモ(49)はこう話す。「高校時代の親友と今後の人生について語り合った後、カラオケで肩を組みながら『卒業』を熱唱しました。尾崎豊さんの魂のこもった歌声、語りかけるように始まってラストで畳みかけるメロディーラインに惹かれました。実は、コントのネタになっている『なんでだろぉ~』の最後の『お~』の歌い方は、尾崎豊さんに影響されています」 2000年代に入ると、森山直太朗の『さくら』(2003年)やいきものがかりの『YELL』(2009年)に代表されるように、未来の自分へエールを送る卒業ソングが人気を博す。「70年代までの『卒業は別れ』というイメージから、『卒業は新しい出会いの始まり』というイメージに変わり、自分を鼓舞するメッセージが聞き手に響くようになったのでしょう」(富澤氏) さらに卒業式で歌われる定番曲にも変化が起きる。『旅立ちの日に』(1991年)が多くの学校で歌われるようになった。それまでスタンダードだった『仰げば尊し』『蛍の光』が恩師との別れや勉学に励んだ日々を惜しむのに対し、この楽曲は卒業を前向きな別れだと捉えている。作曲者で県立秩父特別支援学校教諭の高橋(旧姓・坂本)浩美氏が、曲ができた経緯を語る。「(秩父)市立影森中学校時代に、校長先生からいただいた歌詞を見た瞬間にイメージが広がって、すぐ曲を作りたいという気持ちが沸き上がりました。音楽室に駆け上がり、ピアノに向かって15分で出来上がりました」 卒業式はなくとも、こうした名曲を胸に刻み、「旅立ちの日」を、迎えてほしい。※週刊ポスト2020年3月20日号
2020.03.11 11:00
週刊ポスト
1986年、コンサートで熱唱する柏原芳恵さんと皇太子さま(当時。写真:時事通信フォト)
天皇陛下もファンを公言していた「柏原芳恵」の功績
 元号が平成から令和に移り変わり、新しい天皇陛下が即位されたことで、ある芸能人に注目が集まっている。1980年にデビューし、『春なのに』などのヒット曲で知られる柏原芳恵(53)だ。20代の頃の天皇陛下(当時の浩宮親王)は、柏原のファンを公言。1986年10月19日、新宿厚生年金会館で開かれたデビュー7周年リサイタルには、『プリンセス・サヤコ』というピンクの薔薇を東宮御所の庭から一輪切り取って持参し、プレゼントした。 柏原といえば、中学2年生だった1979年10月、『スター誕生!』(日本テレビ系)決戦大会で最優秀賞を獲得。翌年6月1日、『スタ誕』の審査員である阿久悠氏の作詞、都倉俊一氏の作曲というゴールデンコンビの作品『No.1』でデビューを果たす(当初は『柏原よしえ』名義)。芸能研究家の岡野誠氏が話す。「1980年の新人は粒ぞろいで、日本レコード大賞の新人賞には田原俊彦、松田聖子、河合奈保子、松村和子、岩崎良美が選ばれ、柏原は選考から漏れました。山口百恵が引退し、アイドル新時代の幕開けの中、最初から順風満帆というわけではありませんでした」 デビュー2年目の1981年、『ハロー・グッバイ』で初のオリコンベスト10入りを果たす。当時の人気音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS系)では12月3日に7位で初めてランクイン。翌1982年1月28日まで8週連続で名を連ね、最高位4位に。同曲は、アグネス・チャンの『ハロー・グッドバイ』のカバー曲であることも話題になった。『ハロー・グッバイ』のヒットもあり、1981年の日本レコード大賞では同期デビューの田原俊彦、松田聖子、河合奈保子と共に、『ゴールデン・アイドル賞』を獲得。前年、新人賞にノミネートされなかった悔しさ晴らした。 岡野氏が、著書『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)でも紐解いた『ザ・ベストテン』の詳細データを元に語る。「柏原芳恵の通算ランクイン数は56で、ゴダイゴと並んで歴代28位タイです。1982年は『ハロー・グッバイ』『花梨』などで17回、1983年は『春なのに』などで18回を記録し、年間ランクイン数では2年連続8位に輝いています」『ザ・ベストテン』にランクインした歌手は263組。この中に名を連ねるだけでも大変なことだが、柏原にはもう1つ特筆すべき事柄があるという。「“5年連続ランクイン”は沢田研二、郷ひろみ、吉川晃司、安全地帯、少年隊と並ぶ記録です。番組は1978年から始まり、柏原は1980年デビューのために有利な面はありますが、立派です。番組史上、5年連続以上は15人だけです」 同期デビューの松田聖子、“花の82年組”である中森明菜や小泉今日子が圧倒的な人気を誇ったため、陰に隠れがちな柏原芳恵だが、今もディナーショーなどで往年のヒット曲や最新曲を披露。根強い人気を誇っている。やはり時代を代表するアイドルの一人と言っていいだろう。
2019.05.06 16:00
NEWSポストセブン
(時事通信社)
皇太子さまのお人柄、学食カレーや“エレベーターボーイ”
 日本中が待ち望んだ4月1日の新元号発表。菅義偉官房長官(70才)が掲げた「令和」の2文字に、国民は釘付けとなった。「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められている。夢や希望に向かって活躍する時代であってほしい」 安倍晋三首相(64才)の言葉に、いよいよ新しい時代が始まるという期待を持った人も多いはずだ。 そんな新元号を国民よりもわずかに先に知られたのが、5月1日に新天皇に即位される徳仁皇太子殿下だった。菅官房長官の発表直前に「令和」を伝えられた皇太子さまは、にこやかな表情を浮かべて「わかりました」とお答えになられたと報じられている。 天皇陛下の退位まで残り十数日と迫った。新たな時代の「象徴」となる新天皇は、いったいどんな人物なのだろうか。笑顔を絶やされない皇太子さまのお顔はよく拝見するが、その素顔はあまり知られていない。さまざまな関係者たちの秘蔵エピソードから、皇太子さまのお人柄が浮かび上がってきた。◆「皇室に新しい血が入ったのだ」と担当医を驚かせた幼児期《あづかれる宝にも似てあるときは吾子ながらかひな畏れつつ抱く》 皇太子さまは1960年2月23日にお生まれになった。自ら産んだ子でありながら、将来の天皇になることが約束されたわが子を抱かれる緊張感を、当時皇太子妃であった美智子さまはそう和歌に詠まれている。 その一方で、「自分のお乳で育てたい」と、平安時代から皇室に続いていた「乳人(めのと)制度」をやめられ、ご自身で授乳されたことは驚きを持って大々的に報道された。 すくすくと育った皇太子さまは、生後6か月で離乳期を迎える。それまでの皇族方は、みな一様に離乳が難しいといわれてきたが、小さなスプーンにのせられたすりおろしのトマトを侍医長が口に運ぶと、皇太子さまは何のためらいもなくのみ込まれた。 担当医であった佐藤久東宮侍医長は大変に驚き、「皇室に新しい血が入ったのだ」と感じたという。 その翌月、公務で長期間の訪米をすることになった美智子さまは、「人によってバラバラなしつけではいけない」という考えから、自分が不在のときでも、一貫した子育てが実践できるよう、子育て方法を記したノートを侍従や看護師に残された。 浩宮徳仁親王の「徳」の一字から「ナルちゃん憲法」と名づけられたこの子育てノートは、世の母親の育児バイブルとして大反響を呼んだ。それまでの皇室には見られない家庭的で厳しい教育により、幼少時から皇太子さまは「公の精神」を育まれる。 美智子さまの教育方針の1つに、「一度決めたことは最後までやり抜く」というお考えがあった。皇太子さまが4才10か月を迎えた頃、天皇陛下が演奏されるチェロの音色を聞いた皇太子さまが、「同じようにチェロを弾きたい」とおねだりをなさったことがあったという。 しかし、まだ体の小さい皇太子さまにはチェロは難しいと判断された陛下が、バイオリンを勧められた。練習へ通う皇太子さまだったが、なかなか思い通りにいかず、何度も投げ出しそうになると、稽古には美智子さまが付き添われ、その姿を見守られたという。 何事も最初から思い通りにはいかない、楽しめるようになるまでには苦しい時間を乗り越える必要があるということを、幼い皇太子さまはバイオリンの練習を通して学ばれたそうだ。 近年も、学習院OBによる定期演奏会に毎回のように出演されている皇太子さまだが、かつてのバイオリンではなくビオラを演奏されている。父の背中を追い、オーケストラの中でも「縁の下の力持ち」と呼ばれるビオラを優雅に演奏される皇太子さまの姿には、美智子さまも頼もしさを感じられていることだろう。 さらに、皇太子さまが学習院初等科の頃、東宮御所に招かれた友人とのこんなやり取りから優しいお人柄がうかがえる。 庭で遊んでいた友人が水たまりでびしょ濡れになったので、御所で着替えをさせたのだが、迎えに来たその友人の母親に、『みんなと遊んでいて落ちてしまったんです。そんなことしなければよかったのに、ごめんなさい』と皇太子さまが自ら謝られた。帝王教育を受けられているとはいえ、なかなか小学校低学年の児童ができることではない。 無私で紳士的な振る舞いは、学習院大学文学部に進まれてからも目撃されている。大学の同窓だった女性は、「学食でのお姿をよく覚えています」と振り返る。「殿下がよく召し上がっていらっしゃったのはカレーライスです。当時の学習院の食堂では、食べ終わった食器をシャワーで洗って返却する仕組みでした。シャワーと言っても、パイプに穴が開いた程度のもので、水圧も弱く、ほとんどの学生はササッと濡らす程度でしたが、殿下は丁寧に汚れを落とすまで返却されませんでした。 多くの学生とエレベーターで乗り合わせた際も、殿下がボタンを押して『どうぞお先に』と他の人を優先される。まるで“エレベーターボーイ”のようなことを自然にされていました。キャンパスで見かける殿下の、つねに上品でジェントルマンな姿は強く印象に残っています」 学生時代の皇太子さまはカラオケに興じることもあり、佳山明生の『氷雨』が十八番だった。ご学友に、ご自身が“ファン”の柏原芳恵の曲を「歌ってほしい」とリクエストされることもあったという。※女性セブン2019年4月25日号
2019.04.11 11:00
女性セブン
話題沸騰『テレ東音楽祭』は何が凄かったのか?
話題沸騰『テレ東音楽祭』は何が凄かったのか?
 後藤真希などが集結したモーニング娘。OG、今年限りでのグループ脱退とジャニーズ事務所退社を発表した渋谷すばるの所属する関ジャニ∞がヒットメドレーを披露し、TRFやT-BOLAN、AKB48、乃木坂46、倖田來未など豪華アーティストが出演した6月27日放送の『テレ東音楽祭』(テレビ東京系)は視聴率8.8%(ビデオリサーチ調べ、関東地区。以下同)を獲得。昨年の8.4%(ともに19時以降)を上回り、ほぼ同時間帯のTBS『新どうぶつ奇想天外』3時間スペシャルの7.3%、『林修のニッポンドリル』4時間スペシャルの8.5%も上回る数字を残した。ネット上でも番組開始直後から同番組に関するツイートが急増するなど、大きな反響を呼んでいた。 視聴率研究家で、著書『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)の中でジャニーズ事務所の歴史や『ザ・ベストテン』(TBS系)などの音楽番組についても詳細に言及している岡野誠氏は、今回の『テレ東音楽祭』についてこう分析する。「“事実から逃げない姿勢”と“細部にこだわる演出”が、視聴者の心を掴んだと思います。まず、番組の1曲目にSMAPの『俺たちに明日はある』を選択したところに、意気込みを感じました」(以下「」内、岡野氏) ジャニーズ事務所のTOKIO国分太一が司会を務め、V6やKinKi Kids、KAT-TUN、関ジャニ∞、Hey! Say! JUMP、A.B.C-Z、ジャニーズWEST、King & Princeという8組のジャニーズグループが出演。その中で、1曲目となる「ジャニーズ名曲SPメドレー」では、A.B.C-Zが一昨年に解散したSMAPの『俺たちに明日はある』を歌唱。その後も、事務所を退所したメンバーのいる光GENJIや男闘呼組、SMAP、そして田原俊彦の懐かし映像も流れた。 そして、国分や城島茂、V6などのデビュー前、松田聖子や中森明菜、河合奈保子、柏原芳恵などの女性アイドル、さらにはTRF・SAMのアイドルグループ『Riff Raff』時代のダンスシーンも放送。『お宝秘蔵映像』の触れ込みに偽りはなかったと言えるだろう。「日本テレビやTBS、フジテレビの音楽特番は昔からありますし、他の番組も含めて、同じ『秘蔵映像』を何回もオンエアしている場合もある。そのため、リアルタイムではない世代でも、何度も見たことのある映像になるという不思議な現象が起こっています。『テレ東音楽祭』は2014年から始まった上に、テレ東は他の番組でもあまり過去映像を特集しない。だから、本当の意味での『お宝秘蔵映像』になのでしょう。特に、今回特集された1980年代や90年代のアイドルはデビュー間もない頃に必ずと言っていいほどテレ東に出ていますからね」 近年地上波テレビへの出演がない酒井法子のデビュー1年目の貴重なVTRも放送。当時のまま使用したため、〈ナレーション・田代まさし〉というテロップとともにマーシーの声が流れ、ネットは騒然となった。「過去の映像を流す場合、他局だとほとんど当時のテロップを消します。しかし、『テレ東音楽祭』は最小限に留め、かなりの部分は歌詞も含めて当時のままオンエアした。当時の映像は当時のまま見たいという視聴者の欲求に答えたと言えるでしょう。 別に〈ナレーション・田代まさし〉というテロップを消しても、酒井法子の映像を使わなくても、番組は成立する。でも、視聴者は細部を見て“勝負しているかどうか”を判断している」 他にも、可能な限り当時を再現する制作姿勢が垣間見えたという。「デビュー前のシブがき隊がイモ欽トリオの『ハイスクールララバイ』を歌っている場面を流す時、『シブがき隊』ではなく『シブがきトリオ』と当時の表記で伝えていた。こういう細部にこだわると、『この番組はわかっている!』とファンは納得する。 また、〈平成元年~30年「スーパーヒット曲」一挙公開!〉と題して、平成30年間のヒット曲をVTRで振り返る企画がありました。1990年から2005年までのヒット曲には売り上げ枚数を表示していましたが、2006年からは出さなくなった。その前にナレーションで『CDが売れなくなって、ダウンロード時代に突入。2006年からご覧下さい』と伝えている。こういう細かい配慮は、視聴者に『逃げてない』という印象を与えます」 新聞のテレビ欄には、〈松田聖子 中森明菜 SMAP 中山美穂 福山雅治 森高千里 少年隊 光GENJI Xジャパン 安全地帯 荻野目洋子 酒井法子 GLAY 浜崎あゆみ〉という歌手名の表記が上段に並んだ。「これも秀逸でした。テレビ欄の並びを見ただけで、視聴者はワクワクする。彼らは生歌唱したのではなく、過去VTRがオンエアされただけですが、実際に番組には出てくる。これは嘘をついているわけではない。細部にこだわった絶妙な並べ方です」『テレ東音楽祭』が大きな話題を呼んだ背景には、こうした制作陣の細やかな配慮を視聴者が感じ取ったからなのかもしれない。
2018.06.29 07:00
NEWSポストセブン
柏原芳恵「先日、40年ぶりに自販機でジュース買ったんです」
柏原芳恵「先日、40年ぶりに自販機でジュース買ったんです」
 ファンに愛され続けるトップアイドル・柏原芳恵は、1980年にデビュー後、1983年、1985年に『NHK紅白歌合戦』に出場。1986年には浩宮さま(現・皇太子)がコンサートに訪れるなど、1980年代のアイドル黄金時代を第一線で駆け抜けた。1980年代後半に入ると、歌手としてだけでなく、女優やグラビアなど、活動の幅を広げてゆく。本人がこう語った。「グラビア撮影の時はカメラの向こう側にいるみなさんをイメージしながら、メッセージを込めています。でも肌の露出が多い撮影はやっぱり恥ずかしくて、現場ではカメラマンとふたりきりにしてもらったり、セルフで撮ったりしています」 芸能界であらゆる経験を重ねてきた柏原だが、日常生活では知らないことが多いようで……。「先日、ほぼ40年ぶりに自動販売機でジュースを買ったんです。スタジオから出た時にふと見かけて、何か飲みたいなと思ったんですね。スタッフから500円玉を渡されると思わず“これって入るの?”と聞いてしまいました。それからボタンを押してジュースが出てきたのに、お釣りが出てこない。その場から立ち去ることができずにずっと待っていると、異変に気づいたスタッフに、自動販売機の進化について解説されました(笑い)」 そんなお茶目な柏原が最も大事にしているプライベートのイベントは年に一度、両親を2泊3日の旅行に招待すること。「自分で宿を取り、写真やビデオ撮影もしてアルバムやDVDを作ります。デビューしてからは年に数回しか会えなかったので、その埋め合わせをしている感じです」 アイドルはいつまでも10代の頃のイメージで見られ、かつその期待に応えなければならない。当時と変わらぬ体型をどう維持しているのか。「スポーツクラブに行ってランニングやスカッシュをして、最後にクロールで3000メートルを泳いでいます。この前、女友達と食事した時に思わず“天ぷら食べるのが怖い”と言ってしまって驚かれました(笑い)。たしかにエビは衣を取りますし、ナスは油を吸うから怖いんですよ」 2017年には12年ぶりの写真集を発売。歌手として全国のステージで名曲を届け続けている。 「私のテーマは“夢と微笑み、遊び心”。昔から“仕事”という響きが好きじゃないんです。仕事で真剣に遊び続けたいですね」【プロフィール】かしわばら・よしえ/大阪府出身。1980年に歌手デビュー。1981年発売のシングル『ハロー・グッバイ』が大ヒットし、日本レコード大賞ゴールデン・アイドル賞を受賞。1982年には日本レコード大賞金賞を受賞し、1983年、『春なのに』で紅白歌合戦に初出場を果たす。現在も全国のコンサートやディナーショーなどに出演中。昨年、12年ぶりとなる写真集『YOSHIE MODE』(徳間書店)を発売し、変わらぬプロポーションを披露して話題となった。男性ヴォーカリストの名曲をカバーしたアルバム『encore』シリーズの第3弾『encore3 “七変化・響”』が発売中。4月には自ら作詞した曲だけを収録したミニアルバム『芳恵詩集』が発売予定。※週刊ポスト2018年1月26日号
2018.01.19 16:00
週刊ポスト
柏原芳恵、聖子や田原とトラック荷台に乗った過去を回顧
柏原芳恵、聖子や田原とトラック荷台に乗った過去を回顧
 ファンに愛され続けるトップアイドル、柏原芳恵。彼女が、その半生を語った──。デビューのきっかけは1979年、中学2年生の彼女のもとにオーディション番組『スター誕生!!』(日本テレビ系)の予選会を知らせるハガキが届いたことだった。「小学6年生の時に友達と一緒に応募していたのですが、すっかり忘れていて。両親も“どうせ受からないだろうけど記念に受けてみたら?”と言うくらいで、気楽に臨みました」 決戦大会まで勝ち抜いてスカウトされると、毎週末大阪から東京に通い、レッスンに明け暮れた。そして1980年春、デビュー曲『No.1』を渡される。「阿久悠先生の手書きの歌詞をいただきました。毎日、何十回もノートに書いて覚えました。移動中の車でスラスラ言えないと、事務所の社長に怒られるんですよ。スポ根アニメのように鍛えられましたね(笑い)」 全国をキャンペーンで回ると、日テレのワイドショーで毎日のように取り上げてくれた。だが、松田聖子や河合奈保子、田原俊彦などアイドル新時代の幕開けを飾るライバルたちの壁は厚く、音楽祭の新人賞からは軒並み漏れてしまう。「私より周りのほうが心配してくれたと思う。2年目までにヒット曲を出さないとダメ、という空気を感じていました」 そんな時、『ハロー・グッバイ』という曲に巡り合う。1981年12月3日『ザ・ベストテン』(TBS系)に初めてランクイン。売り上げ38万枚を記録し飛躍の曲となった。「『ベストテン』ではコンサート終了後、新横浜駅の新幹線のホームで、仕事帰りのサラリーマンに“お疲れ様でした”とおしぼりを配りながら歌ったこともありましたね。当時は移動も大変でした。周りに気づかれないために車のトランクに入ったり、年末の音楽祭などで他の出演者との共演番組が重なってくると、聖子さんやトシちゃんたちと一緒にトラックの荷台に乗り込んだりしました」 1983年1月発売の『春なのに』では、作詞・作曲の中島みゆきが歌唱法を授けてくれた。「それまで私は、悲しい歌なら最初から最後まで悲しそうに歌っていた。でも、“すべての歌詞が悲しいわけではない”と教えてくれたんです。“春”は楽しい、“別れ”は悲しいというように、抑揚をつけるようになりました」【プロフィール】かしわばら・よしえ/大阪府出身。1980年に歌手デビュー。1981年発売のシングル『ハロー・グッバイ』が大ヒットし、日本レコード大賞ゴールデン・アイドル賞を受賞。1982年には日本レコード大賞金賞を受賞し、1983年、『春なのに』で紅白歌合戦に初出場を果たす。現在も全国のコンサートやディナーショーなどに出演中。昨年、12年ぶりとなる写真集『YOSHIE MODE』(徳間書店)を発売し、変わらぬプロポーションを披露して話題となった。男性ヴォーカリストの名曲をカバーしたアルバム『encore』シリーズの第3弾『encore3 “七変化・響”』が発売中。4月には自ら作詞した曲だけを収録したミニアルバム『芳恵詩集』が発売予定。撮影■荒木英仁※週刊ポスト2018年1月26日号
2018.01.18 07:00
週刊ポスト
おりも政夫も唖然! 芸能人水泳大会での松本伊代の驚愕行動
おりも政夫も唖然! 芸能人水泳大会での松本伊代の驚愕行動
 人気の芸能人が多数出演する「水泳大会」が放送されたのは1970年8月11日、『紅白スター対抗水泳大会』(フジテレビ系)が最初だった。司会はてんぷくトリオ、出場者はクール・ファイブ、中尾ミエ、ヒデとロザンナ、美川憲一、千昌夫などの人気歌手。その後、各局がこぞって放送を開始するようになる。 フォーリーブス時代は選手として参加し、1980年代は司会を務めた、おりも政夫が振り返る。「当時、運動会や野球大会など芸能人が出場するスポーツ番組がたくさんあり、その一環として生まれました。五木ひろしさんや八代亜紀さんなどの演歌歌手も水着になっていましたよ」 当初は年齢やジャンルを問わず人気歌手が出場していたが、1971年デビューの南沙織や中3トリオと呼ばれた山口百恵、桜田淳子、森昌子などのアイドル歌手が人気を集めるようになると、水泳大会でも必然的に彼女たちが中心になっていった。『アイドル進化論』の著者である社会学者の太田省一氏が話す。「水着で動くアイドルの姿は本当に貴重でした。今ではイメージビデオで見られますが、1978年の段階でビデオの普及率は1.3%で、ビデオソフト自体もほぼ発売されていませんでしたから。恥ずかしそうな佇まいに色気を感じたものです」 榊原郁恵や河合奈保子、柏原芳恵はグラマラスな体型で、石川秀美は美脚で注目を集めた。「プロポーションの良さに初めて気付くこともあれば、意外と運動神経がいいとわかることもありました。歌番組では決して見られないアイドルの一面を知ることができたんです」(太田氏) 1981年、石野真子は「女子平泳ぎ決勝」で他の5人が水中からスタートする中、1人だけ思い切りよく飛び込む。しかも平泳ぎではなく、顔を出したままの横泳ぎで、1位でゴールイン。優勝後のインタビューでは「ああ苦しかった。今まで飛び込んだことないんです」と告白。苦手な水泳にも一生懸命取り組む姿にファンは感動した。 一方、松本伊代は驚愕の行動に出た。おりもが振り返る。「ピストルが鳴ったと同時に水中で歩き始めたんですよ。思わず、“なぜ歩いているんだ! それでも競泳か!”と実況してしまいました。何秒も経過しているのに、まだ3メートルくらいしか進んでいなかった(笑い)」 アイドルの個性や色気がぶつかり合うと同時に、芸能ニュースも提供していた。1983年夏には「お見合い障害物レース」という競技で、郷ひろみが松田聖子を抱きかかえながら水上を走るシーンもあった。「スタッフが、意図的に噂のふたりをペアにしていたようです。話題を提供することで雑誌にも大きく取り上げられるし、視聴者も喜んでくれました」(おりも) 放送当日発売の女性週刊誌2誌は、巻頭グラビアで“いま、噂のふたり”“抱っこしてもらえたネ”という見出しを打ち、応援席でも郷の横に座って腕を絡める聖子の姿などを掲載した。●おりも・まさお/1953年7月4生まれ。東京都出身。8月16日まで大阪・新歌舞伎座で上演中の舞台『コロッケ特別公演』に出演中。※週刊ポスト2017年8月18・25日号
2017.08.13 07:00
週刊ポスト
河合奈保子 過去映像が復刻発売されやすい秘密は?
河合奈保子 過去映像が復刻発売されやすい秘密は?
 引退や休業を宣言しても、人気の衰えない芸能人がいる。松田聖子や柏原芳恵と同じく1980年にデビューした河合奈保子もその1人だろう。休業してから今年で20年が経つにもかかわらず、昨年はDVD『河合奈保子ライブ・ベスト~けんかをやめて~』、写真集『再会の夏』を出版。今年も、8月30日に『河合奈保子 プレミアムコレクション~NHK紅白歌合戦&レッツゴーヤング etc.~』が発売される予定となっている。芸能関係者が話す。「タレントがデビューから引退まで同じ事務所だと、過去のものをまとめたDVDや写真集が出しやすい傾向があるようです。あとは事務所が肖像権に対して寛容かどうか。基本的に、版権はその当時在籍していた事務所が所有しているので、プロダクション判断になります。だからといって、全く本人に連絡すらもしないケースはあまり考えられないですが、事務所を辞める際の契約でタレントが完全に版権を放棄していれば、過去映像は事務所が好きなように使えるはずです」 河合奈保子の場合、デビューから休業まで芸映プロダクションに籍を置いており、DVDや写真集の発売が、スムーズに行われているのではないか、と推測されている。芸能担当記者が語る。「実際、雑誌で特集しても河合奈保子の人気はいまだに高い。ファンが大人になり、当時買えなかったグラビア写真集などを今あらためて手に入れているのではないでしょうか。1980年代前半はビデオデッキもほとんど普及していなかったので、今回DVD化された『紅白歌合戦』や『レッツゴーヤング』(ともにNHK)の映像もかなり貴重なもののはずです」 実際、山口百恵や中森明菜などの『ザ・ベストテン』(TBS系)『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)の歌唱シーンをまとめたDVDは定価2万円以上する高価格にもかかわらず、人気シリーズとなっている。ファンが大人になり、当時の映像を感慨深く眺めているのだろう。「もっとも、共演している他の歌手や司会者が版権に厳しい事務所だと、そのタレントの部分が切り取られたり、隠されたりして不自然な映像になっている。実に惜しいことです。たしかにスターの映像は事務所や本人に版権があるかもしれませんが、ファンとしては少しでも権利関係が緩やかになってもらえるとうれしいでしょうね」(同前)
2017.08.02 07:00
NEWSポストセブン
暴露本収集家・吉田豪氏が選ぶ「不動の2トップ」の中身
暴露本収集家・吉田豪氏が選ぶ「不動の2トップ」の中身
 数多くの暴露本を読んできたプロインタビュアーの吉田豪氏。タレント本収集家として、本棚には幅広い年代の“名著”が並んでいる。その吉田氏が「不動の2トップ」と推す2冊のタレント暴露本について聞いた。 * * * 1冊は1970年代から1980年代にかけてタレントや指揮者として活躍した、ダン池田さんの『芸能界本日モ反省ノ色ナシ』(1985年・はまの出版刊)です。 暴露本には“目的”があるものですが、この本は、「指揮者の自分をぞんざいに扱ったプロデューサーへの復讐」という、個人的な理由だけで出したもの。どうしようもないことしか書かれていないんだけど、邪気がなくて面白いんです。 例えば、スタジオで柏原芳恵さんに会った感想で〈彼女きっと生理だったのかもしれない。歌聞けばすぐわかる〉とか(笑)。ほかにも、テレビの偉い奴はたいてい歌手志望の女を食っているとか、アイドルなんて品行方正でもなんでもなくてヤリまくっている──なんて憤っているわりには、自分もアイドル志望のコとヤッちゃう描写があったり。お前も一緒じゃん! っていう(笑)。 暴露本を出したことで芸能界から干されてしまいましたが、本人はカラッとしていましたよ。 もう一冊が、長門裕之さんの『洋子へ 長門裕之の愛の落書集』(1985年・データハウス刊)です。 自分の女性遍歴を赤裸々に語り、芸能界の仲間を実名で斬ったもので、帯には〈芸能界のエンマ帖〉と書かれていた。冒頭から、若かりし頃に交際していた女優の扇千景さんとのセックス描写から入るのですが、〈ぼくは彼女のなかで激情した〉 と、独特な射精表現で(笑)。しかも、その後のピロートークで〈私、結婚するの。だから、あなたとのことは、これっきりにしてほしいの〉と、振られてしまうという(笑)。 あまりに反発が強かったため、釈明会見を開き、改訂版が出されるのですが、その修正もいい加減で。扇さんとのセックス描写が、夢オチになってたり、〈愛川欽也 ダメ男の典型〉という文言が、〈愛川欽也 憎めないダメ男〉になってたり。 あとで本人に聞いたのですが、本を出すことが決まって、酒を飲みながら書籍のスタッフと無駄話をしていたら、その話のみを原稿にされたそうです。原稿チェックも間に合わない段階で見せられて、「しょうがないな」と出しちゃったら大問題になった(笑)。本人は「あのときは本当に参ったけど、振り込まれた印税がかなりの額で、これならいいかと思った」と笑ってました(笑)。 後日談も含めて、長門さんの本が「大賞」です!※週刊ポスト2017年3月24・31日号
2017.03.23 07:00
週刊ポスト

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