水着になることを躊躇する堀江に野田氏はこう説得した。
「お前は海に行く時に何を着る? 水着だろ。どんな水着だ? セパレートか。じゃあ、海に行ってビキニでやろう」
当時、まだビキニが少なかった漫画雑誌のグラビアで、堀江の「巨乳ビキニ」は目を引いた。さらに男性誌、青年漫画誌の創刊ラッシュも堀江の人気を後押しした。次に野田氏が仕掛けたのが、雑誌のアンケートである。
「編集部に営業に行った時に必ず言われるんですよ、『いやぁ、返りがね』って。つまり、読者アンケートの結果がよくないってこと。そこで、かつてアルバイトしていた取次会社に頼み込み、返品雑誌の山からアンケートハガキだけ集めて、全部『堀江しのぶ』って書いたんです(笑い)。200枚くらい送ったのかな」
そんな努力が実を結び、堀江は『毎度おさわがせします』(TBS系)や『真田太平記』(NHK)などのドラマに出演。ついに自動車関連企業のCMにも起用された。
その頃、堀江の仕事を詰め込めるだけ詰め込んだため、業界で「トリプル(ブッキングの)野田」と呼ばれたほどだった。
「ある日、次の仕事への移動時間がほとんどない状態になってしまったので、TBSの緑山スタジオから次のイベントがある名古屋まで、ヘリをチャーターして移動したんです。イベントのギャラが50万円で、チャーター代も50万円でしたね(笑い)」
順風満帆だったのも束の間、人気の絶頂を極めた1988年3月、堀江を病魔が襲った。医師は野田氏に胃がんの病名と余命2か月を告げた。23歳の誕生日を迎えてから1か月も経たない9月13日、堀江は短い人生を終えた。野田氏に囁いた最期の言葉は「社長、私、仕事がしたい」だった。
撮影■山崎力夫
※週刊ポスト2016年12月9日号