朝丘雪路一覧

【朝丘雪路】に関するニュースを集めたページです。

6月はジューンブライド 昭和、平成、令和のビッグカップルの結婚式
6月はジューンブライド 昭和、平成、令和のビッグカップルの結婚式
 6月に入り、ジューンブライドを逃すまいと結婚式を挙げるかたも多いのではないでしょうか。過去を振り返ってみると芸能界でも豪華絢爛で盛大な結婚式が開かれてきました。『女性セブン』が過去におさめてきた歴史に残る結婚式の数々を懐かしみながら、幸せを分けてもらいましょう。●神田正輝(71) 松田聖子(60)1985年 郷ひろみと婚約寸前で破局となった彼女が選んだのは11才年上の共演俳優。郷との破局から5か月での結婚は、“聖輝の結婚”と騒がれた。●三浦友和(70) 山口百恵(63)1980年「この人の妻と呼ばれることに喜びと誇りを感じます」と潔く引退を決意した百恵さん。“ゴールデンコンビ”と呼ばれたふたりの結婚を日本中が祝福。●故・内田裕也さん(享年79) 故・樹木希林さん(享年75)1973年 当時、悠木千帆の名前で活動していた彼女は、結婚後に改名して「樹木希林」という名前に。ペアルックで臨んだ仏前挙式では手には数珠を提げて臨んだ。●故・朝丘雪路さん(享年82) 故・津川雅彦さん(享年78)1973年 不倫の恋と呼ばれたふたりは、何度も結婚の噂が出るたびに、否定をしてきたが結婚。晩年は、朝丘が2018年に亡くなると、その4か月後に津川も後を追うようにこの世を去った。●吉永小百合(77) 岡田太郎さん 1973年 人気絶頂の吉永が15才年上のフジテレビディレクター(当時)と入籍したことでサユリストの間では騒動に。この結婚に関して彼女の両親は頑なに結婚を認めなかった。●桑田佳祐(66) 原由子(65)1982年 大学時代からの音楽仲間とプロになりそのまま結婚。ファン2000人を招待するという異例の式となり、会場は関係者を含めて2300人でごったがえした。●布袋寅泰(60) 今井美樹(59)1999年 ハワイで挙式後、東京・青山のウエディング会場で披露宴。「これからもよろしく!と笑顔で申し上げる次第でございます」とコメント。●五木ひろし(74) 和由布子(63)1989年 昭和天皇のご病気で延期したが、7か月後無事に挙式。着物モデルの仕事で知り合い、7年後の再会で恋に落ちた。●小室哲哉(63) KEIKO(49)2002年 招待客は700人、ウエディングケーキは2m、総額5億円のド派手式は小室にとっては再々婚。テレビ中継され、視聴率は15.5%を記録した。●郷ひろみ(66) 大根田名美さん 2000年「23時間55分は郷ひろみだけど、5分間は原武裕美」、「原武裕美は結婚しても、郷ひろみは結婚しない」との名言を残し、ニューヨークのアルマーニブティックの店員だった彼女と結婚。●小栗旬(39) 山田優(37)2012年 ドラマの共演をきっかけに急接近したふたり、結婚報告会見で山田が、何卒を“なにそつ”と読み間違えたことが話題となった。そして、今年結婚10周年を迎えた。●リン・チーリン(47) EXILE AKIRA(40)2019年 台湾の国民的女優との結婚は、現地では“格差婚”として報道された。彼女は、今年1月31日47才で第1子を出産し、ママの顔も持つこととなった。●DAIGO(44) 北川景子(35)2016年 北川が“1”が好きという理由で1月11日11時11分に入籍。結婚発表会見ではプロポーズの言葉について「“KSK”。(K=)結婚(S=)して(K=)ください」とDAI語だったことが明かされた。●杏(36) 東出昌大(34)2015年 NHKの連続テレビ小説『ごちそうさん』での共演をきっかけに結婚したが、東出の“匂わせ不倫”が発覚し離婚。代償の大きすぎる不倫として話題となった。●ソン・イェジン(40) ヒョンビン(39)2022年 大ヒットドラマ『愛の不時着』で恋人役を演じた後は、何度も交際報道を否定してきたふたりだが、2月に電撃結婚。世界中から祝福の声が寄せられた。●藤原紀香(50) 片岡愛之助(50)2016年 世界遺産の京都・上賀茂神社で挙式。出会いのきっかけは、藤原が主演していたミュージカルを片岡が見に行ったことから交際に発展した。写真/女性セブン写真部※女性セブン2022年6月16日号
2022.06.04 16:00
女性セブン
津川雅彦さんが過去に語ったことを振り返る(時事通信フォト)
津川雅彦さん プレイボーイとしての使命感と男になれなかった瞬間
 1969年創刊の『週刊ポスト』。当時の名物コーナーが「衝撃の告白」だ。銀幕のスターや渦中の人物が赤裸々に語る同コーナーは、タイトルどおり衝撃的な証言が次々と飛び出し、当時大きな話題となった。1971年4月23日号に名優・津川雅彦が登場。1973年に朝丘雪路と結婚し“おしどり夫婦”として知られた津川だが、当時はまだプレイボーイと見られていた。津川が語った言葉とは……。「プレイボーイといわれるのなら、それらしくふるまわねばならん」 両親、兄が俳優という芸能一家に生まれた津川雅彦は、早稲田大学高等学院在学中の1956年に日活『狂った果実』で一躍スターになった。 サービス精神の強い津川は、石坂浩二と婚約したばかりの浅丘ルリ子との噂について「真相はなんにもありはしない」と語るも、数か月前にドラマで再会した時に「色っぽくなった彼女にモーションをかけないでいるのも、プレイボーイとしては不本意だ」と妙な使命感に駆られたと告白。だが、石坂から嫉妬された彼は方向転換する。「パンツ一枚で女優部屋にとびこんだりして、翌日、石坂氏に、『津川さんは、あまりにもおとなげない』といわれたりしたが、これこそプレイボーイの思うつぼだ」 よくわからない思考に陥っていた津川は懺悔した。「男になりたい、そう願いながら、オレは女のなかで結局は男になれなかった」 2年後の1973年4月26日、津川は朝丘雪路と婚約を発表。2人はおしどり夫婦となり、40代以降に『マノン』『マルサの女』など代表作を生んだ津川は、朝丘との結婚生活で男となった。構成・文/岡野誠【※本特集では現在の常識では不適切な表現が引用文中にありますが、当時の世相を反映する資料として原典のまま引用します】※週刊ポスト2021年8月27日・9月3日号
2021.08.26 16:00
週刊ポスト
グラビア界の巨頭会談 自分の事務所のタレントを守る覚悟
グラビア界の巨頭会談 自分の事務所のタレントを守る覚悟
 1980年代、2つの芸能事務所による快進撃がはじまった。グラビアでタレントの知名度を上げる手法を確立し、多くのグラビアスターを輩出した芸能事務所・イエローキャブとアーティストハウスピラミッド。そのトップであった野田義治氏(74)と森山幸男氏(69)の2人の“ライバル”が初めてメディアで語り合った。ノンフィクション作家・本橋信宏氏による司会のもと、グラビア全盛期に繰り広げられた熱き戦いが甦る。森山:野田さんもそうだと思うんだけど、タレントってね、グラビアで人気が出る瞬間、「あ、これはいくぞ」って感じになる。「来たぞ」っていう感じはすごく嬉しいし気持ちいい。でもね、売れてからは楽しくないんですよ。野田:そう。本当にまさにその通り。──来たぞ、というのは具体的にどんな時ですか?森山:問い合わせが来たりすると、来たぞという感じになりますね。(テーブルに置かれた週刊ポストのグラビアを指して)たとえばの話ね、この白波瀬海来ってうちの子ね、ヤング誌から今日、問い合わせがあったんですよ。嬉しいじゃないですか。久しぶりだったね。◆「そんなことしたらオレ、腹かっ捌くから」森山:僕は野田さんより5歳若い、今69歳ですけど、マネージメントも自分でやってますから。誰から何と言われようと自分で全部。野田:けっこう力技使ってるからね、この人(笑い)。自分で編集部に電話するんだから。──たしかに森山さんから電話がかかってきたり、この2人に乗り込まれたら(笑い)。野田:いや、乗り込みはしないんだけど、電話がおっかない(笑い)。森山:そんなことないですけどね(笑い)。まあ古いけど、義理人情ってあるからね。自分の所のタレントが困った時ね、大事なのは社長が体張るか張らないかですよ。野田さんが言ってたでしょ。「うちのタレントがそんなことしたらオレ、腹かっ捌くから」って。あれ、強烈だよね。マネージャーの鏡だよ。オレなんてイヤだね、痛いから(笑い)。野田:よく言うわ。必ずやるからねこの人(笑い)。森山:やんない、やんない(笑い)。今はもうちょっとスマートにやらないといけない時代だからね。◆ピラミッドの子をよく触ってた森山:昔言ってたじゃない、うちの子のおっぱい触ったりして「水着は下から入れてもっと上に上げるんだ」とか。この本(本橋氏が上梓した野田氏の評伝『新・巨乳バカ一代』)にも書いてあったよ。野田:オレ、(森山さんに)1回怒られなかったっけ?森山:「いじんないでください」って言った(笑い)。野田:オレはね、ピラミッドの子をよく触ったな。それはね、水着の着け方を教えたの。結局、ほら、オレの水着の選び方っていうのは、小っちゃ目を選ぶんです。胸が大きく見えるから。そうすると女の子が癖で全部こうやって(上に持ち上げるポーズ)水着を上に上げるんですよ。そうしちゃうと大きく見えなくなっちゃう。だから着け方を教えたわけ。森山:でもね、野田さんね、大変僭越ですけど、もう1回昔の野田さんに戻ってほしいのよ。巨乳(を売り出すこと)やったら右に出る人いないんだもん。野田:同じ世界で仕事してきて(森山さんと)ぶつからなかったのは、ものの見事にね、女の子の趣味が違うからなの。だから同じことしてるんだけど、バッティングしないのよ。森山:基本的に巨乳は好きですよ。野田:やっぱり、みんなに言われるのよ。「もう1回胸の大きな子、売り出して」って。森山:そう!! まだ若いんですから。【プロフィール】◆のだ・よしはる/1946年生まれ、広島県出身。サンズエンタテインメント会長。上京後、いくつかの職を経て渡辺プロダクションに入社。いしだあゆみや朝丘雪路、夏木マリらを担当。1980年頃イエローキャブを設立し巨乳ブームを巻き起こした。◆もりやま・ゆきお/1951年生まれ、東京都出身。アーティストハウスピラミッド代表取締役社長。大学卒業後、ゆうせん企画に入社。1987年に独立しアーティストハウスピラミッドを設立。鈴木紗理奈や熊田曜子などグラビアから多くのスターを輩出している。●聞き手/本橋信宏(もとはし・のぶひろ):1956年生まれ。ノンフィクション作家。執筆分野はAV、街歩きなど幅広い。昨年、著書『全裸監督 村西とおる伝』(太田出版)を原作としたドラマ『全裸監督』がネットフリックスにて世界配信され、大きな話題に。野田義治氏が手がけた巨乳ビジネスと芸能界の裏側に迫った新刊『新・巨乳バカ一代』(河出書房新社)が発売中。※週刊ポスト2020年7月3日号
2020.06.26 16:00
週刊ポスト
今年1月、突然に亡くなった市原悦子さん
家族が語る市原悦子さんの「兆候」は「背中のこり」と「盲腸」
 今年1月、突然の訃報となったのは、ドラマ『家政婦は見た!』(テレビ朝日系)や、アニメ『まんが日本昔ばなし』(TBS系)のナレーションでおなじみの女優、市原悦子さん(享年82)だ。 市原さんは2014年に最愛の夫・塩見哲さん(享年80)に先立たれてから2年後に、病気との闘いの日々が始まる。 夫を亡くした市原さんの当時の様子を、姪の久保久美さんが振り返る。「叔父ちゃんの火葬の時には、叔母ちゃんは憔悴しきって『私もすぐ行くから』と口にしていました。ショックが大きく、誰かが常にそばにいることを望みました」 樹木希林さんと内田裕也さん夫妻や津川雅彦さんと朝丘雪路さん夫妻など、パートナーの死後、残された者が後を追うように亡くなってしまうケースは最近の芸能界でも目立つ。あいクリニック中沢院長の亀谷学さんはこう解説する。「パートナーが先に亡くなると、残された者は悲嘆に暮れることになります。ストレスが続くと、不眠や高血圧になり、また免疫力も低下するなど、心筋梗塞や脳卒中、重症肺炎などの命にかかわる危険な病気を起こしやすくなるのです」 市原さんの姉妹や親しい人たちが寄り添い続け、市原さんは少しずつ仕事への意欲を取り戻していったという。しかし2016年11月に、ある体の不調を訴えた。「背中がすごくこるの」 これが市原さんの「兆候」だった。マッサージをしてもこりは治らず、急に足の踏ん張りがきかなくなり転倒したため、検査入院すると、「自己免疫性脊髄炎」だと診断された。免疫が自身の神経を攻撃する難病だ。 治療を終え、12月末には退院する予定だったが、脊髄炎の再発で退院は取り止めに。「2回目の発症で更に体は弱りました。それでも2月にはリハビリ施設と病院を行ったり来たりしていましたが、3月になると圧迫骨折も発覚し、体調も安定せず、激しく気落ちするようになりました。一時は『仕事ができないなら、生きていても…』と口にするほどの落ち込みでした」(久美さん)◆楽しく過ごすことを大事にしたが… 入院生活をやめて自宅での看護に切り替えると、市原さんの状態は落ち着き、徐々に持ち前の明るい性格が戻ってきたという。2018年3月には、NHKの番組『おやすみ日本 眠いいね!』内の朗読コーナーで仕事復帰も果たした。「NHKのかたに機材を自宅に運び込んでもらって、部屋着に薄化粧でベッドの上で収録しました。その次からリビングで車いすに座り収録するようになったのですが、いろいろな仮装をして、スタッフの人たちを驚かせて楽しんでいましたね」(久美さん) 市原さんは、「声は出さないと小さくなるから」と考え、歌を歌い、大きな声で笑って、冗談を言い合って日々を楽しく過ごすことを大事にした。だが、同年11月に腹痛を起こし、盲腸と診断されて再び入院することとなる。高齢者の盲腸の脅威について、亀谷さんはこう指摘する。「若い人と違い、高齢者は一般的に腹痛や発熱などの症状が軽く、診察で異常を見つけにくいことがあります。盲腸は発見が遅れると腹膜炎を起こします。その結果、腸は癒着し、便秘などで腸閉塞を起こし入退院を繰り返すようになるのです」 市原さんは高齢になってから、血小板が減少する再生不良性貧血のためステロイドを手放せなくなり、今回の脊髄炎でも多量に使用していた。体はボロボロで、12月の退院後は食事を充分に食べられなくなっていたという。 年が明け2日、微熱が出て、5日には体が思うように動かなくなり再び入院した。「入院時には薬ものめなくなっていたのですが、点滴と食事をとれば少しずつよくなると思っていました。ですが6日には呂律が回らず、8日からは意識が戻らなったんです。長期の闘病で体は限界だったのだと思います」(久美さん) 仕事熱心で、プロ意識が高かった“女優・市原悦子”を支えたのは、「女優をしている時がいちばん輝いているよ」という夫の言葉だったのかもしれない。※女性セブン2019年5月9・16日号
2019.05.02 07:00
女性セブン
津川雅彦さん 仕事も遊びもトコトンやる人だった
津川雅彦さん 仕事も遊びもトコトンやる人だった
 平成最後の年、おしどり夫婦として知られた大女優と名優は、闘病の末に亡くなったあとを追うように4か月違いでこの世を去った。●朝丘雪路(女優、享年82) 1952年に宝塚歌劇団に入団、月組の娘役として活躍。1955年の退団後は女優や司会など活動の場を広げ、1968年から大橋巨泉のアシスタント役を務めた『11PM』(日本テレビ系)ではお色気たっぷりの軽妙なやり取りで絶大な人気に。 晩年はアルツハイマー型認知症を発症、2014年に長女で女優の真由子がプロデュースしたミュージカルに夫・津川雅彦さんとともに出演したのを最後に芸能活動を休止していた。4月27日に死去。●津川雅彦(俳優、享年78) 祖父は映画監督・牧野省三、父は俳優・沢村国太郎で、兄の長門裕之も俳優という芸能一家に生まれ育つ。1956年に『狂った果実』で映画デビューし、一躍人気俳優に。『ミンボーの女』(1992年)など伊丹十三監督の作品に数多く出演する一方、自身もマキノ雅彦名義で映画監督を務める。 2013年に妻・朝丘雪路さんが闘病生活を始めると、献身的な介護を続けていた。妻の死を追うように、8月4日に他界した。 津川さんが東條英機を演じて第22回(1999年) 日本アカデミー賞・優秀主演男優賞を受賞した作品『プライド 運命の瞬間』の伊藤俊也監督が、撮影時の思い出を語った。「津川さんは台本に加筆修正するという噂があったので、1998年公開の映画『プライド 運命の瞬間』での最初の顔合わせの日は喧嘩腰で臨みました。案の定、2時間半にわたって侃々諤々の議論になりましたが、終わった瞬間わかり合えたと感じました。もちろん台本の直しはありません。打ち上げでは京都祇園でお座敷遊びをして、総勢50人分をご馳走してくれました。仕事も遊びもトコトンやる人でした」※週刊ポスト2018年12月21日号
2018.12.18 07:00
週刊ポスト
故・津川雅彦さん 借金が残り、妻との合同お別れ会開けず
故・津川雅彦さん 借金が残り、妻との合同お別れ会開けず
「遅くとも9月中頃までにはご夫婦の“合同お別れ会”の日程が発表される予定でした。ところが、9月下旬になっても発表されないまま。予定どころか実際は、実現のメドすら立っていない状態のようです」(芸能関係者) 大恋愛の末に1973年に結婚し、おしどり夫婦と呼ばれてきた津川雅彦さん(享年78)と朝丘雪路さん(享年82)。 朝丘さんがアルツハイマー型認知症で亡くなったのは今年4月27日で、その時の津川さんの「おれより先に死んでくれてありがとう」のコメントは、多くの人の涙を誘った。それからわずか3か月あまり後の8月4日、妻の後を追うように、津川さんが心不全で他界した。 ふたりの“お別れ会”は合同で行われることになったというが、津川さんが亡くなって2か月近くたった今になっても、予定が決まっていない。いったいどんな事情があるのか。「津川さんは玩具事業で多額の借金を抱え、2008年末に朝丘さん名義の豪邸を売却。朝丘さんの父で美人画で有名な伊東深水画伯の作品も、借金返済のためにほとんど売り払ってしまった。以来、朝丘さんは湾岸地区にあるタワーマンションで暮らし、津川さんは都内の一戸建てに引っ越しました。一戸建てといっても築20年以上のこぢんまりとした賃貸物件で、名優が住むにはあまりにも質素な家です」(別の芸能関係者) それでも事業失敗のツケはまだ払いきれておらず、それがお別れ会が開けない理由の1つになっているという。「借金は最終的に8億円ほどにまで膨らみ、長期に及ぶ返済計画を立てたと聞いています。津川さんの事務所は、返済処理にも頭を悩ませていて、お別れ会に手を付けられていない状況です」(津川さんの知人) さらに長く別居状態が続いていたことも、“合同”でお別れ会を行うことの障害になっている。「朝丘さんが認知症だとわかってからも別居は続き、その面倒はほとんど長女の真由子さん(44才)が見ていました。最期には『おれが面倒を見る』と言って津川さんが看取りましたが、すでに“後のこと”を話し合える状態ではなかった。夫婦で所属する事務所が違うのもネック。お別れ会を仕切っているのは津川さんの事務所ですが、朝丘さんサイドの友人知人がわからず、今になってようやく事務所間で情報を共有しようとしています。スタッフが奔走し“呼ぶ人に漏れがあってはいけない”と、リストを作り始めたそうです」(朝丘さんの知人) 多くの人から愛されたふたりゆえ、お別れ会開催までまだ時間は掛かりそうだ。※女性セブン2018年10月11日号
2018.09.27 16:00
女性セブン
細川ふみえ他、B90超グラドルは“1967年の呪い”晴らしたか
細川ふみえ他、B90超グラドルは“1967年の呪い”晴らしたか
 1967年の呪い──。日本人が“バスト90センチ”を誇れるまでの歴史を語る時、この年の出来事は欠かせない。『巨乳の誕生』(太田出版)の著者である安田理央氏が振り返る。「アメリカのストラスマン博士が『バストサイズと性格および知能の関係』で、『86センチ130、91センチ100、102センチ80』とバストが大きいほど知能指数が下がると発表。日本でも取り上げられ、医師や博士も賛同したことで、この説が一気に広まります。 大橋巨泉が朝丘雪路の胸を『ボイン』と表現したのも同年。また、ファッションモデルのツイッギーが10月に来日し、スレンダーな体型に憧憬を抱く女性が急増し、以降“バスト90センチ”は忌み嫌われるようになります」(以下「」内は安田氏) それ以前、胸の大きさは誇らしいことだった。1950年代後半から1960年代にかけて“グラマー”が流行語となり、1959年にはバスト93センチの児島明子が「ミス・ユニバース」で優勝。渡米前、雑誌の対談で美人の条件の話題になった時に〈ハト胸って最高のものですからね〉と話すなど自らのバストをポジティブに捉えていた。 だが、一度変わった流れは容易には引き戻せない。1970年代、性的な想像を膨らませる大きな胸は、清純さを求められるアイドルたちにとって不必要と考えられた。1972年デビューのアグネス・チャンは男性誌で〈これでも、あたしアーチスト。オッパイやオシリ関係ない。だから全部ノーね〉とスリーサイズの公表を拒絶。1980年にデビューし、温厚で知られる河合奈保子も雑誌で84センチのバストの話になると、〈胸の話はキライッ!!〉とヘソを曲げ、理想を〈80センチくらいですね〉と答えている。「公称サイズはあくまで“見られたい数字”。当時90センチ台のアイドルも存在したかもしれませんが、世の中に受け入れられないと判断したのか、ほとんどが80センチ台を自称しています」 1990年、バスト94センチの細川ふみえがサイズの小さい“眼帯ブラ”と呼ばれるビキニ姿でグラビアに登場。『ザ・ベストテン』など歌番組が相次いで終了した時期とも重なり、女性タレントの新たな売り出し方としてグラビアでの過激な露出が脚光を浴びる。「堀江しのぶや中村京子がブレイクしたように、1980年代にも潜在的な需要はあったが、細川の人気爆発で1990年代に90センチ以上が出現するようになります」 それでも、“ストラスマンの呪縛”は25年経ってもまだ続いていた。細川は1992年に本誌で〈世間の人はいうじゃないですか。胸の大きさと、頭の良さは反比例するって〉と吐露している。「そのイメージを変えたのは、細川や小池栄子、MEGUMIが所属したイエローキャブ軍団です。テレビ番組で頭の回転の良さを見せ、バストと知能指数に相関関係はないと証明した」 2001年にデビューしたバスト103センチを誇る根本はるみは週刊誌で〈芸能界に入って成功する近道は、胸をウリにすることだと思っていたので。「このオッパイしかないだろう!!」って(笑)〉と発言。“胸の大きさは誇れること”という認識がタレント側にも広がり、2000年代には熊田曜子などバスト90センチ超えのグラドルが芸能界を席巻していった。 数十年の時を経て、日本人は“1967年の呪い”からようやく解放されたのである。その呪縛からの解放の一翼を担った、B90超の女神たち4人を紹介しよう。●細川ふみえ(1971~)B94 1990年、ミスマガジンのグランプリ受賞を機にデビュー。初グラビアで、Fカップの乳房がはみ出るほどの極小ビキニを披露し、グラビア界の頂点に立つ。●松田千奈(1977~)B93 15歳で芸能界デビュー。1994年頃からグラビアで大胆なビキニやハイレグを披露して人気が沸騰し、深夜番組やドラマにも出演。その後はモデルとして活躍。●根本はるみ(1980~)B103 2001年にデビュー。巨乳グラドル事務所イエローキャブ初のB100センチ超で人気を呼び、2002~2004年に11冊もの写真集を発表。テレビ、オリジナルビデオなどに活躍の場を広げた。●熊田曜子(1982~)B92 2001年に芸能界入りし、抜群のプロポーションでたちまちトップアイドルに君臨。2017年に35歳で通算36冊目の写真集『The GREATEST!!』を発売。◆取材・文/岡野 誠※週刊ポスト2018年5月25日号
2018.05.20 07:00
週刊ポスト
『巨乳の誕生』著者 「ボイン」から始まる大きな胸の歴史
『巨乳の誕生』著者 「ボイン」から始まる大きな胸の歴史
「この阿呆めが。女を見るならまず胸をというのが鉄則ではないか」 1000を超える文献を調べ上げ、『巨乳の誕生』(太田出版)を上梓した安田理央氏によれば、ルイ15世はオーストリアから息子のためにマリー・アントワネットを迎える時、胸の大きさを確認しなかった秘書官をこう怒鳴り飛ばしたという。歴史が証明するように、世界ではすでに17世紀から大きな胸に対する価値が高かったが、意外にも日本では重視されていなかった。「江戸時代の春画は男女の生殖器ばかりに焦点を当て、乳房はほとんど描かれていません。性的興奮を掻き立てられる部位ではなかったのです」(安田理央氏。以下「」内はすべて同氏) 日本社会において“胸”が意識され始めたのは第2次世界大戦後、欧米文化が流入してからだ。「1952年公開の『ならず者』(米国1943年公開)に主演したジェーン・ラッセルの肉体美に多くの日本男児が圧倒され、『肉体女優』という言葉が生まれました。その後、1956年に前田通子が新東宝の映画『女真珠王の復讐』で、日本映画史上初めてヌードを披露。翌年には、日活が筑波久子、松竹が泉京子を“肉体派”として売り出していった。同じ時期に『グラマー』という表現が頻出し始めます」 1967年、人気深夜番組『11PM』で司会の大橋巨泉が朝丘雪路の胸を「ボイン」と番組内で呼ぶ。2年後、月亭可朝が『嘆きのボイン』という歌を発売し、売り上げ80万枚を記録。「ボイン」は子供たちにまで広がる流行語となった。「『ボイン』は日本で初めて“大きな乳房”を形容した言語として歴史に刻まれました。しかし、1967年10月にツイッギーが来日し、細身の女性がもてはやされる風潮が生まれます。同時にアメリカのストラスマン博士が『バストサイズと性格および知能の関係』を発表し、胸の大きい女性は知能指数が低いという俗説が流れ始めます」◆「ボイン」から「デカパイ」、そして「Dカップ」と名を変えた 大きな胸がマイナスイメージだった1970年代前半、日本に“アイドル”という概念が生まれる。処女性が求められた彼女たちにとって大きな胸は余計なものだった。「1970年代後半の榊原郁恵や1980年代前半の河合奈保子など、胸の大きいアイドルは、たとえ売れてもトップには立てない宿命にありました」 1977年、『月刊バチェラー』が創刊される。当初は芸能色の強いグラフ誌だったが、4号目から外国人ヌード雑誌に路線変更し、1979年の後半から胸の大きな外国人を扱う専門誌に姿を変えていく。「他の雑誌でも徐々に『ボイン』から『デカパイ』という呼び名に変わっていきます。1977年、子供たちが『デカプリン!!』と叫ぶと、大場久美子が恥ずかしそうに胸を押さえる『ハウスプリン』のCMの影響があったのかもしれません」 1981年にアダルトビデオ(以下、AV)が生まれると、1982年には初めて大きな乳房を全面に押し出した藤尚美主演の『恵子 バスト90桃色乳首』が発売される。「1982年からヌードモデルの仕事を始めた中村京子は次第にAVにも出演し、1984年『平凡パンチ』の投稿ページで『Dカップ京子』と名付けられます。『ドリフ大爆笑』に出演するなど、テレビでも活躍したことで『Dカップ』は一般に認知されるようになりました」 元号が昭和から平成に変わった直後の1989年2月、松坂季実子というGカップのAV女優が誕生する。村西とおる監督作品『でっか~いの、めっけ!!』に出演すると、爆発的な売り上げを記録、一般社会に“巨乳”が浸透し始めていった。「“巨乳”という言葉自体は、すでに『平凡パンチ』1967年8月28日号でジェーン・マンスフィールドの胸を表現する際に使われており、『バチェラー』でも1980年代前半から頻繁に掲載されていましたが、世の中に浸透したのは松坂季実子の出現以降です」 同年、AV界ではEカップの樹まり子、Fカップのいとうしいななどがデビュー。巨乳旋風が吹き荒れた。この鉱脈をさらに切り開いたのが、1984年に堀江しのぶをデビューさせたイエローキャブ軍団を率いる野田義治氏だった。その後、1998年に“だっちゅ~の”を流行らせたパイレーツを経て、「巨乳」は市民権を獲得していく。2010年代に入り、小向美奈子の登場で「巨乳」はひとつの頂点を迎える。『肉体女優』に始まった呼び名が時代の変遷とともに変化する中で、大きなオッパイの女性は偏見と闘い続けた。毎日のように巨乳を目にできるようになった今こそ、我々は感謝と憧憬を忘れてはならないだろう。取材・文■岡野誠※週刊ポスト2018年1月26日号
2018.01.17 16:00
週刊ポスト
かたせ梨乃や松居一代ら逸材続々『11PM』 警察の大目玉も
かたせ梨乃や松居一代ら逸材続々『11PM』 警察の大目玉も
 かつて“お色気”の最前線はテレビだった。1960~70年代、多くのテレビ局が放送を終えた深夜11時、「シャバダバ、シャバダバ~」というテーマ曲とともに『11PM』(日本テレビ系、1965~1990年)が始まる。 放送開始時は時事問題を扱う「お堅いトーク番組」だったが、視聴率低迷を受けて路線を変更し、女性レポーターに裸で温泉実況をさせるといった“お色気”を導入したことで人気番組となった。日本のテレビ史初の“エロ番組”といわれている。60代男性が振り返る。「AVがまだ無い時代、当時の子供たちが目にする女の人の裸なんて、『平凡パンチ』のグラビアくらいでしたからね。初めて見たときは『動く裸が見られるなんて!』と衝撃を受けました。カバーガールを見るだけでも楽しみでした」 カバーガールとは、CMに入る直前に水着姿でセクシーポーズを披露する女性たちのことだ。当時を知る日テレOBがこう話す。「『カバーガールの良し悪しが視聴率に直結する』といわれるほど、男性視聴者の注目度は高かった。当時の若手女優にとって、カバーガールに採用されるかどうかは『芸能界の登竜門』といわれており、実際に何人もの女の子たちが、カバーガールを経て大女優になりました」 98cm、Gカップのたわわなバストで視聴者を虜にした、かたせ梨乃もそのひとりだ。「彼女の持つ官能的な容姿と、挑発するような表情が『極道の世界にピッタリのコが居るぞ』と評判になり、映画『極道の妻たち』のヒロインに抜擢された理由のひとつだといわれています」(映画関係者) 後に『水戸黄門』(TBS系)での入浴シーンが“ハマリ役”となる由美かおるは、自伝のなかで「(カバーガールとして)ミニスカートに網タイツ姿でダンスしたら、それを見ていた石原裕次郎さんから共演のオファーを受けました」という“シンデレラストーリー”を明かしている。 後に“癒し系女優”としてトレンディドラマに欠かせない女優になった飯島直子も、『11PM』のカバーガール起用が芸能界デビューだ。抜群のスタイルとハイレグ水着で世の男性を魅了した。松居一代、岡本夏生、RIKACOらもカバーガール出身だ。『11PM』にはほかにも注目されている女性たちがいた。「秘湯の旅」というコーナーで温泉ルポをする“うさぎちゃん”と呼ばれるレポーターたちだ。「カバーガールは芸能人っぽいコが多かったけど、うさぎちゃんは一般公募の素人。四苦八苦しながらレポートするのが初々しくて可愛かった」(50代男性)◆ヘアが映っちゃった さらに、女性たちが乳房を露わに相撲を取る「女相撲」、1960~70年代に一世を風靡したストリッパー・一条さゆりによるショーなど、お色気企画が次々に登場し人気を博した。年末には、全国からストリップ嬢を集めて「東西ストリップ合戦」を開催。1974年には深夜に48%という番組史上最高視聴率を叩き出した。 帯番組である同番組で、若手女優が務めた曜日替わりのアシスタント(司会者の補佐役)も楽しみのひとつだった。金曜日に大橋巨泉のアシスタントをしていたのが朝丘雪路。お嬢様女優のイメージの強かった朝丘だが、服の上からでもわかる豊かなバストは、大橋が思わず「どうして、ボインボインと出ているの?」と口にしてしまったことから、巨乳のことを「ボイン」というようになった逸話は有名だ。 深夜に行なわれた生放送だったため、“アクシデント”も多かった。1969年から1985年まで月曜日のアシスタントを務めた松岡きっこがこう明かす。「CM明けにストリッパーさんが振り返るタイミングを間違えてしまい、ヘアが一瞬映り込んじゃったことがありました。スタッフは所轄の麹町署に呼ばれて大目玉をくらい、始末書を書かされてました。でも、全然懲りていないから、同じようなことが度々起こる(笑い)。だから、麹町署では『11PM』を毎回録画して、ポロリがないかチェックされていたようです」 そう言って松岡は笑ったが、1972年には「低俗だ」という理由で『11PM』が国会で槍玉に挙げられたこともある。この番組の社会的な影響力がいかに強かったかが窺える。※週刊ポスト2017年10月27日号
2017.10.17 16:00
週刊ポスト
【名女優 水着の煌めき】宝塚出身・朝丘雪路の貴重ショット
【名女優 水着の煌めき】宝塚出身・朝丘雪路の貴重ショット
 女優の美貌は、時を経ても色褪せることはない。胸を躍らせた銀幕のスターの水着ショットを大公開。ここで紹介するのは朝丘雪路だ。 朝丘は昭和10年東京都生まれ。日本画家・伊東深水を父に持つ彼女は、宝塚歌劇団在籍中にジャズ歌手としてデビュー。『千万長者の恋人より 踊る摩天楼(31年)で映画デビュー後、テレビ・舞台で活躍した。夫はご存知、俳優・津川雅彦だ。撮影■Yuji Hayata/JDC※週刊ポスト2017年10月13・20日号
2017.10.13 07:00
週刊ポスト
野田義治氏 堀江しのぶとの破天荒な二人三脚
野田義治氏 堀江しのぶとの破天荒な二人三脚
「胸が大きい女は売れない」という芸能界の常識を覆し、巨乳を武器に雑誌グラビアから女優やタレントを育て上げるビジネスモデルを開発した元イエローキャブ社長・野田義治氏(70)。彼はいかにして芸能界に革命を起こしたのか──。「うちの子たちには『自分のことを“グラビアアイドル”なんて言ったら承知しないぞ』と言ってます。グラビアはあくまで夢を叶えるために名前と顔を覚えてもらう場所。女優にも歌手にもなる気がなくて、『夢はグラビアアイドルです』なんて言う子には遠慮してもらっています」(野田氏。以下「」内同) そうグラビア哲学を熱く語るサンズエンタテインメント・プロデューサーの野田氏が芸能界にかかわるきっかけは映画だった。高校時代に高橋英樹の大ファンになり、俳優を志し上京。取次会社でアルバイトしながら劇団に通うも、やがて歌舞伎町に入り浸り、ディスコの副支配人としてミュージシャンらと交流を深めながら芸能界の基礎を学んだ。その後、渡辺プロの系列事務所でいしだあゆみのマネージャーなどを務め、1980年に34歳で芸能事務所イエローキャブの経営を担った。 野田氏のその後の人生を変えた堀江しのぶとの出会いは1983年7月。クラリオンガールの最終選考の20人に残った17歳の堀江に目が留まった。「過去に夏木マリさんや朝丘雪路さんのマネージャーをしたこともあって、そんな女優さんたちと共通するオーラを感じた。胸が大きいなんてまったく気づかなかった」 優勝を逃した堀江はイエローキャブに所属することになった。しかし、無名の新人に仕事はない。野田氏は「とにかく顔を売りたい」と出版社に営業をかけまくった。そしてようやく『週刊少年マガジン』別冊の男性誌で、ハワイでのグラビア撮影の仕事にありついた。 水着になることを躊躇する堀江に野田氏はこう説得した。「お前は海に行く時に何を着る? 水着だろ。どんな水着だ? セパレートか。じゃあ、海に行ってビキニでやろう」 当時、まだビキニが少なかった漫画雑誌のグラビアで、堀江の「巨乳ビキニ」は目を引いた。さらに男性誌、青年漫画誌の創刊ラッシュも堀江の人気を後押しした。次に野田氏が仕掛けたのが、雑誌のアンケートである。「編集部に営業に行った時に必ず言われるんですよ、『いやぁ、返りがね』って。つまり、読者アンケートの結果がよくないってこと。そこで、かつてアルバイトしていた取次会社に頼み込み、返品雑誌の山からアンケートハガキだけ集めて、全部『堀江しのぶ』って書いたんです(笑い)。200枚くらい送ったのかな」 そんな努力が実を結び、堀江は『毎度おさわがせします』(TBS系)や『真田太平記』(NHK)などのドラマに出演。ついに自動車関連企業のCMにも起用された。 その頃、堀江の仕事を詰め込めるだけ詰め込んだため、業界で「トリプル(ブッキングの)野田」と呼ばれたほどだった。「ある日、次の仕事への移動時間がほとんどない状態になってしまったので、TBSの緑山スタジオから次のイベントがある名古屋まで、ヘリをチャーターして移動したんです。イベントのギャラが50万円で、チャーター代も50万円でしたね(笑い)」  順風満帆だったのも束の間、人気の絶頂を極めた1988年3月、堀江を病魔が襲った。医師は野田氏に胃がんの病名と余命2か月を告げた。23歳の誕生日を迎えてから1か月も経たない9月13日、堀江は短い人生を終えた。野田氏に囁いた最期の言葉は「社長、私、仕事がしたい」だった。撮影■山崎力夫※週刊ポスト2016年12月9日号
2016.11.30 07:00
週刊ポスト
大橋巨泉さん 「今のテレビでやりたいことない」の真意とは
大橋巨泉さん 「今のテレビでやりたいことない」の真意とは
『11PM』『クイズダービー』などの司会者として親しまれた大橋巨泉さん死去のニュースは、各所で大きく報じられている。巨泉さんがテレビ界に残した足跡は計り知れない。巨泉さんが司会を務めた人気番組の舞台裏からは、テレビ界の現状も見えてくる。巨泉さんにインタビューしたことのあるコラムニストのペリー荻野さんが考察する。 * * *  7月12日、82歳で世を去った大橋巨泉さんは、多くの名番組を世に送り出した。筆者は以前、その舞台裏についてご本人にインタビューさせていただいた。その記録をもとに巨泉さんの番組と現代のテレビを考えてみたいと思う。  早稲田在学中から、ジャズ評論家をしていた巨泉さんは、先輩が多かった音楽番組を手伝うようになった。開局一年目のTBSの番組では生放送中に「あと5分余ってる!」となって、巨泉さんは映らないようにスタジオを這って、バンドのメンバーに「もう一曲!」と頼み、無事放送完了したこともあったという。  その後、『11PM』の司会者に。番組スター時には司会をするとはまったく考えておらず、プロデューサーが「テレビは普通の魚屋、八百屋よりずっと劣る。彼らは売れれば売り場面積を広げられるが、テレビはどう売っても一日24時間しかない」と嘆くのを聞き、当時、未開拓だった深夜番組なら、もっと自由に面白いことができると発想。 親友のディレクターと組んで、麻雀や競馬などそれまで取り上げられなかった遊びを番組に取り入れて評判となる。番組の司会は、当初、ダンディーな映画スターが想定され、巨泉さん司会には反対意見も多かったらしい。しかし、巨泉さんと朝丘雪路さんは名コンビとなり、人気を博す。 巨泉さんの番組作りには「結果を出すこと」と「自分が見込んだ出演者と番組を作る」というこだわりがあった。関東地区で最高視聴率が40%を超えた(ビデオリサーチ調べ)、代表作『クイズダービー』は、三組の出場者が五人の回答者に持ち点を賭けるスタイルのクイズ番組だとばかり思っていたが、始めは五組の出場者がいて、回答の倍率も“オッズマン”がやっていたのだった。 しかし、オッズという言葉が日本に浸透していなかったためか、いまひとつ番組が盛り上がらず、巨泉さんは「出場組を五組から三組に。倍率は“巨泉の独断と偏見”で決める。問題の作家を増やして、賞金よりも問題の面白さを追及する」と決断。その後、「倍率ドン」「さらに倍」といった決めセリフや驚異的な正解率のはらたいらさんを「宇宙人」、三択に強い竹下景子さんを「三択の女王」などとニックネームをつけるなどして、幅広い年代の視聴者に親しまれるような流れを創り出したのである。 放送作家として長く番組を作る側にいたため、面白い人を探すのが得意だった。『世界まるごとHOWマッチ!』では、「博識の石坂浩二、ビートたけしこのふたりが押さえられたらこの番組をやる」とはっきり言っていたという。巨泉さんにより、歌手、俳優といった本業とは別のタレント性を見出された芸能人はとても多い。  セミリタイア宣言から二十年以上を経て、「今のテレビでやりたいことは…ないな。ぼくがやりたい番組があっても、それは予算的に無理でしょう」とサラリと言われた。未開拓でおとなの時間だった深夜帯は、今はドラマ、バラエティーなんでもありの若者の時間帯に変化した。「どう売っても一日24時間しかない」テレビは、録画や配信で事情が変わり、多チャンネル化も進んで、番組制作費の削減はしばしば話題になる。そうした事情をすべて含んでの「無理でしょう」だったのだろう。 海外生活から日本に戻り、たまに旧知の番組に顔を出すのは、「ボケ防止だよ」と笑っておられた。亡くなった今も、テレビの現状を映し出す鏡のような存在だと思える。改めてその存在の大きさを実感する。
2016.07.26 07:00
NEWSポストセブン
TUBEは『夜のヒットスタジオ』にU2代役で初出演しブレーク
TUBEは『夜のヒットスタジオ』にU2代役で初出演しブレーク
 現在は数少ない音楽番組だが、かつては、多くの音楽番組が存在していた。そのひとつである『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)には、こんな裏話がある。当時の番組プロデューサー・疋田拓さんが語る。■サザン出演で初の歌詞テロップ デビュー直後のサザンオールスターズが『勝手にシンドバッド』で初出演したのは1978年7月。「桑田さん独特のボーカルで、何を言っているか歌詞がさっぱりわからなかった(笑い)。そのため、歌詞を表示させる対応をとったんです」(疋田さん)。 これが今では当たり前となった歌詞のテロップ表示の始まりとされる。■“代役”でTUBEがブレーク 1985年7月、『ベストセラーサマー』でデビューしたばかりのTUBEが初出演。「実は海外のロックバンド『U2』が出演予定だったのですが、リハーサルでトラブルがあって出演できなくなった。急きょ、TUBEに声をかけて出てもらった」(疋田さん)。 それを機に彼らは一躍、注目アーティストに。■豪華海外アーティストが“共演”  1985年4月、番組は『夜のヒットスタジオDELUXE』として2時間番組としてリニューアル。その目玉として、来日していたフランク・シナトラが生出演。さらに、西ドイツ(当時)から衛星生中継でティナ・ターナーが出演し、2人が“共演”。当時は日本の音楽番組に海外の大物アーティストが出演するのは異例のことだった。「何度も現地まで行って粘り強く交渉して実現しました。その後、“日本にすごい番組ができた”と世界中に広まって、海外アーティストをキャスティングしやすくなりました」(疋田さん)■百恵引退で放送後に『蛍の光』  山口百恵さんが1980年10月の引退前、最後に出演した番組が夜ヒットだった。百恵さんは『さよならの向う側』を熱唱。「放送はそのまま終了しましたが、出演者の誰もが名残惜しくて帰ろうとしない。そのとき、オーケストラが『蛍の光』を演奏し始めたのです。その音楽に送られて百恵さんは号泣しながらスタジオを後にしました」(疋田さん)。『夜のヒットスタジオ』放送局:フジテレビ系放送期間:1968年11月~1990年10月放送回数:1131回主な司会者:前田武彦、芳村真理、三波伸介、朝丘雪路、井上順、古舘伊知郎、柴俊夫、加賀まりこ 最高視聴率:42.2%(1969年3月17日)<出場回数ランキング>【1】五木ひろし:222回【2】森進一:204回【3】西城秀樹:190回【4】布施明:177回【5】郷ひろみ:176回【6】田原俊彦:158回【7】沢田研二:153回【8】小柳ルミ子:145回【9】近藤真彦:126回【10】野口五郎:124回※女性セブン2016年6月9・16日号
2016.06.04 16:00
女性セブン
左とん平 「存在感ある役者になりたいよ」
左とん平 「存在感ある役者になりたいよ」
 役者として長いキャリアを持つ左とん平は、これまで多くの役者たちと共演してきた。左が語った中村吉右衛門、朝丘雪路、天知茂、山村聰と共演した当時の思い出について語った言葉を、映画史・時代劇研究家の春日太一氏がつづった週刊ポスト連載『役者は言葉でできている』からお届けする。 * * * 左とん平は1969年、中村吉右衛門主演のテレビ時代劇『右門捕物帖』(日本テレビ)にレギュラー出演している。その後、1990年には同じく吉右衛門主演の『鬼平犯科帳』(フジテレビ)にゲスト出演した。「『右門』の時はお互いに青かった。『まだまだ芝居が若いな』と思いながらやってたこともあったくらい。 それが『鬼平』の時は全く違っていた。上手いなと思ったね。年齢を重ねた味が芝居に出ていたんだよ。いろいろと苦労してきたんだろうと伝わってきた。 時代劇の所作は、僕の場合は一緒に共演してきた人のを見ていて『ああ、そうか。こういう時はこうするのか』というのを見ながら覚えていったんだよね。そういうの、パッと分かるんだ。 三越劇場で朝丘雪路さんと一緒に出た時、洋食の職人の役をやることになって。舞台の上でオムレツを作る芝居をしたんだけど、朝丘さんが『本物が作っているように見えた』と言うんだ。一度も作ったことないのに。 実は一度、洋食屋の厨房を見に行っていてね。その時に、『フライパンを持って手をカクンカクンさせる、この動きが見せどころだな』ってすぐに分かった。 若い頃、親父が寿司屋をやっていて、僕は高校生で出前をやっていたんですよ。その時に板前さんの動きをよく見ていた。そういうのも経験になっているんだと思う。出前先では口先でのごまかし方も覚えたしね」 1973年には天知茂主演の刑事ドラマシリーズ『非情のライセンス』にレギュラー出演した。「天知さんは面白い人だった。天知さんも僕のことを好きでいてくれて。苦虫を噛みしめたように眉間に皺が寄るのが魅力だったけど、普段は気さくでね。面倒見がよくて、兄貴分みたいな感じだった。僕が博打で捕まって苦労している時、キャバレーで公演してたらゲストで来て歌ってくれたりもした。 芝居に関しては、何も言わなかった。僕がその場で面白い芝居をすると笑ってくれて、『それはいいね』と言うような人。だから自由にやらせてもらえた。 やはり喜劇的な芝居を入れてドラマを膨らませないと。ただのニヒルな感じだけでは面白くないから。でも、あざといことは一切しなかった。ギャグっぽいことをすると作品が全て崩れてしまうから。ただ、作品によっては使い分けることもあるよ。 それこそ、ワンシーンしか出番がないような役の場合はインパクトを強くしないと出ている意味がなくなってしまうから」『非情のライセンス』には上司役で山村聰が出演している。「山村さんは重みがあって良かったよね。僕が何かやるとクスっと笑う。でも、芝居としては絶対にこっちに交じってこない。 あの人、撮影所に来る時は二時間前には来てるんだ。で、僕はよく渋滞に巻き込まれて遅刻していたんだけど、その時は『君ね、もうちょっと早く起きてきなさい』って。二、三回は怒られたんじゃないかな。 山村さんは大見得を切る芝居をする。あの人がいるといないじゃ作品が全く違う。そういう存在感ある役者になりたいよ」●かすが・たいち/1977年、東京都生まれ。主な著書に『天才 勝新太郎』(文藝春秋)、『なぜ時代劇は滅びるのか』『市川崑と「犬神家の一族」』(ともに新潮社)など。本連載をまとめた『役者は一日にしてならず』(小学館)が発売中。■撮影/藤岡雅樹※週刊ポスト2016年6月3日号
2016.05.23 16:00
週刊ポスト
さとう珠緒告白 ぶりっ子キャラが原因で裸の男性に襲われた
さとう珠緒告白 ぶりっ子キャラが原因で裸の男性に襲われた
 両手を拳にして自分の頭の上に持っていき「プンプン!」のぶりっ子キャラで男性の心を掴んだ、さとう珠緒(42才)。しかし、ぶりっ子が元で、怖い経験もしたそう。さとうが、意外な体験談や結婚観などを告白。――ぶりっ子界のトップって、どなただと思いますか?さとう:私は松田聖子さんだと思うんですけど。天然界では、中村玉緒さんとか、浅田美代子さんとか、朝丘雪路さんとかがトップ。なんか大御所のイメージですけど、リスペクトしています。――ぶりっ子は実際、女性に嫌われるんですか?さとう:自分では嫌われている感覚はないんですけど、嫌われているかもしれないですね。 でもあまり上にも下にも媚びを売っていたら、疲れてしまいますし。――プライベートで、ぶりっ子キャラで困ったことはありますか?さとう:台湾に行って、ロケをしたんです。そうしたら、その夜、宿泊先の方に本気で襲われそうになったんですよ。ホームステイみたいな感じで泊まる企画だったんですけど、裸の男性に襲われそうになって、スタッフさんが気づいて止めてくれたんですけど。ぶりっ子は、外国でやっちゃ危険だって思いました。――ベッドに押し倒されちゃったり?さとう:ハグされて「ちょっと、ノーノー!」って言っていたら、スタッフさんが来てくれて。怖かったです。――さとうさんの魅力にやられちゃったんですね。 さとう:うーん……(苦笑)。翌日、象牙のペンダントをくださって。お詫びなのかなんなのか。サンキューって受け取りましたけど。ごまかされません、プンプン!ですよ!――ぶりっ子が効きすぎちゃったんですね。さとう:ドバイでロケしたときは、お金持ちにすごいブリブリしてたんですけど、だめでした。全然通用しない。全然イケてないようです。モテる国と、そうでもない国があります。イタリアに行ったときも、ぽっちゃりな女性がすごいモテてて、私は全然だめでしたよ。――婚活していますか?さとう:それもね……。まずいですよね、そろそろ本当に。予定はないんですけど、この5年が勝負だと思いませんか? それを逃すと本当にまずい。結婚願望が全然なかったわけじゃなかったんですけど、タイミングでしょうか。――目標は、5年以内の結婚?さとう:自由な独身のライフスタイルも嫌いじゃないけど、子供がいないと淋しいかもしれないし、国に貢献していない感じもありますしね。結婚は見えないんですけど、距離を置いてくれるパートナーは、いないと淋しいかな。災害の時とか、何かあった時は支えてほしいけど、あまり向き合って濃い恋愛をするような年齢じゃないというか。――堀北真希さんと山本耕史さんは交際2か月のスピード婚でしたし、年齢も時間も、あまり関係ないですよね。さとう:堀北真希さんの結婚、どう思いますか? まだ若いから、私が親なら「もうちょっと待ってもいいんじゃない?」って止めたと思うんですよね。 ――さとうさんは、もし猛烈アプローチがあっても、OKしない?さとう:最初は、お互いのことをあまり知らないから、ポイントアップもあるかもしれないけど。でも結婚でそんな博打みたいなの、嫌じゃないですか。100%ない。――さとうさんは、5年以内の結婚が目標ですね。さとう:話が戻った(笑い)。50才までに延ばしてもらっていいですか? いや、やっぱり51才にしましょう。50才になった途端にあせって、51才で結婚。――どういう人がタイプですか?さとう:ラジオDJのピーター・バラカンさん。なんか、30年間ベーグルとミルクティーを毎朝食べてるんですって。すごいなって。あと、ジョン・カビラさん。――2人ともDJですね。さとう:声がいいですよね。容姿なんて結局目で見る世界だけど、音で聴く世界の方が、私の中で真実が詰まっている感じがするんです。情報がいっぱい詰まっている感じがしていいじゃないですか!【さとう珠緒】1973年1月2日生まれ。千葉県出身。1991年から芸能界活動を開始、1995年『超力戦隊オーレンジャー』(テレビ朝日系)、翌年『出動!ミニスカポリス』(テレビ東京系)初代ポリスなどでブレイク。キメ台詞の「プンプン!」で一世を風靡した。LINEスタンプ『さとう珠緒の女子に嫌われるスタンプ』発売中。撮影■林紘輝
2015.10.20 07:00
NEWSポストセブン

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