友好関係を築いてきた山口組と会津小鉄会だが、平成に入ると状況は一変する。山口組が木屋町事件の手打ちを反故にして京都に侵攻、再び両者の抗争が相次いだからだ。
「当時の京都は、京都駅ビルの改築工事だけで約1000億円の予算で、総額数十兆円といわれる公共投資による市街地の開発計画もあった。それらの利権に絡みたい山口組と、利権を守ろうとする会津小鉄会とが対立した」(全国紙社会部記者)
両者の衝突がピークを迎えたのが、平成8年の「中野太郎襲撃事件」だ。
京都府八幡市の理髪店で、五代目山口組の中野太郎若頭補佐(中野会会長)が、四代目会津小鉄会系組員に銃撃を受け、中野若頭補佐のボディガードが相手を射殺した。
「その日のうちに会津小鉄会の最高幹部が、謝罪金を持参して山口組の宅見勝若頭のもとを訪れ、指を詰めて和解した。
しかし頭越しに手打ちされた中野若頭補佐は納得せず、怒りの矛先を宅見若頭に向けた。平成9年、中野会の組員が神戸市内のホテルで宅見若頭を射殺したのです」(前出・伊藤氏)
山口組内部抗争の原因をつくった形の会津小鉄会は、その後も独立性を保ちながらも山口組との関係を強めていく。
「平成17年、図越利次五代目は、六代目山口組の司忍組長の代紋違いの舎弟となった。ただし舎弟関係といっても傘下団体ではなく、会津小鉄会はあくまで独立した組織とする珍しい結びつきです。京都の利権に影響力を持つ会津小鉄会だからこそ、山口組に対しても強気を貫くことができた。
一方、現在の山口組抗争については、宅見若頭時代からの繋がりを重視する“神戸派”と、そうではない“名古屋派”に分かれている」(前出・社会部記者)
山口組が揺れ動く時には決まってその存在がクローズアップされるのが、会津小鉄会という団体なのだ。
※週刊ポスト2017年2月10日号