ライフ

新潮社の元名編集者 53歳で新潮社から小説家でデビュー

【著者に訊け】松家仁之氏著/『火山のふもとで』/新潮社/1995円

 俄かに乾いた外気が肌にさみしい、秋の夜長にしっとり味わいたい小説だ。描かれるのは〈夏の家〉。軽井沢に程近い、通称〈青栗村〉の夏である。浅間山を望む山荘に、東京・北青山の〈村井設計事務所〉は毎年夏になると機能を移転し、新人所員のぼく〈坂西徹〉も、今年は初めてここの住人となった。

 所長である先生〈村井俊輔〉は、帝国ホテルの設計で知られるフランク・ロイド・ライトにかつて師事し、長年事務長を務める〈井口さん〉はこの事務所をライトの没後も活動をつづける「タリアセン」のようにしたいらしい。

 夏の夜に薪をくべ、皆で語らう時間は、静かでいてとても親密だ。先生はいつも大切なことだけを言葉少なに話し、それはそのまま、理に通じながら住まい手の暮らしになじむ、先生の建築に似ていた――。

 松家仁之氏の初小説『火山のふもとで』にも同じことが言えよう。大仰な物語の展開があるわけではない。が、その端正な一字一句を追う時間が心地よいのである。カバーに〈小説を読むよろこび〉とあるが、まさにそうとしか言いようがない。小説が、ここまで人を幸せにするものなのか。

 松家氏は53歳。遅いデビューだが新潮社『考える人』等の名編集長として、その手腕はつとに知られてきた。一昨年退社し、10年来構想を温めてきた本作を「クレイアニメ」さながらに書き上げていったという。

「登場人物や情景を一つ一つ描かないことには自分の中に物語が立ち上がってこないんです。そのとき誰がどんな風に動いて、暖炉では薪がどう燃えているか。森にはどんな鳥が鳴き、その声を誰がどんな音として聞いたか。空間を構成するモノや音や匂い、その変化を、コマ撮りするように言葉にしていきました。建築の話なのに、設計図はなかったんです(笑い)」

 浅間山が10年ぶりに噴火した1982年。大学卒業を前に進路を決めかねていた徹は、尊敬する村井俊輔のもとをダメもとで訪れ、意外にも採用される。村井事務所では既に所長が70代とあって新規採用を控えていたが、このほど〈国立現代図書館〉の設計競技に参加が決まり、その要員に採用されたのだ。

 自らをいたずらに主張することなく景観と調和し、日本の伝統と西洋的合理性が同居する先生のデザインは、ひと回り上の先輩〈内田さん〉によれば〈ようするに先生の設計っていうのは、含羞なんだよ〉。クライアントに対しても情緒的な言葉を使わず、理屈を具体的な形にしてみせる先生の作品には〈無言で人を受け入れる親密な空気が漂っていた〉。

「よく誰がモデルかと訊ねられるんですが、僕としてはフィクションですとしか言いようがありません。じつは中学校の頃は建築家になりたかったんです。理科系がまったくダメであきらめましたが、その後もずっと内外の建築物を見たり、写真集や設計図集に親しんできました。小説に書くことで、建築とはいったいなんなのか、建築家の考え方や感じ方はどのようなものなのか、僕自身が知りたかったということもありますね」

 徹は先生や先輩の〈雪子〉ら所員たちと夏の家に滞在し、コンペに向けての仕事に携わる一方、バイトに来ている先生の姪〈麻里子〉と買い出しに行ったり、絶品の料理をささっと作る内田さんの手伝いをしたりという日々を送る。

 食事にも手を抜かない夏の家では毎朝豆から淹れる珈琲が香り、9時になると全員がナイフを手に鉛筆を削る。〈カリカリカリ、サリサリサリ〉〈鉛筆を削る音で一日がはじまるのは、北青山でも夏の家でも同じだった〉

 そうこうする間にも徹は麻里子に恋し、夏の家にも人知れず変化の時が近づいていた。先生が暖炉に薪をくべながらこう呟く場面が印象的だ。〈薪同士をくっつけすぎると燃えないだろう。離しすぎても、燃えない。ほんの少し離れているぐらいが……ほら、いちばんさかんに燃えるんだ〉――。どんなに美しい時間もいつかは終わる。〈火は薪と薪とのあいだに生まれるはかない生きもののようだった〉。

(構成/橋本紀子)

※週刊ポスト2012年11月9日号

関連キーワード

関連記事

トピックス

12月9日に62歳のお誕生日を迎えられた雅子さま(時事通信フォト)
《メタリックに輝く雅子さま》62歳のお誕生日で見せたペールブルーの「圧巻の装い」、シルバーの輝きが示した“調和”への希い
NEWSポストセブン
宮崎あおい
《主演・大泉洋を食った?》『ちょっとだけエスパー』で13年ぶり民放連ドラ出演の宮崎あおい、芸歴36年目のキャリアと40歳国民的女優の“今” 
NEWSポストセブン
悠仁さまが2026年1月2日に皇居で行われる「新年一般参賀」に出席される見通し(写真/JMPA)
悠仁さまが新年一般参賀にご出席の見通し、愛子さまと初めて並び立たれる場に 来春にはUAE大統領来日時の晩餐会で“外交デビュー”の可能性も、ご活躍の場は増すばかり
女性セブン
大谷翔平選手と妻・真美子さん
《チョビ髭の大谷翔平がハワイに》真美子さんの誕生日に訪れた「リゾートエリア」…不動産ブローカーのインスタにアップされた「短パン・サンダル姿」
NEWSポストセブン
日本にも「ディープステート」が存在すると指摘する佐藤優氏
佐藤優氏が明かす日本における「ディープステート」の存在 政治家でも官僚でもなく政府の意思決定に関わる人たち、自らもその一員として「北方領土二島返還案」に関与と告白
週刊ポスト
会社の事務所内で女性を刺したとして中国籍のリュウ・カ容疑者が逮捕された(右・千葉県警察HPより)
《いすみ市・同僚女性を社内で刺殺》中国籍のリュウ・カ容疑者が起こしていた“近隣刃物トラブル”「ナイフを手に私を見下ろして…」「窓のアルミシート、不気味だよね」
NEWSポストセブン
石原さとみ(プロフィール写真)
《ベビーカーを押す幸せシーンも》石原さとみのエリート夫が“1200億円MBO”ビジネス…外資系金融で上位1%に上り詰めた“華麗なる経歴”「年収は億超えか」
NEWSポストセブン
ハワイ別荘の裁判が長期化している(Instagram/時事通信フォト)
《大谷翔平のハワイ高級リゾート裁判が長期化》次回審理は来年2月のキャンプ中…原告側の要求が認められれば「ファミリーや家族との関係を暴露される」可能性も
NEWSポストセブン
神田沙也加さんはその短い生涯の幕を閉じた
《このタイミングで…》神田沙也加さん命日の直前に元恋人俳優がSNSで“ホストデビュー”を報告、松田聖子は「12月18日」を偲ぶ日に
NEWSポストセブン
高羽悟さんが向き合った「殺された妻の血痕の拭き取り」とは
「なんで自分が…」名古屋主婦殺人事件の遺族が「殺された妻の血痕」を拭き取り続けた年末年始の4日間…警察から「清掃業者も紹介してもらえず」の事情
(2025年11月、ラオス。撮影/横田紋子)
熱を帯びる「愛子天皇待望論」、オンライン署名は24才のお誕生日を節目に急増 過去に「愛子天皇は否定していない」と発言している高市早苗首相はどう動くのか 
女性セブン
「台湾有事」よりも先に「尖閣有事」が起きる可能性も(習近平氏/時事通信フォト)
《台湾有事より切迫》日中緊迫のなかで見逃せない「尖閣諸島」情勢 中国が台湾への軍事侵攻を考えるのであれば、「まず尖閣、そして南西諸島を制圧」の事態も視野
週刊ポスト