「思えばこのバースの一件がケチのつき始めでしたな。交渉がこじれた末に、当時の球団代表が飛び降り自殺。嫌な事件が何かを暗示するかの如く、ここから暗い時代へのベルが鳴りました」(在阪スポーツ紙元幹部)
チームの雰囲気も激変したという。1985年優勝メンバーの岡田彰布氏の証言。
「1985年組がバースをはじめ、1人、2人と球団と揉めていなくなる。その後はとても野球をやっている雰囲気ではなかった。若手を起用するが、実力が伴っていないし、その分ベテランが割を食って雰囲気も悪くなる。柱になる選手がおらず、日本一メンバーの人気にこだわって補強もしなかったツケも出て、明らかにチーム力が落ちていた」
1989年は助っ人・フィルダーが38本塁打と気を吐き5位。しかしこのフィルダー、9月には三振に怒って自ら叩きつけたバットで骨折したうえ、契約で揉めて1年で退団。「バースの再来」と沸いていたファンをぬか喜びさせた。
1990年は再び最下位となり、翌1991年も開幕5連敗でスタート。6月には10連敗を喫するなど低迷し続け、文句なしの最下位に沈んだ。オフに行なわれたイベントでは、たけし軍団と野球をして2-4で負けた。
ファン感謝デーでの“お遊び”だとはいえ、一応プロ対アマのはず。この試合に出ていた、亀山つとむ氏が語る。
「ええ、確かに負けました。軟式だったうえ、投手はコーチがやり、内野を外野手、外野を内野手が守備していたという事情はあったが、いえばいうほど言い訳になる(笑い)。当時はPL学園より弱いなんていわれていましたね」
※週刊ポスト2014年3月28日号