では、この方法は果たして映画で成立するでしょうか? もし、巨大スクリーンに顔だけアップになるシーンが連続したら? かなりの違和感を覚えるはず。アバンギャルドを狙った芸術映画ならわかりますが。
これは、テレビドラマ独自の表現手法でしょう。家の中の小型画面だからこそ成り立つ方法。巨大なスクリーンには不向きな、「目で語らせる」手法です。
つまり、30年前のドラマは「テレビドラマにしかできないこと」を、演出と演技を駆使して追究していた、ということです。
演出家・和田勉は、テレビと映画との違いを徹底的に意識していた。もし、テレビが映画にかなわないとされるのならば、「テレビゆえの優位性」を掴み出し、それを見せつけてやろう。そんな意欲を燃やしてドラマ作りに向かっていたのでしょう。
和田勉は「テレビはアップだ」という言葉も残しています。舞台芝居にも、映画にもできない、テレビドラマだけに可能な表現技法の象徴として、「アップ」を強調したのです。そんな風に、今こそもう一度、「テレビドラマにしかできない」表現手法を追究することはできないでしょうか。
スイッチを入れるとすぐ見ることができる、家庭の中にある、人の表情を細やかに伝えやすいといった、テレビという存在のアドバンテージを味方につけて。テレビドラマ「ゆえ」の面白さを、もっともっと際立たせて欲しい。そうでなければ、家の中でも見るものがどんどん映画ソフトに置き換わっていってしまうかもしれません。このままではテレビドラマに明日はない?のかも。余計な危惧でしょうか。