楫取ら長州出身者に批判的な声が上がる背景には、戊辰戦争から明治にかけての長州藩への複雑な思いもある。高崎市在住で共愛学園前橋国際大学名誉教授(近代日本政治史)の石原征明氏がいう。
「戊辰戦争時、高崎藩主は明治新政府の岩倉具定・総督軍を土下座して迎え入れ、1万両と武器・食料を差し出した屈辱的な歴史がある。その後も明治政府の命令には意に沿わないものでも従わざるを得なかった。当時の県庁の役人はすべて新政府側の人間で、県令が楫取だったこともあって長州出身者が最も多かった。そうした群馬の人々の不満が噴出したのが、県庁移転のデモ行進だったわけです」
高崎市在住の80代男性がいう。
「今回の大河は安倍首相のゴリ押し企画という報道もあったが、それが本当なら長州のやりたい放題は今も昔も同じということ。もし今後、大沢たかおの楫取県令が“富岡製糸場を立て直して群馬を救ったヒーロー”と描かれて、県庁問題で逃げたことは描かれないのであれば黙ってはいられません」
楫取の玄孫で「ぐんま『花燃ゆ』プロジェクト推進協議会」名誉顧問の楫取能彦氏はこう語る。
「県庁移転の際の素彦は“あっちを立てればこっちが立たず”で苦しい立場だった。本人も辛かったのでしょうが、ベストの選択をしたと思います。とはいえ高崎の人々から恨まれていることもよくわかる。今後、群馬に行った素彦がどう描かれるか、ヒヤヒヤものです(笑い)」
※週刊ポスト2015年2月20日号