【書評】『吉原まんだら 色街の女帝が駆け抜けた戦後』清泉亮著/徳間書店/1800円+税
【評者】井上章一(国際日本文化研究センター教授)
千束の旧吉原遊郭跡地にのこる道路は、そのなかほどがややくぼんでいるという。雨の日には、とうぜん水たまりもできやすい。ひやかしの男たちも、おのずとそこをさけ、道の両端を歩くようになる。つまりは両側の娼家へ、たやすくひきこまれるという暗々裡の細工が、できていたらしい。
これは、吉原でくりひろげられた、女を売る商売の戦後史にいどんだ本である。斯界の長老、「帝王」、「女帝」とよばれる経営者に、取材を敢行した。そのうえで、赤線からトルコ風呂、ソープランドへいたる歴史を、うかびあがらせている。水たまりの話のみならず、このなりわいならではの澱や滓を、ひろいだした労作である。
なかでも、店や不動産の権利者がどう推移したかをとらえたところは、出色。登記簿の記録も、たんねんにしらべており、話にたしかなうらづけがある。赤線廃止後に銀行がしめした対処ぶりも、おもしろい。いわゆる資産家たちにとって、娼館の経営とはなんであったのかが、よくわかる。ボイラー技師とのかかわりも、考えさせられた。売買春史を論じた類書にない、ディテールの充実ぶりが、読み得である。
「女帝」の家には、警察からの感謝状が、数多くかざられていた。防犯面での貢献ぶり、あやしい男の来店を通報したことなどが、評価されたのだという。公的な警視庁史などの本が、けっしてふれないだろうこういう知見も、多としたい。また、「帝王」は外交筋の賓客を性的にもてなすことで、当局に力をかしてきた。これも、外務省やその周辺が見て見ぬふりをするにちがいない裏話で、興味深い。
著者は、名もない庶民によりそいつつ、彼らの歴史をえがきたいという。「帝王」も「女帝」も、その志に共感をしめして、この取材をうけいれた。しかし、「帝王」は、自分の名が本などでとりあげられることに、よろこびをかくさない。「名もなき」と言われる人の、ささやかな野心も見おとさない観察眼が、光る。
※週刊ポスト2015年5月29日号