「安倍家」「岸家」という名門政治家血族の取材を40年以上にわたって続けてきた政治ジャーナリスト・野上忠興氏が『週刊ポスト』でレポートしている安倍晋三首相に関するノンフィクション。父・晋太郎氏の死の2年後の1993年、安倍氏は衆議院選挙で初当選を果たす。その後の安倍氏の歩みを追った。(文中敬称略)
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政治家の道を踏み出した安倍は、初当選からわずか10年で自民党幹事長、2013年(当選5回)で総理大臣へと上り詰めた。
大所帯の自民党の出世階段からいえば、当選5回は衆院の常任委員長か初入閣の可能性がある程度の年次だ。父の晋太郎も初当選(1958年)から14年目の頃は国対副委員長でしかなく、待望の初入閣(農林大臣)はそれから2年後の1974年、16年目のことだった。
1977年11月、晋太郎が福田赳夫内閣で官房長官に就いた直後の言葉を思い出す。所狭しと並んだ胡蝶蘭の芳香が漂う官房長官室でのことだ。筆者が「総理・総裁へのステップをまた1つ踏んだわけですね」と水を向けたところ、晋太郎は苦笑しながらこう返した。
「いやいや、(佐藤栄作まで首相を7人輩出している)山口県の人間は、政治家は総理大臣になって当たり前で官房長官て何なのという思いしか抱いていないよ。まだまだいくつも段階を踏んで自分を鍛えないと。これから、これから。総理・総裁なんておこがましいよ」
生前、晋太郎の謙虚さとバランス感覚には誰もが一目置いていたが、この外連味のない言葉と、安倍の政治家人生を重ね合わせると、その“落差”、つまり努力を重ねても報いられなかった「父」と、重要閣僚を経験せずに短期間に総理大臣まで駆け上がった「子」の政治家人生の違いに、どうしても思いがいく。
政界入りした安倍が、試行錯誤を繰り返しながら政治家としての信念や政策を自ら血肉としていく時間もないまま、「岸の孫」「晋太郎の息子」という七光りを背に浴びて、学生時代と同じように苦労もないまま、敷かれたレールの上を走ってきただけでは――と見るのは酷すぎるだろうか。
政治家になってからの安倍が、突如としてタカ派の言動を際立たせていく姿にも違和感を禁じ得ない。その契機が、小泉内閣の官房副長官だった2002年、早稲田大学での講演で言い放った核武装論だろう。
「自衛のための必要最小限度を超えない限り、核兵器であると、通常兵器であるとを問わず、これを保有することは、憲法の禁ずるところではない」
「核兵器は用いることができる、できないという解釈は憲法の解釈としては適当ではない」
その翌年に評伝刊行のため取材した安倍の学生時代の友人や恩師たちは、幹事長に就いた安倍の異例ともいえるスピード出世に驚くとともに、この発言に戸惑いを隠さなかった。