ジャイアント馬場とアントニオ猪木、ふたりのスーパースターの活躍を軸として日本プロレスの軌跡を振り返る、ライターの斎藤文彦氏による週刊ポストでの連載「我が青春のプロレス ~馬場と猪木の50年戦記~」。今回は、東京オリンピックを半年後に控え、高揚感に包まれていた日本を旅立ったアントニオ猪木の約2年間という長きアメリカ遠征での戦いと成長をたどる。
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昭和39年4月から昭和41年4月までの猪木の2年間の米本土ツアーの遠征コースは、中西部カンザス、カリフォルニア、オレゴン、南部のテキサスとテネシーの各エリア。帰国前には再度、中継地ハワイに立ち寄るというプランだった。
馬場が遠征したニューヨークをはじめとする東海岸エリア、デトロイト、シンシナティといった都市部のメジャー・テリトリーと比較すると、アメリカの玄関口である西海岸エリア以外では、猪木はどちらかといえば田舎町のローカル団体ばかりを巡業した。
最初の遠征地、カンザスでの猪木のリングネームは“トーキョー・トム”。
猪木をカンザスに呼んだのは、昭和35年と昭和38年に2回来日し、力道山のインターナショナル王座に挑戦したこともある元NWA世界ジュニアヘビー級王者の大ベテラン、サニー・マイヤースだった。
前年の昭和38年7月から11月まで5か月間、日本に滞在したマイヤースは、猪木のレスラーとしての潜在能力を高く評価していた。
猪木は、カンザス州カンザスシティー、ミズーリ州セントジョセフ、アイオワ州デモインといったNWAセントラル・ステーツ地区を約2か月間サーキット。タッグマッチながら、元NWA世界ヘビー級王者パット・オコーナーと対戦した。
6月下旬にいったん西海岸に戻り、11月までの約4か月間はロサンゼルスを拠点にサンディエゴ、ロングビーチ、パサディナなどをツアー。ここではロサンゼルスの日本人街リトル・トーキョーにちなんで“リトル・トーキョー”というリングネームを名乗った。
西海岸エリアでは主にミスター・モトとのジャパニーズ・コンビで活動し、ザ・デストロイヤー&ハードボイルド・ハガティが保持していたWWA世界タッグ王座に挑戦した(10月14日=ロサンゼルス、オリンピック・オーデトリアム)。
シングルマッチではデストロイヤー、フレッド・ブラッシー、ディック・ザ・ブルーザーといった超一流どころとも対戦。“番付”はメインイベンター・クラスのすぐ下あたりだった。