手紙は2月下旬に台中市の烏日郵便局に届いたが、宛先不明で局内にしばらく保管されていた。高木さんが書いた宛先の住所は、『海角七号』同様、今は存在しない住所だったからだ。
届けられないままの封筒を見つけた入局3年目の郭柏村さん(28歳)が日本に送り戻すべきかと上司の陳恵澤さん(56歳)に相談したところ、陳さんは美しい毛筆で書かれた宛先と、8mmほどもある封筒の厚さを見て「これは大切な手紙に違いない」と確信し、郭さんを含めた4人のチームを組んで現在の住所を探すことにした。
「この名前知りませんか?」と一軒一軒尋ね歩き、番犬に吠えられたりもしながら探し続けること12日間。ようやく楊漢宗さんの息子である楊本容さん(68歳)の元に届けられた。
楊漢宗さんは現在パーキンソン病で身動きが取れないが、ベッドの上で息子の本容さんが手紙を広げてみせると、嬉しそうに何度も頷いた。手紙にはほかにも何人もの教え子の名前が列挙され、元気かどうかを〈成績優秀な明晰な楊様におたずね致します〉と書かれていた。その手がかりとして、当時の卒業写真とクラス名簿が同封されていた。
パーキンソン病の父に代わって、同級生を探し出す役目を担ったのが息子の本容さんだった。
名簿をもとに父の同級生を何人か探し出し、高木さんからの手紙を見せて回った。教え子たちはみな驚き喜び、幼少期の記憶に残る日本語を思い出しながら、高木さんに返信の手紙を日本語で書いて送った。すると高木さんは一人ひとりの生徒にさらに返事を書き、卒業以来、80年ぶりに旧交を温めた。
●文/西谷格(在中国ライター)
※SAPIO2015年8月号