祇園祭の歴史は、平安時代に遡る。貞観11(869)年、京都に疫病が流行し、当時の国の数だけ矛(=鉾)を神泉苑に立て、悪疫退散の御霊会(ごりょうえ)が行なわれた。このとき祇園社(現在の八坂神社)から御祭神を祀る神輿が祭場に送られた。矛の切っ先で悪疫、怨霊の根を絶つという悪霊鎮めの祭だった。
祇園社に祀られる神は、元々インドの祇園精舎の守護神とされた仏教系の牛頭天王(ごずてんのう)だったが、いつしかスサノオノミコトと一体視された。日本神話の荒ぶる英雄が、牛頭天王の鋭い角を武器に悪疫・怨霊をなぎ倒すイメージに重なった。
やがて時を経て変化が生ずる。祇園社本殿の神が神輿に乗って仮殿(いわゆる御旅所)に移り、神前で歌舞音曲が奏せられるようになった。諸国の芸能が披露され、華やかな祭礼へと姿を変えていく。飾り立てられた「曳き山」をくりだし、「巡行」の形式が整えられた。
祇園祭が今日のような豪華絢爛な姿の祭になったのは、桃山時代に入り、経済力を蓄えた京都の町衆が新たに台頭し、祭の運営を担ったためである。そして、『源氏物語絵巻』などの王朝絵巻に憧れる美意識が総動員されていった。
山と鉾を美しく飾り立てる巡行には、新奇な外来文化の粋(すい)と時代を拓く技術の精華が満載されている。おそらくモダンなデザインとあっといわせる趣向で、悪さを仕掛ける怨霊に目くらましをかけようとしたのだろう。
自由奔放な町衆たちの創造力と着想を眺めていて思い出されるのが、奈良時代の正倉院芸術であり、平安時代の空海によって中国からもたらされた密教芸術や16世紀のキリシタンによって導入された南蛮芸術である。これらはわが国における三大芸術運動といっていいものだが、その影響を大きく受けたのが祇園祭なのではないかと思う。
もっとも、祇園祭は長い歴史のなかで中断されることもあった。応仁の乱や幕末の蛤御門の変、第二次世界大戦である。だが、そのたびにこの祭は不死鳥のように蘇ったのだ。
祭のハイライトは、華やかな山鉾巡行だ。昭和41(1966)年から巡行は1回しか行なわれていなかったが、昨年から前祭と後祭の2本立てになった。神幸祭(祭神の御旅所への移動)と還幸祭(本殿への帰還)の2度の巡行を行なっていた伝統のスタイルを取り戻したのである。
今日の祇園祭は、動く美術館さながらの山鉾巡行を宵山の賑わいとともに楽しむ絶好の機会だ。
文■山折哲雄(国際日本文化研究センター名誉教授)
※週刊ポスト2015年8月7日号