その言動は、次郎を間近で見ていた官僚たちにとって叱咤激励となったに違いない。1945年の年末から1946年にかけて起こったバー・モウ事件のときのことである。日本軍政下のビルマ(現ミャンマー)の首相であったモウは匿ってもらっていた日本政府を裏切り、送還されれば命が危ういビルマに返されないよう時間稼ぎのためにGHQに「日本には巨大な反連合国の地下組織がある」と妄言したのだ。
次郎はそれを受けたGHQが外務省を捜索しようとしているという情報をすぐさまキャッチ。官僚たちに「明日捜索が入るぞ!」と知らせたことで、外務省は窮地を脱することができた。この一件で次郎を軽く見ていた官僚たちの評価は一変した。
そして、前述した新憲法制定のときである。1946年3月6日、この憲法草案は日本人の手によるものと事実を捻じ曲げられて世間に公表された。翌日、外務省文書の中の「白洲手記」と名付けられた文書に次郎はこう書いた。
〈コノ敗戦最露出ノ憲法案ハ生ル。「今に見てゐろ」ト云フ気持抑ヘ切レス。ヒソカニ涙ス〉
「今に見ていろ」とあえてひらがなで書いたところは、多くの官僚たちの気持ちを代弁するものであっただろう。次郎は旧態依然とした官僚組織を変えるため、時には完膚なきまでに罵倒し、組織改編まで行い役人たちに疎まれたが、国を思う心ある官僚たちは、次郎の言葉に唇をかみしめ奮起を胸に誓ったに違いない。
※SAPIO2015年10月号