◆昭和天皇の聖断
実際、グルーを筆頭とする知日派は鈴木の演説を聞き、その裏側に秘められた真意を機敏に受け取った。当時、米戦時情報局のザカリアス大佐は、「鈴木は内心では平和を考えている」との分析を記録に残している。
紆余曲折を経て、英米ソが7月26日に発したポツダム宣言は、鈴木が目指した条件付きの停戦案だった。ポツダム宣言の第13条は「日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める(以下略)」という内容であり、無条件の降伏は日本政府ではなく日本軍に対して要求されたものだった。
この宣言を受け入れるか否かで御前会議が紛糾した際、鈴木は「かくなる上は、畏れながら聖慮を拝し奉りたいと存じます」と二度にわたり昭和天皇に決定を委ね、これに応じた昭和天皇が「聖断」を下した。強い絆で結ばれた鈴木と昭和天皇の「阿吽の呼吸」が長い戦争に終止符を打ったのだった。
堤氏は「鈴木貫太郎こそ不世出の宰相だった」と語る。
「いったん始まった戦争を終わらせるのは実に難しいことですが、貫太郎は〝腹芸〟を駆使して米国にシグナルを送り、国論を束ねて条件付き降伏を勝ち取りました。知恵と勇気を振り絞った終戦交渉だったと言えます」
昭和天皇の元侍従次長、木下道雄の『側近日誌』によると、昭和天皇は鈴木をこう評している。
〈鈴木首相は、政治的技術においては近衛におよばなかったけれど、大勇があったので、よく終戦の大業を成し遂げたのである〉
裏切り者と呼ばれることを覚悟し、大勇で日本を救った鈴木は1948年4月17日に他界した。死の直前、「永遠の平和、永遠の平和」と二度、繰り返したという。
※SAPIO2015年12月号