肥前平戸藩4代藩主・松浦鎮信が記した戦話『武功雑記』によれば、堺遊歴中の家康が主君・織田信長が討たれた「本能寺の変」を聞き、狼狽して「自分も京都の知恩院で腹を切る」と言ったのに対し、「ここは何とか生き延びなければ」と家康を諫めた。
我に返った家康は三河まで戻る手立てを考え始めたと伝えられている。前述したとおりドラマでも、家康に冷静沈着な物言いで伊賀越えを進言する姿が描かれた。
そんな忠勝には様々な伝説が残るが、大きな魅力はなんといってもその強さにある。一場氏が解説する。
「忠勝は13歳の時に、『桶狭間の戦い』の前哨戦である大高城兵糧入れで初陣を飾ってから、大小50数回の戦いで一度も手傷を負わなかったと言われています」
鳥屋根城攻めに参加した14歳で初めて敵の首を討ち取ったが、その際にはこんなエピソードもある。
一緒に戦った叔父の忠真は忠勝に初首を挙げさせようと敵兵を抑え、忠勝に首を取るように言った。ところが忠勝は「なぜ私は人の力を借りて、武功を挙げなければならないのか」と言って自ら敵陣へ向かい、敵の首を挙げたと伝えられている。幼い頃から備わった勇猛果敢さを物語っている。
忠勝の武術における相棒であり、象徴ともいえるのが「蜻蛉切(とんぼきり)」という長槍だ。長槍の柄の部分は通常4.5mほどだったが、蜻蛉切は6mもあった。
「室町時代の刀鍛冶、村正の流れを汲む藤原正真が鍛えた槍で『天下三名槍』の一つです。凄まじい切れ味を誇り、戦場で槍を立てていた時に槍の穂先に蜻蛉が止まった瞬間、真っ二つに切れたという伝説から、この名が付いたといわれています」(前出・一場氏)
※週刊ポスト2016年3月4日号