◆書くとき映像は思い浮かばない

 水穂、夫の寿士、寿士の女友だち、寿士の母、水穂の友だち、水穂の母……。夫婦、嫁姑、親子といった関係性から語られるたびに、里沙子の目に〈ごくふつうの人〉に見えた水穂という女性は、〈異常なプライドの高さ〉〈極度に自信をなくしている〉〈「気の毒」な暮らしをしている〉と姿を変える。家庭という〈二人きりの密室で、いったいどんなやりとりがあったのか〉も、どんどんわからなくなる。

 初めての経験に押しつぶされそうになった里沙子は、ふとした誤解から陽一郎に、娘の虐待とアルコール依存を疑われる。裁判の影響で、夫や義母に対して疑心の念を深める里沙子の心の揺れが、息づまる心理ドラマとして描かれる。

「出版前にゲラを読んでいたとき、最後の最後に、実はこの里沙子という女がおかしくて、周りは何ひとつ悪くないんじゃないか、と思ってぞっとしたんですけど、まさに読み手がそう感じるように書きたかったので、ぞっとした後で、自分で『よっしゃあ』と思いました(笑い)」

 ドラマ化・映画化された『八日目の蝉』以降、事件を題材にした社会派小説は、角田光代という作家の、ひとつの太い柱になっているように見える。

「一作一作、書く理由は違っていて、『八日目の蝉』の時は、生活ばかり書く作家だと言われたことがあったので、じゃあそれをやめてみよう、と事件を題材にしました。『三面記事小説』は、亡くなった寺田博さん(元「海燕」編集長)に『永井龍男が昔、書いたみたいに、平成の三面記事小説を書け』、と言われたのを思い出したからですし、『紙の月』は横領事件というよりへんな恋愛を書きたかった。自分の中では『社会派』というくくりではないですね」

 裁判の途中で里沙子は、被告の住まいがかつて〈チラシで見た家〉だと気づく。本のタイトルは、被告と自分を重ねる彼女の心情を象徴して映像的だが、意外にも角田さんは「昔から、書くときいっさい映像が思い浮かばないタイプ」で、「坂の途中の家」は忌野清志郎さんの「多摩蘭坂」の中の一節だという。

「すごくいい歌で、ぜんぜん怖い内容でもない。小説はかけ離れているので、ちょっと申し訳ない気がします(笑い)」

【プロフィール】角田光代(かくた・みつよ):1967年神奈川県生まれ。早稲田大学卒。1990年「幸福な遊戯」でデビュー。1996年『まどろむ夜のUFO』で野間文芸新人賞、2005年『対岸の彼女』で直木賞、2006年「ロック母」で川端康成文学賞、2007年『八日目の 』で中央公論文芸賞、2011年『ツリーハウス』で伊藤整文学賞、2012年『紙の月』で柴田錬三郎賞、同年『かなたの子』で泉鏡花文学賞、2014年『私のなかの彼女』で河合隼雄物語賞。現在、2017年から刊行予定の「源氏物語」現代語訳に取り組んでいる。158cm、O型。

(構成/佐久間文子)

※週刊ポスト2016年3月18日号

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