◆在日ヤクザの「汚れ仕事」
“暴れん坊”ゆえ、在日ヤクザは出世したのではない。むしろ逆だ。彼らはヤクザ界の生存競争のなかで、緻密さやしたたかさを磨いていった。
あまり語られることはないのだが、出世した在日ヤクザには表の金融業や不動産業と結びついた「経済ヤクザ」が少なくない。現在の主要な指定暴力団の親分や最高幹部クラスにも、図抜けた財力を持つ面々が並ぶ。山口組2次団体の元企業舎弟が話す。
「在日に対する民族差別があったのは事実だし、大多数が貧しかったにしても、そうした逆境から度胸と才覚で這い上がった成功者も多かった。特に金融業界に在日は多い。そして、彼らの周りには、在日ヤクザが必ずついていた」
かつて、在日はまともな事業者であっても、日本の金融機関から融資を受けるのは難しかった。そんな中、「民族産業」のひとつとして発達した商売が高利貸しである。
怨嗟と羨望が入り交じるなかで生きる彼らは、身辺警護や取り立てに在日ヤクザの「力」を利用した。一方、ハイリスク・ハイリターンなシノギを稼業とするヤクザにとって、高利貸しは非常に便利な存在である。両者は持ちつ持たれつ、財力をなしていった。
資産インフレが続いた高度成長期には、パチンコや不動産業にも彼らは進出した。
「在日にはパチンコ業で財を成した人間が多いが、その一部はヤクザとも手を組んだ。彼らは駅前の一等地を、相場より高いカネを使ってでも押さえていった。当然、同業者と競合するからヤクザの腕力も必要だった」(西日本の金融業者)
どんなビジネスにも「汚れ仕事」の需要はあるものだが、1980年代のバブル期にはむしろ、こうしたやり方が日本経済の主流にさえなった。不動産価格が毎日のように上昇する中では、1日も早く土地を仕入れることが大事だ。銀行のグループ会社や上場デベロッパーが地上げに手を染め、その現場を担ったのが「スピード=腕力」に定評のあるヤクザ組織だった。
そして、当時暗躍したバブル紳士たちの中心に、ヤクザとつながる在日人脈がいたのもまた事実だ。
事業家だけでなく、政治家との関係も深い。筆頭に名前が上がるのは町井久之だろう。町井は、本名を鄭建永という。
1923年、東京に生まれた町井は戦後、在日を中心に1500人の無頼漢を糾合し、東声会会長として名をはせた。政界の黒幕・児玉誉士夫と昵懇であり、日韓国交正常化の立役者だった岸信介にも接近。国交正常化後、ソウル市地下鉄開発など巨額ビジネスを差配していた岸は、日韓利権の入り口とも言える存在だったからだ。
ほかにも前述した柳川や会津小鉄会の四代目会長だった高山登久太郎(姜外秀)が、韓国情報機関のエージェントとして日韓関係構築の黒子となって動いていたとの説もある。
つまりは民族差別によってオモテ社会からはじかれ、日本政財界の「周辺」で蠢いていた在日ヤクザたちは、時代の変化の中でその「中心部」に呼び込まれたわけだ。
だが、苛烈だった民族差別もいつしか消え、若い世代の在日にそれを体験した人は少ない。4世以降は、生まれつきオモテ社会の住人として認められている。
日本人と同様にスポーツや勉強に打ち込み、就職氷河期も経験してきた彼らに、先輩世代のヤクザのような「汚れ仕事」の腕を磨く余地は、多くはなかったのだ。
●李策/1972年生まれ。朝鮮大学校卒。日本の裏経済、ヤクザ社会に精通。現在は、北朝鮮専門ニュースサイト「デイリーNKジャパン」記者として、朝鮮半島関連の取材を精力的に続けている。
※SAPIO2016年4月号