◆「私がいなきゃ何もできなかった」

 オランダ中部・ユトレヒトの中心に住むプックが、私のホテルまで車で迎えにきた。こんな形で再会できることを、私は、素直に感謝した。足の悪い75歳の老人が、トヨタのヤリス(日本名はヴィッツ)のハンドルを握り、時速120km出して、飛ばした。

 アムステルダムから20km程離れた、洒落たレンガの一軒家が連なるアイトダム村に着いたのは、午後5時だった。

 黒い愛犬・ヤンセンの散歩から帰ってきたネル・ウェイル(63)が、私たちを彼女の自宅に招いた。

 彼女の表情は、どこか悲しそうだった。私も少しずつ、慣れてきた。この取材を始めてからというもの、笑顔をむき出しにして、私を歓待する人なんていないという現実に……。

 別荘地にあるようなコテージ風の住宅の横には、白雪姫に登場する7人の小人が住むようなミニハウスが2軒あった。客室専用住宅だという。

 ネルは、自宅周辺で飼育されている乳牛のミルクを別に温め、私とプックに丁寧に仕立てた濃厚ミルクコーヒーを用意した。3人が、長い木製のキッチンテーブルを囲んで腰掛けると、未亡人は、この時まで他人に話すことのなかった、安楽死までの経緯を3時間にわたって語り始めるのだった。

 多くのオランダ人と同様、高校の数学教師だった夫のウィル・フィサーも船が好きだった。居間のタンスの上には、船上の夫の写真が2枚あった。

「船の上では、本当に難しい人だったんですよ。絶対に私に触らせないの。『お前は、何も知らない。船の上では、俺がキャプテンだ!』って」

 大嫌いだったウィルの側面を吐露しながらも、未亡人の顔は、苦い経験を懐かしむ表情に変わっていた。そして、ワイングラスを傾け、写真を見つめながらこう付け足した。

「本当は、私がいなきゃ、何もできなかったの、この人……」

 教員生活を終えたウィルは、趣味に没頭する時間がたっぷりあった。家の中では、クラシックやジャズ音楽を鑑賞し、アルトサックスも吹くようになった。

 ところが、ある時からサックスの音が上手く出せない。マウスピースとリードの細い空間に強く息を吹き込めない。そして左顎骨周辺が口腔扁平上皮(へんぺいじょうひ)癌に冒されていることがわかった。

 癌の進行は早い。癌が見つかってから7か月後、死の2か月前には、咽喉部分にまで広がり、激痛とともに、呼吸さえも困難な状態になっていく。病院からはモルヒネを処方され、胸部にモルヒネテープを貼った。妻は、痛み止めの注射を医師から渡されていたが、憂鬱なウィルは「そんなのを打って俺を殺す気か」と、叫んだ。

 しかし、ウィルも、一方で自らの死を実に冷静に捉えていた。癌が発見される数年前から、自分の葬式の準備も始めていた。死の数週間前に2人で行ったベルギー旅行では、縁起でもないが現実的な話を持ち出した。

「僕が死ぬ日にパーティーをしよう!」

 妻は、とんでもないアイデアに反対した。それは、安楽死を意味することだと気がついたからだ。

「私は、元看護師だったので、死はごく日常の光景でした。ウィルは違う。正直、彼の死生観について話し合った時、とても驚きましたね」

 2012年3月の第1週、2人は初めてホームドクターに相談。過去に患者を安楽死させた経験のない当時35歳の女医は「私が引き受けます」と、彼の希望をすんなりと受け入れた。

 若い女医は、これから長く続くキャリアの中で、「一度は経験すべきこと」と捉えたのかもしれない。ウィルの最期を看取るまで、女医はこの日から決行までの約3週間、6度にわたり来診。患者の病状や心理的状態、そして安楽死の方法の説明を行っていった。ドクターは、ある日、患者に質問をした。

「注射と毒薬と、どちらの死に方を望みますか」

 躊躇せず、ウィルが答える。

「注射にしてください、先生。友達が外でパーティーをしている中で、私がなかなか死なないなんてことにならないようにね……」

 オランダでは医師が注射を打ち、患者を死に至らす積極的安楽死と、患者自らが毒薬を飲んで死ぬ自殺幇助がある。スイスと異なり、患者に選択肢がある。大半は注射を選ぶという。

 パーティー前夜、2人は、眠れぬ夜を過ごした。

「ねえ、ウィル、私がもし将来、他の男性を見つけたとしたら、どうする?」

「それは構わないよ。君が幸せであるならね。だけど、(パーティーに呼んだ)あの中の誰かだけは避けてくれよ。死にたくても死ねなくなっちまうよ」

 私がこの会話に驚くとネルは、「からかったつもりなんだけどね」と、苦笑した。

「とにかく怖かった。少しでも笑っていたかった。それに、もし話しかけなければ、このままウィルが死んでしまうのではないかと。だから私は、夜通し、彼を見つめていたわ……」

関連キーワード

関連記事

トピックス

NHK中川安奈アナウンサー(本人のインスタグラムより)
《広島局に突如登場》“けしからんインスタ”の中川安奈アナ、写真投稿に異変 社員からは「どうしたの?」の声
NEWSポストセブン
カラオケ大会を開催した中条きよし・維新参院議員
中条きよし・維新参院議員 芸能活動引退のはずが「カラオケ大会」で“おひねり営業”の現場
NEWSポストセブン
コーチェラの出演を終え、「すごく刺激なりました。最高でした!」とコメントした平野
コーチェラ出演のNumber_i、現地音楽関係者は驚きの称賛で「世界進出は思ったより早く進む」の声 ロスの空港では大勢のファンに神対応も
女性セブン
文房具店「Paper Plant」内で取材を受けてくれたフリーディアさん
《タレント・元こずえ鈴が華麗なる転身》LA在住「ドジャー・スタジアム」近隣でショップ経営「大谷選手の入団後はお客さんがたくさん来るようになりました」
NEWSポストセブン
元通訳の水谷氏には追起訴の可能性も出てきた
【明らかになった水原一平容疑者の手口】大谷翔平の口座を第三者の目が及ばないように工作か 仲介した仕事でのピンハネ疑惑も
女性セブン
襲撃翌日には、大分で参院補選の応援演説に立った(時事通信フォト)
「犯人は黙秘」「動機は不明」の岸田首相襲撃テロから1年 各県警に「専門部署」新設、警備強化で「選挙演説のスキ」は埋められるのか
NEWSポストセブン
歌う中森明菜
《独占告白》中森明菜と“36年絶縁”の実兄が語る「家族断絶」とエール、「いまこそ伝えたいことが山ほどある」
女性セブン
大谷翔平と妻の真美子さん(時事通信フォト、ドジャースのインスタグラムより)
《真美子さんの献身》大谷翔平が進めていた「水原離れ」 描いていた“新生活”と変化したファッションセンス
NEWSポストセブン
羽生結弦の元妻・末延麻裕子がテレビ出演
《離婚後初めて》羽生結弦の元妻・末延麻裕子さんがTV生出演 饒舌なトークを披露も唯一口を閉ざした話題
女性セブン
古手川祐子
《独占》事実上の“引退状態”にある古手川祐子、娘が語る“意外な今”「気力も体力も衰えてしまったみたいで…」
女性セブン
ドジャース・大谷翔平選手、元通訳の水原一平容疑者
《真美子さんを守る》水原一平氏の“最後の悪あがき”を拒否した大谷翔平 直前に見せていた「ホテルでの覚悟溢れる行動」
NEWSポストセブン
5月31日付でJTマーヴェラスから退部となった吉原知子監督(時事通信フォト)
《女子バレー元日本代表主将が電撃退部の真相》「Vリーグ優勝5回」の功労者が「監督クビ」の背景と今後の去就
NEWSポストセブン