◆女医はとどめの1本を打てず

  翌日午後1時、パーティーが始まった。身内は14人で、友達が12人だった。あたかも、ウィルの誕生日パーティーを始めるかのように和気藹々としていた。全員がシャンパンを持ち、このパーティーの「主人公」となったウィル自ら乾杯の音頭をとった。

 グラスを持ち上げたウィルが、妻に最後の不満をこぼした。

「こんな形のグラスじゃ、僕は飲めないだろ」

 喉の疾患に苦しむ彼は、細いシャンパングラスだと、顔を上に向けて液体を流し込まなければならず、具合が悪い。いずれにしても、一杯丸ごと飲み干すことは不可能で、「口にしたのはほんの数滴」と、ネルは語った。

 午後3時、女医がパーティー中の庭に姿を現した。すぐに夫妻の寝室に向かって致死薬の用意に取りかかった。

 ウィルは、病気の診断以降、ずっと止めていた大好物の手巻きタバコ「サムソン」を1本巻いた。火をつけて、煙をそっと肺の中に吸い込むと、それで十分に満足した。

 タバコをもみ消し、集まった友人たちに最後の挨拶を告げた。

「僕はこれからベッドに行って死ぬ。最後までパーティーを楽しんでくれ。ありがとう」

 招待客全員が一斉に笑ったが、すぐに真顔に戻った。愛犬のヤンセンは、プックの足下に座って鼻をクンクンさせ、部屋に消えるウィルを見送った。パーティーは、その後も庭で、友人招待客のみで継続された。

 ウィルとネルの寝室には、身内の中の8人が招集された。妻は、仰向けになる夫の右側に、女医は左側の位置につく。女医は、用意した注射に指先を集中させる。室内に会話はない。

 ウィルが女医を見て呟く。

「さあ、先生、お願いします」

 女医が、ゆっくりと眠らせていく麻酔系の注射を1本、2本、呼吸を止める注射を1本と打っていく。ウィルは、うつらうつらとし、目を閉じていく。ベッドを囲む8人は、初めて目にする安楽死に、身体が凍っていく。

 心臓を停止させる最後の注射を手にした女医の様子が、なんだかおかしい。ネルの妹の1人が「先生?」と囁く。うつむいたままのドクターの手が震えている。目からは、大粒の涙が頬を伝っている。とどめの1本が打てない。

 夫の手を握りしめたネルが、涙をこらえながら言った。

「先生、私たちは大丈夫ですから、もう逝かせてあげてください。私はもう用意ができています」

 家族に支えられた女医は、頷き、最後の1本をウィルの体内に打ち込んだ。心肺停止は、10分後に確認された。

 医師も人間。人の死を助ける安楽死といえども、医師は注射によって他人の命を意図的に終結させる。患者が感じる死の幸福を、医師が感じることはできない。女医が涙したというこの話を聞き、私はなんだか安堵した。

 ウィルの死後、庭に出ていた参加者は室内に集まり、黙祷を捧げた。2012年3月27日、ウィルはこの世を去った。享年66だった。

 ストーリーを聞き終えた私は殴り書きしていたノートを閉じた。突然、会話が消え、沈黙が続いた。

 横を向いた瞬間、ネルが涙を流していた。出会いから別れの記憶を、無理やり私が引き出したせいに違いない。隣のプックが、友人の肩を抱き、慰めている。私は、咄嗟に次の言葉を発していた。

「貴重なお話伺えて感謝しています。ウィルさんは幸せだったと思いますよ」

 私は3時間話を聞いただけだ。無責任な言葉かもしれないが、本心だった。突如、夜空で雷がうねり出した。

「美しい光ね」

 ネルは、ただ、そう言って、頬にこぼれ落ちる涙を拭いた。帰り道、落雷と豪雨で視界が悪いなか、プックが、私を乗せて堤防沿いの細道を運転していった。大通りに出ると、時速120kmに上げる。

「白ワイン4杯も飲んでいたのに、大丈夫ですか?」

「何言っているの。じゃあ、どうやって帰るのよ。あなた、もしかして怖いんじゃないわよね?」

 オランダ人は死を恐れない国民なのか。いや、生きることに積極的、かつ合理的なのだ。そう無理矢理納得させて、ハンドルを片手にFMラジオのボリュームを絞るプックのがむしゃらな運転に、私は身を委ねることにした。

●みやした・よういち/1976年、長野県生まれ。米ウエスト・バージニア州立大学外国語学部を卒業。スペイン・バルセロナ大学大学院で国際論とジャーナリズム修士号を取得。主な著書に『卵子探しています 世界の不妊・生殖医療現場を訪ねて』など。

※SAPIO2016年7月号

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