「1700年代に書かれた『真武内伝』には“西尾仁左衛門は信繁(幸村)が乗っている馬の尻尾を掴んで引き止めた”という内容の記述があります。それに応じた信繁は一騎打ちに臨んだとする史料です」
この説では、一騎当千の幸村をして、思う存分に戦えない状況だったとされている。
「最後の一騎打ちの時、すでに信繁は13の傷を受けており、さらに体には矢が刺さったままだった。信繁は馬上から転がり落ち、西尾はその首を討ち取ったといいます」(同前)
矢尽き刀折れた堺雅人が無念の表情を浮かべながら無名の武士に討ち取られる──こちらのほうが盛り上がるラストにはなりそうだ。前出の北川氏も続ける。
「大坂夏の陣の数日後に書かれた細川忠興(矢柴俊博)の書では、『古今なき大手柄』を立てた幸村も、田んぼの畦で『手負い候し、くたびれ果て倒れ』ているところで西尾に出会い、討ち取られたとされています」
さらに悲惨な説もある。一騎打ちではなく、大勢に仕留められたという説だ。福井県立図書館に所蔵される『松平文庫』には、西尾は相手が幸村だと知らずに討ったと書かれている。
「西尾が敵中に入った時、位の高そうな『よき敵』と遭遇。互いに馬から下りて槍で戦い突き倒し討ち取ったと記録されています。西尾が幸村の首だと知ったのは、夕方に幸村の顔を知っている備前松平家の家臣が陣中見舞いに来た際のことだと書かれているのです」(前出・井手窪氏)
当時、一騎打ちでの戦いでは名乗り合うことが多かった。名乗らずに戦い始めるのは相手が複数の場合。つまり、「幸村は西尾ら松平軍の複数の兵と戦い、自分が誰なのかを知られないまま討たれてしまったという説」(同前)なのである。
ちょっと拍子抜けな流れだが、“こいつが誰だか知らないのか!?”といった場面が、三谷流アレンジで盛り上がりそうにも思える。
※週刊ポスト2016年11月18日号