たとえば、特攻艇の隊長だったのについに出撃の機会を得ずに終戦を迎えた島尾は、「自分は小説を書く必然的な立場がない」と考えていた。そこで「生々しい手応えのある悲劇」を手に入れるため、意図してミホが自分の日記を見るように仕向けたのではないか、と著者は推測する。
『死の棘』に登場する愛人のモデルはこれまで謎とされてきたが、取材によって特定されて実像が明らかになり、「不幸な亡くなり方」をしたことまで突き止められた。文学のために現実世界で〝事件〟を起こし、それによって妻を発狂させ、愛人を不幸な死に方に追いやる。作家の業の何と罪深いことか。島尾とミホの息子は著者にこう言っている〈すべての人を不幸にしても、書きたい人だったんですよ〉。
島尾は書く必然を手に入れた。だが、ミホが想定以上の狂気に至り(数か月の入院もした)、仮借のない糾問を始めると、ミホを宥め、ミホに服従するほかなくなった。そればかりか、『死の棘』を含め島尾が発表する文章はすべてミホの検閲を受け、ミホの要求を受け入れて「神話」に沿うように原稿を直すこともあった。“事件”以後、ミホは〈書かれることで夫を支配〉し、〈島尾の作品世界に君臨〉するようになった、と著者は書く。その意味で「神話」の真の創り手はミホだったのだ。
実は、死後に発見された草稿などにより、島尾の死後、ミホが自分の立場から見た赤裸々な『死の棘』を書こうとしていたことが明らかになった。他ならぬミホ自身に「神話」の解体願望があったのだ。だが、結局、ミホは真実を描く作家ではなく、「神話のヒロイン」であり続けることを選び、作品は完成も発表もされなかった。
読み終えて思う。作品の外側の現実には、安易な神話化を許さない修羅があり、純粋無垢とは正反対の人の醜さがあった。本当は島尾もミホもそれを書きたかったのではないか。その意味で本書は、梯久美子という優れた作家によって書かれた『完本・死の棘』なのである。
※SAPIO2017年1月号