当時から、警察は多くの関係者を“参考人”として聴取してきた。平岡さんと同じキャンパスに通う大学院生だったA氏もその一人だ。A氏が振り返る。
「刑事がやってきたのは、平岡さんの遺体発見の数週間後でした。遺棄現場に続く高速道路のNシステム(自動車ナンバー自動読み取り装置)に私の車が写っていたのが理由でした。刑事は自宅の風呂を見た後、“家にある刃物を見せてほしい”とナタや包丁を入念にチェックしていた。
その後も何回も刑事がやってきたことで、近所や学校でも噂が広まり、私が姿を見せると“犯人が来た”とからかわれました。刑事は“隠れて来てるから大丈夫”と言っていましたが、バレバレだった」
A氏だけではない。当時、平岡さんにアルバイト先を紹介していた大学の友人B氏の知人が明かす。
「当時、平岡さんとBは仲が良く、平岡さんからの相談を受けてBがバイト先を紹介したところ、彼女は“時給が上がる”と喜んでいた。事件は“転職”直前に起きたものでした。
Bは平岡さんにバイトを紹介しただけなのに、警察はBが何らかの事情を知っているだろうと決めつけ、何度も彼を事情聴取しました。すぐに学内でも噂となり、Bに対する周囲の目も変わった。事件の翌年、彼は大学を中退した」
A氏がいう。
「犯人が見つかって良かったとは思います。でも、もっと早くわからなかったのか。この7年間、地元に帰ったら“本当は犯人なの?”と言われ続けた。警察に犯人扱いされたことへの憤りは消えません」
7年間という年月は多くの人々に深い爪痕を残した。
※週刊ポスト2017年1月13・20日号