映画業界が斜陽になり、テレビから新たなスターが出現し始めた1970年代、月刊誌『近代映画』(1945年創刊、1996年『Kindai』に改題、2009年休刊)は邦画誌からアイドル誌へ路線を切り替えた。
既に『平凡』『明星』がアイドルに特化していた時代、どう差別化を図ったのか。1970~1987年まで編集に携わった高野光生氏が語る。
「両誌は大御所カメラマンに依頼したり、露出のある際どい写真も撮影できた。だけど、『近代映画』は予算も厳しく、同じアイドルを撮るにしても与えられる時間が少なかった。
両誌の真似をしながら、テレビでは紹介しないプライベートを徹底的に掘り下げました。自宅の住所を載せた時期もあったほどです」
趣味や私服の紹介だけでは飽き足らず、住まいにまで迫った。実家や自宅に訪れて写真を撮ったり、見取り図で細かく再現したりした。
大場久美子はイラストの横に〈ヒーターの上に1ヶ三五〇円の花のハチ植えが5~6個あります〉〈LPが200枚以上で、そのほとんどが洋盤。自分のレコードは3枚だけ〉などの細かすぎる情報まで盛り込んだ。大場本人が話す。
「私が書いたものを担当の方が清書してくれました。置物のサイズや位置が若干違うくらいで、リアルに表現してくれました」
一方で、今だから言える裏話を高野氏が告白する。
「中には、理想の部屋を描くアイドルもいました(笑い)。マンションの一室を借りて、自室を再現したことも。時には、3人くらいが同じ場所を使い回したこともありました(笑い)」
ファンにとって、アイドルのプライベート情報は貴重だった。大場は『マンスリー日記』の連載も担当。1979年2月10日には39度の熱を発し、マネージャーに病院に連れて行かれたものの、〈お薬を下さったが、そんなの飲まずに帰ってすぐ寝ちゃった〉と本音を吐露。
翌日、〈ぐっすり眠ったせいか、頭痛はもうとれたみたい。熱は38度。もう大丈夫!〉とテレビからは窺い知れない日々を綴った。
桜田淳子も、赤裸々に語っていた。小学5年生の時、初めてのラブレターをもらう。しかし、一度も口を聞いたことのない男子のコソコソする行為が気にくわず、教室にいる友達の前で公表したことを告白。
そのため、〈「桜田にラブレターを出すと学校中にバラされるぞ」と噂になり市立西中学へ進学してからもその噂が尾を引いて二度とラブレターをもらう機会はありませんでした〉という結果になってしまったと綴っている。
■写真/『近代映画4月号』(1980年)より
※週刊ポスト2017年3月24・31日号