「やがて単なる個人的な肖像の撮影から、公共事業の記録や観光名所の紹介といった社会的な意義も持つようになりました。今日的な記録媒体としての役割を担っていったのです」(東京都写真美術館・三井圭司学芸員)
長崎出身の内田九一は宮内省(現在の宮内庁)から委託を受けて明治天皇の西国巡幸に随行、庶民が目にすることのなかった他県の情景を伝えた。
一方、1888年の磐梯山噴火や1894年の庄内地震、1896年の三陸津波などの惨状を撮影した天災記録写真も登場し、社会的な媒体として認知されていった。
日本の初期写真には、日本が西欧の技術や文化をいかに受け入れ、近代化の道を歩んできたかという歴史が刻まれている。
◆ここに掲載した写真は「田中光義像」(1854年、エリファレット・ブラウン・ジュニア撮影)。タゲレオタイプ・個人蔵。1854年に来航したペリーに同行していた写真技術者による撮影。日本で最初の日本人ポートレイト。国指定重要文化財。4月11日から展示。
※週刊ポスト2017年4月7日号