開業を待つATMスペースがむなしい(市場施設外から撮影)
◆「高度国防国家」の要衝
さて、現在では高級マンションが林立するこの豊洲の地、元来は海であった。豊洲は、1923年の関東大震災で発生した大量の瓦礫処分のための埋め立て地として出発し、おおよそ現在の土地の原型は1937年に完成した。当時は日中戦争のさなか。翌1938年、時の近衛内閣は「高度国防国家」の建設を唱え、国家総動員法を制定。急速に重工業化が推し進められた。その前衛として注目されたのが豊洲である。
1939年、石川島重工業(現IHI)の巨大造船工場がこの地に完成。総面積17万平方メートル、同工場へ勤務する労働者の街として豊洲は「高度国防国家」の要衝となった。戦後、豊洲は疲弊した日本経済を復興軌道に乗せるために採用された「傾斜生産方式」の重要地点としてまたも前衛となる。
豊洲には石炭の積み下ろし港が整備され、専用の貨物鉄道が整備された。東京都港湾局専用線(以下港湾線、開業1930年)である。1953年には江東区塩浜の越中島と豊洲を結ぶ支線(深川線)が開通。また戦後復興に伴い、急速に増大する東京のエネルギー需要を満たすために、この地にガスタンクが建設された(1956年)。これが「汚染」の由来である。
しかし、日本経済は爛熟を迎え石炭の時代は終わった。石川島の造船産業も、1980年代後半から特に韓国との競争にさらされ斜陽になった。もはや日本経済の牽引役は造船のような重厚長大型産業から半導体や家電、自動車に移り変わっていったのだ。
そんな中、深川線は時代の趨勢に沿うように1986年に廃線となり、広大な造船工場の跡地は1987年の「東京都臨海副都心計画」により、高層マンション、複合商業施設、教育施設誘致(芝浦工大)、そして当初計画では2012年に移転する予定だったはずの新市場へと、住・商・学混合の一大地区として再生するのだった。
石川島がこの間、建設した船の総数約690隻、港湾線の年間貨物取り扱い量は最盛期170万トン。まさしく豊洲は高度成長の前衛であり、そしてこの国の産業転換の姿をそのままトレースする街だ。