「ザ・ベストテン」が一九八九年に終了。系列局がないため深夜に放送されていた「夜のヒットスタジオ」も一九九〇年に終わり、音楽シーンにおいて鎖国状態となっていた飢えた子供たちに、青森朝日放送は生放送の「ミュージックステーション」を届けてくれた。
その金曜八時と、『ツインズ教師』や『南くんの恋人』の月曜八時を軸にして、一週間を生きていた。金曜六時からのピアノのお稽古では帰宅が八時を過ぎてしまうため、木曜にずらしてもらったほどだった。
現役中、安美錦との対戦を恐れた鳴戸親方(琴欧洲)が今年、佐渡ヶ嶽部屋より独立した。琴欧洲は二百四センチの長身だからこその相撲で大関になったのであり、体格に恵まれない弟子に何を指導できるのだろうかと首をひねっていた。だが私は、今年の五月場所を観戦しながらのなぐり書きに「本間、ちっこい、白い、負けたけどよかった」と書いている。
全取組にメモするほど関心を持つわけではないのだが、本間はいきいきとして目立っていた。改めて新弟子名鑑を見て本間は鳴戸部屋の力士であると知った。そして文藝春秋六月号での鳴戸親方の随筆を読んで、これはこれでありかもと考えが変わった。
東京オリンピックの影響もあり、地価が高騰している東京。二年間探し続け、女将さんがなんとか見つけてくれたのが、もとは貸倉庫として利用されていた物件だった。「いわゆる相撲部屋とはちょっとイメージが違うかもしれませんが、両国の隣の錦糸町駅からも歩ける距離にありますし、贅沢は言えません」と語っている。
私はあたたかい気持ちになった。女将さんのおかげなのだ、という感謝にあふれている。掃除や洗濯、ちゃんこ作りにしても、弟子たちは親元を出たばかりでまだできないから、鳴戸親方が中心になってやっている(ブルガリア料理を意識して、ブロッコリーの冷製ポタージュちゃんこが作られた。鳴戸親方は「最高」と自画自賛するが、弟子たち、あろうことかブルガリア人のカツァロフにも不評であった)。